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■第2章

 オペラ座の現在のプリマドンナはカルロッタというスペイン美女である。
 美しい高音を豊かな声量で響かせる姿は、その高慢で情熱的な性ともあいまって、まさにオペラの女王にふさわしい貫禄の持ち主だ。
 そんな彼女が突然休演となり、急きょ代役として白羽の矢が立ったのがクリスティーヌ・ダーエだった。
 クリスティーヌはそれまでただのコーラスガールの1人でしかなく、演目『マルガレーテ』にて村の若者役で歌う彼女に注目する者はだれもいなかった。
 そんな彼女をいきなりプリマドンナの代役に抜擢した支配人たちの決断に、その場にいた全員が驚き、ありえないと首を振った。
 しかし彼らの判断は正しかった。
 豊満な肉体美を誇るカルロッタとは対照的に、クリスティーヌは繊細な容姿と天使の歌声を持つオペラ歌手として脚光を浴び、ソロデビューを果たした。
 特に、牢獄で処刑を待ちながら『祈りの歌』を歌い、息絶えていく彼女の気高さは他に類をみない名演技で、客席はマルガレーテの死と救いに魅入られ、感動の涙を流したと、新聞はこぞって書きたて、絶賛した。
 支配人たちは彼女の隠れた才を見抜き、みごと未来のオペラ座プリマドンナを発掘することに成功したと、だれもが褒め称えた。

 だが本当に?

 クリスティーヌ・ダーエを見出し、人々の前でその能力を開花させたのは、オペラ座支配人たちだったのだろうか?



 オペラ座に向かって、通りを1台の黒馬車が走っていた。
 側面にはシャニィ伯爵家の紋章が銀で打ち出されている。
 金に縁取られたエンジの布張りの贅沢な座席に兄の伯爵と向かい合わせで座りながら、ラウル・ド・シャニィ子爵に扮したルオシン・アルカナロード(るおしん・あるかなろーど)は、前回のリストレーションを振り返っていた。
(いなくなったコトノハを捜していたらいきなり襲撃されて縛られて、地下牢に放り込まれてそのままそこに放置されていたんだったな……しかもなぜか、見知らぬ者と背中合わせで)
 たしかにさんざんな目である。
 それでよくまたリストレーションに参加しようという気になったものだ。
 これはやはり、困り事を見過ごせない、彼の正義感ゆえなのだろう。
(だが今回はそんなこともあるまい。コトノハにはまた消えたりしないようにきっちり念押しをしてあるしな)
 ルオシンはそのときのコトノハの姿を思い出した。
 スウィップのおかげで金糸銀糸に彩られた舞台衣装に包まれたコトノハは、本当に美しかった。

「私はオペラ歌手の役で、大勢の人の前で歌いますけれど、ルオシンさん、心の中ではあなたのためだけに歌います」

「何をにやついている? ラウル」
 向かいに座している兄のフィリップが、笑いながら帽子をステッキで持ち上げた。
「いえ、なんでもありません」
「うそつけ。どうせお目当てのプリマドンナのことを考えていたのだろう? 最近カルロッタの代役としてオペラ座で歌うようになった、あのクリスティーヌ・ダーエとかいう。彼女が歌う演目のある日は欠かさず通っているそうじゃないか」
「そんなことは…」
「そういえば今夜の支配人退任のガラ・コンサートの演目にもその名があったな。『ロミオとジュリエット』で恋の歌を歌うとか?」
 兄の言葉に、カッとラウルの頬が赤くなった。
 この実直な弟をからかうのは本当に面白い、と言わんばかりにフィリップがくつくつ笑う。
 今さら隠すこともできず、ラウルは無言で座席に背をつけた。
「ひとをからかうのはそのくらいにしてください。兄さんは兄さんのお目当てのプリマバレリーナのことだけ考えていればいいんです」
 現在の愛人のことを持ち出され、ついにフィリップも黙り込む。

 やがて馬車はオペラ座の前に到着した。



「ブラヴォー!」
 ボックス席で立ち上がり、熱狂的な喝采を送る兄のそば、ラウル――ルオシンは難しい顔で考え込んでいた。
 舞台に立っていたのがコトノハ・リナファ(ことのは・りなふぁ)にあらず、リーレン・リーン(りーれん・りーん)だったからだ。
 クリスティーヌと二重写しになっていた上、スポットライトの光で見づらかったが、それでもコトノハでないのはあきらかだった。
 コトノハは、あんな残念な肉体はしていない。

(何があった!? コトノハ!)

