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リアクション
●第六章 血判状
ソルヴェーグを見送った後、ヴァルがホテルに着いたのはしばらくしてのことだった。
エントランスには誰も居ない。
皆はもう会場に移動したのだろう。
ルシェールが会場に入る前に渡したいものがあったのだが、渡せそうになかった。
(これは無駄になるか……)
ヴァルはポケットにしまったものに手を伸ばし、溜息を吐いた。
階段を上がり、パーティー会場に向かう途中、見慣れた顔を発見することが出来た。ルシェールだ。
桜色の衣を何枚も重ねた着物は装飾の少ない十二単に見えた。だが、ヴァルにはそれが袿袴(けいこ)という衣装であるということがわからなかった。
ヴァルはゆっくりと近付いていく。
辺りを見れば、会場の手前の部屋は誰も居なさそうだった。物置なのだろうか。
(なんにせよ、チャンスはあったな)
ヴァルは心の中で呟いた。
「ライオンお兄ちゃん!」
着替えを終えて歩いてきたルシェールは、案の定、ヴァルに声をかけてきた。
「ああ、ルシェール。誕生日おめでとう。12歳か」
「うん、ありがとう。お兄ちゃん、今日は一人?」
「いや、キリカは先に会場に行っている」
「そうなの」
「今日は、随分と可愛い着物を着ているな。女の子みたいだぞ」
「うん。女の子の着物だもん」
「おまえ、そういう趣味が…」
「ないよ」
「そうか。ルシェール、実はお前に誕生日プレゼントをやろうと思ってな」
「え、何?」
「こっちに来てくれ」
ヴァルはさっき目を付けた空き部屋に誘った。
「うん、いいよ。なぁに、ここ。何にも見えない……」
ルシェールは当たりを見回した。積み上げたテーブルや椅子が見える。
パーティー会場の二つ手前のこの部屋は、パーティー用の食器や家具が置いてある部屋だった。
ヴァルに呼ばれ、ルシェールはやってきたが、ヴァルの思惑は知らないままだ。
ドアを後ろ手で閉め、人が来ないことを確認すると、ヴァルは巻物を渡した。
「プレゼントだ」
ヴァルは巻物をを差し出す。ルシェールが受け取ると、部屋の電気を点けた。
「何、これ?」
ルシェールはそれが何なのかわからない。
眺めたり、ひっくり返したりしてみるが、赤黒い楕円形の染みが規則的な方向で並んでいるだけで、それが何なのかわからない。
「何に使うの?」
「これは……【獣人の血判状】」
「ふうん」
「パートナーを……解消できるものだ」
「な、何……」
ヴァルが何のことを言っているかわからない。
ルシェールは、ヴァルを見上げた。
そこには、悲しみを抑えたヴァルが、ルシェールを見つめていた。
いつもの温かい目をしたお兄さんはいない。
鋼の意志に、悲しみと情熱を抱いた青年がいた。
「どういうことなの、お兄ちゃん」
「……」
ヴァルは沈黙を持って応えた。
「ちゃんと説明してよ。ソルヴェーグが何か言ったの?」
「……」
「お兄ちゃん!」
「ソルヴェーグは……なにも、言ってない」
(そうだ。何も……言わなかった)
苦いものが胸の奥を滑り落ちていく。
見つめるルシェールの手が震えた。
「これ……これって」
「ルシェール。ソルヴェーグはお前に無関心すぎる。お前が泣くまで放り出したまま、お前が成長しようとしても無関心なままだ」
「だからって!」
「すれ違いのまま生きていくのか? パラミタでは何が起きるかわからないんだぞ。お前が成長しきる前に何かあった時はどうする? いつもみたいにソルヴェーグが関心を示さないままだったら、おまえが死ぬのだ!」
ヴァルの声に、ルシェールは言葉を失った。
すれ違い。
一番――聴きたくない言葉。
凍りついた瞳のまま、ルシェールはヴァルを見上げた。
「ここは過酷だ。パートナーがいるからこそ、皆は死なずに済んでいる。でも、鏖殺寺院のような存在だってあるんだぞ。死は、遠くの彼方にあるわけではない。間近にある」
ヴァルは言った。
子供が聞くには耐えがたい事実かもしれない。だが、ヴァルはルシェールの本心が聞きたかったのだ。
「もし万が一、ソルヴェーグとはもう無理だというなら、血判で別のパートナーと契約することを…俺は勧める」
「そんなことが……」
ルシェールは渡された血判状を震える手で握り締める。
真剣なヴァルの様子に、ルシェールは言い知れぬ恐怖を感じて怯えた。
ルシェールにとって、振り返ってもらえなくても、ソルヴェーグがいる日常が当たり前のものとなっていた。
寧ろ、その生活が自分の全てだった。
いつも本を読んでいること。指先が器用なこと。些細なことが出来なくて困っていると、すましたような笑顔で助けてくれるところとか――その横顔とか。
その全てが無くなってしまう。
呼んでも振り返ってくれなくなるの?
