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リアクション
■第10章
シャンデリア落下事件は数々の波紋を投げかけていた。
突然観客の頭上の巨大なシャンデリアが落下したことに説明を求める声が各方面から起きたが、リシャールもモンシェルマンも、これといって納得のいく説明ができるはずがない。
「老朽化で……吊っていた鎖がもろくなっていたのでしょう…」
そう言う以外あるだろうか?
怪人がやったという証拠はどこにもない。警察は吊り金具の磨耗による事故と結論を出したが、それでも事故を未然に防ぐ義務がオペラ座側にはあったはずである。
翌日から、シャンデリアの入れ替えを理由に、オペラ座は休館した。実際には2人のオペラ歌手の行方不明により演目の変更を迫られたからだ。その他大勢役のクリスティーヌはともかく、プリマドンナ・カルロッタと支配人の駆け落ちは、オペラ座に新しいプリマドンナの発掘を突きつけることになった。本来ならば2人目、3人目の候補がいたはずだが、カルロッタの策略により少しでも芽のある歌手はことごとく追い払われていたため、次代のプリマドンナたるにふさわしい歌手は存在しなかった。
クリスティーヌの行方を求めているのはラウル・シャニィ子爵ただ1人だった。
彼女はあの夜から、いつの間にか姿を消していた。劇場には休職願いが提出されており、支配人は何の疑いもなく受け入れていた。子爵がいくらわめいたところで、今は失踪したコーラスガールにかかわっているどころではない。
「クリスティーヌ! きみはどこへ消えた!?」
愛する女性の名が心からほとばしった。兄にも話すことはできなかった。説明できるはずもないからだ。怪人がクリスティーヌをさらったなどと…。
彼女の姿を求め、ただ1人さすらうラウル。憔悴しきった彼の元に、1通の手紙が舞い込んだ。
『ラウル、明後日オペラ座で仮面舞踏会が開かれます。仮面をつけ、絶対あなただと分からないように仮装をして、ロビーの隅にある小さな応接室へ来てください。絶対に、絶対に、だれにもあなただと悟られないように用心して…。 クリスティーヌ・ダーエ』
2週間の休館ののち、オペラ座は再び開館となった。
モンシャルマンは、新しく設置されたシャンデリアのお披露目もかねて、仮面舞踏会を大々的に催すことを計画した。
もともとこの時期、パリではいたる所で仮面舞踏会が開かれている。その中でも特に派手で豪勢な舞踏会を開催することで、シャンデリア落下事件を払拭、新生オペラ座を印象付けようという腹づもりだった。
「今回ばかりは金に糸目はつけん! じゃんっじゃん、盛大に盛り上げてくれ!」
モンシャルマンの指示により、さまざまな方面で大盤振る舞いが行われた。料理も、招待客も、これまでに類を見ない豪勢なものとなった。
曲を演奏する者たちも、ただの室内管弦楽奏者にあらず、当時としては未問の総勢70名におよぶオーケストラが呼ばれ、その中に五月葉 終夏(さつきば・おりが)も第1ヴァイオリン奏者として参加していた。
もはやモンシャルマンの口癖のようになった例の指示を横目に、周囲の者たちと音合わせをする。
(私はこのお話の世界を知らないけれど、でも、ここにこうしてある以上は、やっぱり出てくる人たちみんなに幸せになってほしい)
終夏はその願いを込めて、ヴァイオリンを弾く。
(大勢の人がいて、それぞれに思いはあって……全員の思いがかなうことなんてあり得ない。
だけど、どんな結末であれ……たとえ想いはかなわなかったとしても、結果として、みんなが幸せだったらいいよね)
そして自分は、自分なりの方法で、少しでもそのお手伝いができたなら――。
指揮者のタクトに合わせ、終夏は祈るようにヴァイオリンを弾き続ける。
その心そのもののように澄んだ美しい音色は、オペラ座のホールにやさしく響いた。そこにいる人々、全てを包み込み、守護するかのように…。
「早く早く! ハルってば遅いぜこんちきしょうめ〜」
