校長室
リアクション
* * * 「あそこよ」 イナンナに導かれるまま通路を走っていた面々は、ここに来て、小川のせせらぎのような音を耳にした。 「これは…」 ルクレーシャが音の出所を求めて顔を左右に振る。その手にはしっかりと光条兵器のお玉が握られている。この薄暗い通路で、いつ影から伏兵が飛び出してきても仲間たちを守れるように、との思いがお玉に力を与え、強い光を放って薄暗い周囲をわずかに明るく照らしていた。 「地下水路ですね」 音の出所はここだと言うようにネル・マイヤーズ(ねる・まいやーず)がしゃがみ込み、床に触れた。 言われて初めて床下に注意して耳を傾ける。すると、たしかに水の流れる音は足下からしていた。 「そうよ。この先には、神殿内に水を供給する源泉につながる水路があるの」 イナンナがついに立ち止まり、正面のドアを指した。 電気の明かりに照らし出された、鉄枠で補強された重厚な木のドア。よくよく見ると、床とドアの暗い隙間から、何かが流れているのが見える。 「ここは西口で、フロアに一番近いの」 「フロアですか?」 「ええ。あの先には、源泉へとつながるトンネルのある、ちょっと広めのフロアがあるから……多分、そこだと思うわ」 懸命に切れた息を整えながらそう補足する。 「鍵がかかっているようだな」 強盗 ヘル(ごうとう・へる)がピッキングをしようとそちらに近寄った。それに合わせて仲間たちもドア前まで走り寄ったのだが。 「イナンナ?」 すれ違った彼女になんらかを感じて、沖田 聡司(おきた・さとし)は走る足を止めた。 イナンナは彼らを見送るように、その場から一歩も進もうとしない。 「私はこれ以上進めないの」訝る聡司を申し訳なさそうに見返した。「これ以上進んだら、石版に絡めとられてしまうから」 その言葉を耳にして、ドア前まで進んでいたバァルが駆け戻ってきた。 「女神様、それは――」 「ここから先は、あなたたちだけで進んでほしいの」 敵もむざと石版を渡したりはしないだろう。これから先、彼らを待ち受けるものが何であるかは想像するに難くない。自分のことなのに、これ以上どうすることもできないとは――己の無力さを恥じ入るように、イナンナはキュッと下唇を噛む。そして、自分を見つめてくる者たちを1人ひとり、見返した。 「ごめんなさい」 「そんなこと、思わなくていい」 鬼崎 朔(きざき・さく)――カナンの地においては朔・アーティフ・アル・ムンタキム――が即座に否定した。その声も、表情も……そして彼女を見返す瞳も、反ばくを許さないほどに揺るぎない。つかつかと歩み寄り、握りこまれていた彼女の手を取った。 「手を開いて、イナンナ」 握り締められて白くなっていた手の甲をさすり、力をほどかせる。 「私たちは必ず君の本当の姿を取り戻す。それは、君が私たちの友だからだ。女神だからというだけではない。そんなものは私たちには些細なことだ。これまで一緒に戦ってきた友イナンナのために、私たちは必ず石版を見つけだし、君を自由にしてみせる」 「朔…」 「友のために動くのは私たちには当然のことだ。君もいつかそのときがきたら、友のために動くだろう。そのとき君がほしい言葉は何だ? それを私たちにくれ」 イナンナは自分を見上げる朔を見下ろした。初めて会ったとき、彼女はまるで双子の姉妹のようだった。頬のいれずみと瞳の色以外は鏡を映したようにそっくりだった。時の流れに過ぎ去った、はるか遠き昔を思い出させる彼女……だがあのころの自分に、この瞳の強さはあっただろうか? これほどの一途さが。 イナンナは自分の手を持つ朔の手を、ぎゅっと両手で握り返した。 「しかし女神様お1人をこのような場に残しては…」 「じゃあ俺たちが残ろう」 バァルのためらいを払拭するように、妖刀村雨丸を肩に、聡司が横についた。その後ろにはパートナーの佐々木 小次郎(ささき・こじろう)が従っている。 「出会った最初からそうだったよな、俺たち。思うに、俺たちにはそういう縁があるんだ。だから最後まで付き合うよ」 見上げてくるイナンナと視線を合わせ、にかっと笑う。ヘルハウンドに襲われあわやというところを、飛空艇に乗る彼に救われた。