笑ってくれないの?
誰かとどこかにいってしまうの?
「や…だ…」
パートナーを失うという苦痛を想像し、ルシェールは泣きはじめた。
呼んで振り返ってくれるだけで嬉しかったのに、それがなくなってしまう。
「……嫌ッ!」
「ルシェール?」
「こんなの、こんなのいらないっ!」
「お、おい…」
「ソルヴェーグと…ソルヴェーグといたい。だからいらない! 俺、約束したんだもん。ずっと、ずっと一緒にいるって!」
零れ落ちる涙をそのままに、ルシェールは言った。
「落ち着け、ルシェール」
「お兄ちゃん。これ、どっかやって!!」
ルシェールは血判状を突き出した。
その腕をヴァルは片手でそっと下ろさせ、顔を覗き込んで言う。
「ルシェール、約束ってなんだ?」
「俺…の…約束。ずっと一緒にいるねって」
「そうか…すまん、ルシェール」
「……」
「さっきのは、嘘だ」
「う、そ?」
「そうだ。俺はおまえの本気を聞きたかったのだ。ソルヴェーグが何も言わなかったのは本当だ。だが、おまえがそこまで想うのなら、おまえの信じた道を行け」
ルシェールの答えにヴァルは満足していた。
これなら大丈夫だろう。
「脅かしてしまったな。すまない」
「本当に…うそなの?」
「ああ、そうだ。パートナー契約がなされれば、如何な理由があっても破棄されることはない」
「よ…よかっ…た…」
ルシェールはその場に座り込む。
激しい疲労感がルシェールを襲う。
ヴァルはルシェールを抱き起こした。
「こんなじゃ、歩けないな」
「お兄ちゃんのせいだよ」
「そうだな」
「皆が待っている。パーティー会場へ行こう」
「うん」
足の萎えて歩けないルシェールを抱きかかえると、ヴァルはパーティー会場へと向かう。
途中で、本当のプレゼント――自転車を後で届けると伝えた。
これで、いつでも会いに来いと。
ドアを開けて表に出れば、眩しいシャンデリアの光が煌いていた。
先ほどの暗く陰鬱な気分とは正反対の、華やかな世界。
小さな少年の未来なら、これぐらいに輝いてくれなくては困る。そう、ヴァルは思った。
会場の前まで来ると、ルシェールはヴァルにハグをした。
「お兄ちゃん、ありがと」
ルシェールは女の子がするみたいに、御礼のキスを頬にした。
「おいおい……」
「さっき、嘘ついたお返しだもんね」
「いたずらするな」
「えへへ♪」
ヴァルはルシェールを下ろした。
そこをヴァルのパートナー、キリカが通りかかった。
キリカはヴァルを探していたのだ。
「キリカ!」
「探しましたよ、ヴァル」
キリカはヴァルに微笑んだ。
だが、ルシェールの方を見るや、ふと視線が鋭くなる。
胸の奥に潜む想いは隠せはしない。
キリカの雰囲気に気が付いたルシェールは、割れたガラスのような視線を受けて戸惑った。
ただ、子供ゆえに、その理由がわからない。
「あの…俺…」
「さあ、ルシェール。会場に行こう」
「あ、うん」
ヴァルの笑顔で我に返ったルシェールは、ヴァルに手を引かれて中に入った。
見つめる先は、キリカのまま。
幼心だけが、大人の間で置き去りにされた。
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