若松 未散(わかまつ・みちる)はくるりと振り返り、後ろを悠々歩いているハル・オールストローム(はる・おーるすとろーむ)を急かした。
かわいくドレスアップした姿とは対照的な、残念江戸っ子べらんめぇ口調。
舞踏会会場に合わせて服装は和装から洋装へと変える気配りを見せたが、こちらを変える気は全くないようだ。黙って立っていれば、ものすごくかわいいのに。つくづく残念。
「もう音楽が鳴り出してるぞ! 早くきなってば!」
そう言う間も、前階段を上る未散の足は止まらない。
「そんなことをしていますと転んでしまいますですよ」
ハルの忠告は、少し遅かったようだ。
振り返り、足元がおろそかになった未散は案の定、段差につま先を引っ掛け転んでしまう。
「いったーーーー! 膝打ったっ」
「大丈夫でございますか? 未散くん」
駆けつけたハルが、有無を言わせず自分の膝の上にさっと足を伸ばさせた。
「血は出ていないようでございますね。つま先は動きますですか?」
「うん…」
その証拠のように、パンプスを履いた足が揺れる。ハルはそれを眺めてから、そっと膝頭に触れて様子を見た。
「どうやらあざになりそうでございますね」
「そんなぁ〜」
膝上丈のミニドレスなので、こんなところにあざを作ってはだいなしだ。
じんじん痛む膝よりもそっちが気になってガッカリする未散に、さっとハルが手をひと振り。
それだけで、未散のドレスは膝下までドレープのついたセミロングになった。
もちろん、クリエイター権限でだ。
「未散くんのおみ足は美しいでございますからね。ふくらはぎから下はせめても見せつけた方がよいでしょう」
オペラ座からのライトを受け、そう告げるハルの横顔が、なぜかかっこよくて。
「……公衆の面前で平然と女の子の服を着替えさせるんじゃねえー! ってゆーか、そんなこと考えてひとの足見てたのかコラー!」
未散はぽかっと殴りつけた。
――なんで?
「だ、大体、こちとら人様にお見せするために着てたわけじゃねぇんだよ! いいか? 特におまえに見せたくて、先に階段上ってたんじゃねぇんだからな! 間違うなよ!?」
ハルの膝から足を取り戻し、真っ赤な顔を隠しながら立ち上がる。
「さあっ! 行くぞ、ハル!」
「急がなくても舞踏会は逃げたりしませんですよ」
パニックを起こした未散に叩かれるのはいつものことと、ハルも気にせず身を起こす。
「逃げねぇが、終わっちまうからな!」
まだ夜の9時で、舞踏会が終わるのは翌朝の5時ごろ。十分時間はある。
しかし未散にはそれはあっという間の時間に感じられるようだ。
なにしろ舞踏会に参加するのはこれが初めて! しかも仮面舞踏会とくれば、これはもう乙女心をくすぐる威力はハンパない。
「きっと、お貴族さまとかがいっぱい来てやがるんだろうなぁ! へっ、もしかしたら王さまだって来てるかもしれねぇぜ! うわー、そんな中で落語やれたらなぁ…」
――え。落語ですか?
目をキラキラさせて、うっとり指を組んで……どうやら本気らしい。
「舞踏会に舞台はないと思いますよ」
すかさずハルのツッコミ。
「んもう! ひとの夢に水差すなよな!
舞台がないなら作ればいいだけじゃねぇか! それをなんとかするのがパートナーの役目だろ、こんこんちき!」
え? それはちょっと違うんじゃ……と、普通なら思うところだが、しかしハルは思わない。
「そうですか? はぁ、じゃあ、まぁ…」
ふーむ、と、どうやったら舞踏会のダンスホールに落語用舞台が作れるか、真面目に考え込んでいる。
あまりに威厳がなさすぎて、だれも信じてくれないが、これでも元貴族の吸血鬼。舞踏会経験はたっぷり積んでいるのだからそんなことは無理難題だと分かりそうなものだが、彼は今、未散をアイドル落語家として売り出そうという活動の真っ最中なのだ。
落語はすばらしい文化。これほど面白いものはない。それを貴族たちに知ってもらうことに異論はない。
とゆーか、ぜひしらしめたい。それでこれから未散の落語がオペラ座の出し物の1つとなったら最高ではないか!