『よしっ』とつぶやいたあのときも、自分が救った少女に向かって彼はこうして笑っていた――聡司との出会いを思い出して、イナンナにも微笑が浮かぶ。 「皆さん、くれぐれも気をつけて……そして、がんばって」 月並みかもしれないけれど、こんなとき、自分がほしい言葉でイナンナは彼らを見送った。 「朔様、本当によろしいんでありますか? 朔様も残られなくて」 イナンナを肩越しに振り返る朔に、スカサハ・オイフェウス(すかさは・おいふぇうす)がこそっとささやいた。 「……いい」 彼女の身を案じる思いがないわけではなかったが、振り切るように背を向け、木戸をくぐる。 (イナンナを護るためにも、一刻も早く石版から解放する。それが友としての私のあり方だ) 「戦の女神イナンナより、加護を与えます。不正不実のやからを討ち、必ず勝ちて戻るよう――彼らに勝利を」 開いた木戸の向こうの闇へ吸い込まれるように消えていく彼らに、せめてもと今の自分にできる精一杯の祈りを捧げる。今の自分にはかつての力はないかもしれない。けれど、少しでもこの思いが彼らを守ってくれますように…。 「彼らにあったとしても、あなたたちにはどうかしらね?」 「何者!」 突如背後から響いてきた声に、小次郎の誰何(すいか)の声が飛ぶ。 靴音を響かせ薄闇から現れたその面は、メニエス・レイン(めにえす・れいん)だった。 「おまえたち…!」 メニエスとミストラル、2人の裏切り者を見て、聡司は身構えると同時にイナンナを背後に庇った。 「あんまり退屈だからちょっと遊んであげようと思って来たんだけど、まさかイナンナがいるとはねぇ」 彼女には、間の聡司や小次郎は見えてすらいないようだ。イナンナをひたと見据え、思いがけない僥倖だと、目を細めて嗤う。 「ちょうどいいわ。あなたには訊きたいことがひとつふたつあったのよ。ぜひ教えていただけるかしら? カナンの元国家神サマ」 「元」を強調して揶揄する。イナンナは正確にはまだ国家神だ。だが神殿を追われ、神官たちにも見捨てられ、石像の移し身で、いまだ少女の姿。しかもこんな下層をうろついている……その零落ぶりを嘲弄しているのは間違いない。イナンナはわずかに頬を強張らせたものの毅然とした態度を崩さず無言を貫いたが、聡司には聞き捨てられなかった。妖刀村雨丸を手に一気に距離を詰め、斬りかかる。 相手はメニエス、状態異常の遠距離魔法攻撃を得意とする者だ。距離をとって戦っていては、こちらが不利になる。そう判断し、聡司は猛攻をかけた。 「はっ!」 気合一閃。横薙ぎにし、返す手で袈裟懸けに切り下ろす。胴を過ぎた辺りで即座に刀を返し、左肩まで振り上げた。 「……く…っ…」 背後に飛んでかわしたつもりが、最後の一太刀で袖を裂かれる。だがこの程度だ。かわせない攻撃ではない――そう思った次の刹那、ちかっときらめく小さな光が彼女の視界をかすめた。直後、キン、と鉄同士がぶつかる音がすぐ背後で起きる。 ミストラルのカタールが火花を弾いた。 「メニエス様と戦いたいのであれば、まずこの私を倒してからです」 感情の一切が欠落した淡々とした声で、ミストラルは前方の柱の影に向かって告げた。 「じゃあこっちも言わせてもらおうかな。イナンナのお嬢ちゃんとお話しがしたいんだったら、俺たち全員倒してからだとね」 そこにいたのは、隠れ身で彼女たちの背後に回っていた斎藤 邦彦(さいとう・くにひこ)だった。彼もまた、イナンナを守るためにこの場に残った者の1人。あいにくと奇襲の銃弾はミストラルの張り巡らせてあった殺気看破で防がれてしまったが、効かないわけではない。邦彦はさらに連射した。 主君メニエスの守りに徹したミストラルは一歩も動かず、そのほとんどをカタールで弾く。弾道が見えるわけではない。しかし手練れが相手となればその着弾位置は読みやすい。重要な箇所のみをカタールで庇い、それ以外の場所をかすめる弾は無視した。 「雑魚が!」 その間に詠唱を完了させたメニエスの手からエンドレス・ナイトメアが放たれる。 「おっと」 禁じられた言葉で最大出力まで高められた力を、邦彦は身を低くしてぎりぎりでかわした。