「どうした? ラウル」
 突然立ち上がった弟に驚くフィリップの前、ラウルは布幕の裏の出口へ向かった。
「控え室へ。彼女に会いに行ってきます。なんだか彼女の様子がおかしかった……あんな歌い方をする人じゃないのに」
 そのときになって、フィリップは初めてラウルが身を固くし、面から血の気が失せていることに気がついた。
 まじまじと弟の顔を覗き見て、やがて愉快そうな笑みを浮かべる。
「そうか。おまえ、あのプリマドンナに本気だったのか」
「そんなんじゃ……ないけど…」
 そうだ、というルオシンの思いとは裏腹に、口からセリフがすべり出た。
 リストレーションは、ときに思ってもいない言葉、行動をリストレイターにとらせる。
 だが今回、セリフのもどかしさと違って行動は楽だった。ラウルもまた、控え室に行きたがっていたのだから。
「よし、わたしも行こう」
 2人は連れ立って、特別な会員のみが使用できる入り口を使い、舞台裏にあるバレリーナの共同控え室やプリマの控え室へと向かった。
 スタッフや出番を待つ者たちで混雑した中、ラウルはまっすぐクリスティーヌ・ダーエ専用控え室へと入っていく。
「あ、おい――」
 ノックもせず、いきなりドアを開けた弟の無作法にあわてるフィリップ。
「リーレン、コト――」
 ノハはどこだ?
 そう言おうとした瞬間。
    ドーーーーーーーーーーン!!
 ラウルはクリスティーヌの体当たりを受けた医者、そして背後のフィリップとともに廊下をゴロンゴロン転がった。
「わたし、今夜はなんだか気が高ぶってしまってですね! ……えーと……1人になりたいんです! ほうっておいてくださいな!」
 言うなり、バタン! とドアを閉めてしまう。
「いたた……今のは一体――」
「分かりませんよ。具合が悪そうだから診察に呼ばれたんですが……あの分なら、全然大丈夫そうですね」
 首を振り振りこぼすと、医者はどうしようもないと言いたげに肩をすくめて見せた。
 ラウルはすっくと立ち上がり、来た道を戻り始める。
「あ、おい。ラウル? もういいのか?」

(あれはやはりリーレンだった。ということは、コトノハはまた消えたということか…!)

「あいつめ……見つけたら今度こそ説教だ」
 肩をいからせ去っていく。ルオシンはすっかり憤慨していた。



「……さっきのルオシンさんだったみたいだけど……いいのか?」
 控え室の中で、回転イスに掛けた松原 タケシ(まつばら・たけし)がつぶやいた。
「いーの! 出会いのシーンはバッチリだったでしょ?」
 リーレンは3人の足音が遠ざかっていくのを確認して、後ろ手に閉めていたドアノブから手を放す。
 突き飛ばして廊下転がしただけなんですけどー。
 ……いや、まぁ、視線は合ったし。会ったと言えば会ったし。……いいのかな?
 タケシはあらぬ方を振り仰ぐ。
 とりあえず、時が硬直しないでリストレのカチカチ音もしてるから、いいんだろう。うん。
 リーレンは舞台衣装の膨らんだスカート部分を押しつぶし、前面が鏡張りの机についた。
「あたしにこんな役押しつけて、逃げちゃったコトノハさんが悪い!」
 この上ルオシンさんとラブシーンもどきなんかできるもんですか!
「……あたしだけの王子さまとだったら、いくらでもやっちゃうんだけどなぁ…」
 頬杖をつき、はーっとため息を吐き出したとき。

「クリスティーヌ……私の天使」

 そんなささやきがどこからか聞こえた気がして、リーレンは顔を上げた。
「えっ? 今の――」
 どこから?
 キョロキョロ周囲を見渡したが、控え室には自分とタケシしかいない。

「きみはわたしを愛さなければいけない…」

 再び声が聞こえて、どうやら鏡の向こうからしているらしいと見当をつけたとき。
「カツラずれてるぞ」
 タケシがよけいなおせっかいをやいた。
 彼としては、親切に教えてやったつもりだったのだが、次の瞬間。

「カツラじゃないもん! 地毛だもん!!」

 目にもとまらぬ早業でイスが飛び、タケシの顔面で炸裂した。

「…………」


 声は、二度と聞こえてこなかった。