この際、場所が夢の中の本の世界だろうが関係ない。未散も、経験を積むことはいいことだ。
それにきっと、この会場にもリストレイターたちが何人かまぎれ込んでいるだろう。彼らにアピールするにもいい機会だし!
「分かりました。このハルめにお任せください。ふふふ……すばらしい舞台をご用意させていただきますですよ」
きらーん。そんな感じでハルの目が光る。
なんかコワイです、ハルさん!
「ところで演目は何かお考えでございますか?」
「あったりまえでい。新作落語だ。このオペラ座には怪人とやらが住みついてるそうじゃねぇか。それをヒントにだな、屋根裏に潜んで女を見下ろすヤンデレ野郎と、どっちつかずな女と、振られても振られてもしつこくつきまとうなさけねぇ男の三角関係で――」
大好きな落語の話に目をきらきらさせながら、2人は今度こそ、並んで階段を上っていった。
「私の噺を聴けえ!」
モンシャルマンになったハルの指示により、急きょ整えられた高台で、未散が聴衆を前に新作落語を疲労しているころ。
赤嶺 霜月(あかみね・そうげつ)とメイ・アドネラ(めい・あどねら)は、怪人の姿を探して舞踏会会場にまぎれ込んでいた。
「……ほんとにこの中にいるのかなぁ?」
足の踏み場もないほど人でごった返したホールに、メイがうんざりとため息をこぼす。
目立たず館内のどこでもうろつけるよう、スタッフの服装をしているのだが、そのせいで雑用が増えてもいた。今もグラスの乗ったトレイを掲げ、歩いている。本当はこれは、西側に設置されたバイキングテーブルに並べなくてはいけないのだが、たどりつく前にひとに取られてなくなってしまいそうだった。
「それを運び終わったら、メイは下を見てきてください」
隣で料理を運んでいた霜月が指示を出す。
重くて熱い料理には、さすがに手を伸ばす者はだれもおらず、彼が歩くたびにさっとテーブルまでの道が開いていく。その後ろについて歩いていたメイは頷きかけて、おや? と顔を上げた。
「霜月は?」
「自分は、先に上の階を回ってみます。何か動く気配がしました。それを確認して、何もなければあとを追って下に行きます」
「分かった」
このひといきれから抜け出すことができて、ほっとする思いで頷く。
地下だから少し寒いだろうが、この熱気のあとだから涼しく感じられるだろう。
「ただし、あまり下へ行きすぎないように。ここは地下迷宮も同然です。何があるか分かりませんからね」
しっかり釘を刺すことは忘れない。
「うん。霜月も気をつけて」
取られずにすんだグラスをテーブルに並べて、メイはさっそく下に通じる階段に向かってホールを出て行った。
ところで。
スウィップの導きにより、この世界には大勢のリストレイターたちが招き入れられたのだが、全員が全員、真面目にリストレーションを行っているかといえば、それがそうでもない。
なにしろ、知らない世界の知らない人々の出来事だ。しかもここは夢の世界。現実に影響を全く与えないわけではないが、しょせん微々たるものでしかない。どうでもいいといえばたしかにその通りなわけで。
今回もまた、この世界に入り込むことに成功した霧島 玖朔(きりしま・くざく)は、舞踏会会場に同じくリストレイターとして参加しているシリウス・バイナリスタ(しりうす・ばいなりすた)、リーブラ・オルタナティヴ(りーぶら・おるたなてぃぶ)の姿を見つけてホクホクしていた。
まだ自分の存在に気づいていない2人の姿に、にんまりする。
シリウスはスパンコールのついた黒い仮面で顔を隠していたが、その燃えるような赤毛は隠しようがない。本人も隠すつもりはさらさらないだろうが。
彼女がシリウスであれば、当然横についているドレッシーな白鳥はリーブラだ。黒いミニドレスで大胆な黒鳥・オディールを模しているシリウスと対照的に、清純なオデットのリーブラは少し蒸気した頬でシリウスからの話かけに応じている。
(あっちの方も対照的な2人なのかな…)
玖朔は、既によからぬ妄想でいっぱいの頭で、バルコニーに出ようとする彼女たちに歩み寄った。
周囲から群を抜いて美しい2人を見ているのも楽しかったが、彼と同様周りの男たちも、ちらちらと彼女たちの様子を伺っている。横取りはごめんだ。
「やあ、シリウス」
突然声をかけてきた人物を振り返って、シリウスは口にふくんだ飲み物を、もう少しでプーっと吹き出すところだった。
(げげっ……なんで仮面つけてんのに特定してんだ、玖朔っ!?)