それでもくらりと一瞬、頭が強く揺さぶられたようなめまいが起きる。 こんな技、一発でもくらえばアウトだ。ただでさえ状態異常の魔法は防ぎようがないのに、これが直撃すれば間違いなく昏倒してしまう。常に移動しつつのヒット・アンド・ウェイでいくしかない。そう決め、低い体勢のまま横に走り出した邦彦を追って、エンドレス・ナイトメアが再び放たれた。 「邦彦!」 またも紙一重だったことに、ついネル・マイヤーズ(ねる・まいやーず)は叫んだ。 「来るな!」 衝動的に駆け寄ろうとした彼女の動きを読んだかのように、邦彦が背中越しに叫び返す。その目は次の動きにすぐさま対処できるように油断なくメニエスを見据えたままだ。 「伏兵がいないとも限らない。おまえはそこでお嬢ちゃんを守ってろ」 その言葉に、ネルは踏み出していた一歩を引っ込めた。 「邦彦…」 本来なら、ここは邦彦がいるはずの位置だった。イナンナを守ることを優先し、敵の排除は他人に任せる。だが相手が悪かった。メニエスが相手では、攻撃に転じざるを得ない。 隣でやはりイナンナの壁となっている小次郎もまた、同意見なのだろう。油断なく周囲に目を配りつつも、険しい表情で聡司を見守っている。彼は今、ミストラルと打ち合っていた。 剣技で言えば、聡司の方が上だろう。だがミストラルも素人ではない以上、その差はあきらかというほどでもない。そして氷のごとき冷静な判断力、メニエスを守ることに徹底していること、さらに執事服の下に身に着けているヴァンガード強化スーツやさまざまな物理攻撃への防御スキルが、彼女の剣技を補っていた。 「つッ…!」 あやうく頬をかすめた刃。一瞬遅れて痛みという炎が走る。無理に避けたせいで崩れた体勢を整えようと、右足を後ろに退いたとき。 「聡司! 私が教えた「燕返し」どこまでものにできたか見せてみなさい!」 小次郎の鋭い檄が飛んだ。 その言葉に、疲労を見せ始めていた聡司の目に輝きが戻った。 一心一刀。大上段に構えた刀を高速度で振り下ろす。後方に逃げたミストラルを追って、刀が翻った。全く同じ軌道をたどって、今度は片手のみで高速度で振り上げる。あまりの速度に残像しか見えないこれは、ヒロイックアサルトで強化された膂力が成せる技だ。踏み込みの効いた一撃は今度は避けることを許さず、ミストラルの胴から右肩までを一気に切り裂いた。 見事! ――小次郎がそう叫ぼうとしたときだった。 「試合じゃないのよ、これは」 大技は、かけた直後に最大の隙が生まれる。嘲笑とともにメニエスの奈落の鉄鎖が飛び、腕の動きを封じた直後エンドレス・ナイトメアが近接距離から叩きつけられた。 「聡司!!」 小次郎の前、聡司はがくりと両ひざを折った。頭が床につく前に、聡司の意識は消失していた。 「ミストラル、傷の具合は?」 「大事ありません。スーツは完全に駄目になりましたが」 ミストラルの指が切り裂かれた部位をなぞった。血がにじんでいる。危ない一撃だった。強化スーツがなければあそこに倒れていたのは彼女の方だっただろう。スーツのおかげでかろうじて皮一枚を裂かれるのみに終わったが…。 「それよりもメニエス様、腕から血が…!」 メニエスの右腕に伝う血を目にして、初めてミストラルが動揺を見せた。 聡司に攻撃する一瞬をついて、邦彦の銃撃が決まっていたのだ。 「ああ、大丈夫よ。貫通しているから」 強敵を1人撃破するためには仕方のない犠牲だ、メニエスは割り切って左手で邦彦への攻撃を続けていたが、ミストラルには看過できないことだった。 赤い瞳の輝きが暗く沈み、ほとんど黒と化す。 「メニエス様のお体を傷つけるなど、万死に値する……その身、このわたくしが手ずから斬り刻んでやりましょう」 メニエスのエンドレス・ナイトメアが放たれると同時に、ミストラルは走り出した。着弾点より少し左、邦彦の移動地点へ向かって。 「死になさい、あなた」 無慈悲な声が邦彦の耳朶を打つ。 「ちぃッ…!」 同時に振り切られた腕のカタールと邦彦の義手の間で火花が散った。 |
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