「――よぉ、ヘタレ。何の用だ?」
シリウスからの返しに、ぎくりと玖朔は身を強張らせる。
「玖朔さん……あの……先日は、すっかりご迷惑をおかけして……あのあと、ご無事でしたか?」
リーブラの思いやるような言葉が、なぜか追い討ちのようにグサグサ胸に突き刺さった。
(……おかしい。なぜだ? なぜ俺はこんなにびびってるんだ?)
前回の記憶は都合よく完全抹消している玖朔。
しかし体は覚えているらしく、どきんどきんと心臓が早鐘を打ち始める。――やばい、立ち去れと、体は告げていたのだが。
玖朔は体はヘタレかもしれないが、煩悩だけはひと一倍強かった。
それはもう、生存本能を上回るくらいに。
「用というか……きみたちを見るだけで俺の胸が熱く騒ぎ、たまらない気持ちがこみ上げてくるんだ。これはもしや前世の記憶! そう、俺たちには何らかのつながりがあったんじゃないかと思わずにいられないんだ!
そうとも、俺たちは決してただの知り合いなんかじゃない。もっと熱く、真剣で、みだらなものが俺たちの間にはある!」
さっとシリウス、リーブラの手をとり、握り締める。
うさんくさげに見るシリウスと、とまどっている表情のリーブラ。何を言われているのか、全く理解していなさそうな顔だ。
玖朔はまず、リーブラにねらいをつけた。
「かわいい服だな、リーブラ。でも……俺たちの間ではこんなもの、邪魔なだけだ」
ピッキングですばやく彼女の服のホックをはずす。
「……きゃ…っ」
ゆるんだ胸元を押さえ、服を掻き集めるリーブラに、シリウスの目が険しさを増した。
リーブラの胸をまさぐろうとしていた手をさっと掴み止め、ねじり上げる。
「あ、あの……シリウス…?」
痛いんですけどー
「前のときに言ったはずだよなぁヘタレ。そういうことはオレと勝負して、勝ってからにしやがれとな」
シリウスから吹きつけてくる不穏な気に、玖朔は大急ぎ防御体制をとろうとする。
こぶしか、蹴りか?
そんな玖朔の予想に反してシリウスはバルコニーに飛び上がり、そこから庭へと跳躍した。
当然、玖朔も巻き添えだ。
「うわああああっ!」
「シリウス! 玖朔さん!」
リーブラはずり落ちる服に両手をふさがれていて、とっさに追うことができない。
「変身ッ!!」
玖朔と仮面を投げ捨て、中空で光り輝くシリウス。
すたっ、と地面に降り立ち決めポーズをつけたとき、彼女は魔法少女になっていた。
背後から聞こえてくる軽快なダンスミュージックにつま先でリズムをとりながら、地面にしりもちをついている玖朔に立てと人指し指で促す。
「あ、あの…」
「刻むぜ、雷神のビート! 熱くなるほどヒート!! くらえ!! 手加減一切なしのサンダーブラスト!!」
まだよく状況がつかめないでいる玖朔に向け、シリウスは雷の雨を浴びせた。
――これは仮面武闘会ですかっ? それとも仮面打とう会でしょうかっ!?
「うぎゃああああああーーーーーっ」
降りそそぐ白光の中、玖朔は消えゆく意識で思った。
(そういや、前も似たようなことがあったような……ああ、これも前世の記憶か…)
と。
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