リアクション
齢三つで馬に乗り 齢六つで剣を持ち 八つで陛下に盾を授かり 十二で初めて戦場に 女王の騎士が私の定め 騎士の家名が私の頸木 けれど私の血は 私の望みを誰よりも知っている 忠誠と高潔さが最も尊ぶべきものなのだと いくら戦で血を流しても 血は死に果てるまで尽きることはないのだと 身に着けた“恐れ”と“幸福”の歌で得た経験を、“驚きの歌”に乗せて彼女は歌う。静かな、そして思い空気を打ち破って部屋を満たしたその声は彼女の思いを如実に示していた。 「……それは、『騎士ヴェロニカ』の冒頭、ヴェロニカのアリア……」 ──扉が、開く。 歌い終えたテスラは、呆然と目を見開く彼女を見つめた。それだけで通じると信じていた。 (分かっていただける筈。オペラはまだ続いているのだと。私が今歌ったように、奏者だけがいれば成立するのでなく、奏者と、場所と、観客、そしてテーマがあって、初めて成立するのだと。 そして、そのテーマは、アレッシア様がいなければ成立しないのだと。きっとディーノ様も同じ気持ちで歌われる筈) 「アレッシア様が、オペラに来ていただいたら、今度こそ、私の歌を正面から披露させていただきますね」 微笑んで言って、腰を下ろす。 それでアレッシアは現実に戻った。 「……お待たせいたしました」 彼女は頭を下げると、モニカに支えられながら、夢遊病者のようにふらふらとソファに身を沈めた。髪は下ろされ、豪奢なドレスではなく、ゆったりしたローブといった姿だ。 「こんにちは、お忙しいところ申し訳ありません。お会いできて嬉しいです」 静香は相手に気を使わせないよう、できるだけ自然に微笑んだ。ほっとした、というのが正直なところだが、はた目には見せない。その代わり視線で、テスラと、隣に座る鳥丘 ヨル(とりおか・よる)にお礼を言う。 この日、テスラの他にバルトリ家を訪れたのは、皆百合園生だったが、その中でレキとミアの二人を通して、真珠を返したいとアレッシアに話を持って行ったのは、実はヨルだった。 「初めましてアレッシア。ボクは鳥丘ヨル、さっき電話してもらったから、用件は伝わってると思うけど……」 ヨルはぴょこんと頭を下げると、静香を挟んで反対に座る村上琴理(むらかみ・ことり)の膝を示した。 そこには、桜井静香お手製のうさぎ着ぐるみ──それはオークションの商品として葛葉 翔(くずのは・しょう)の手に渡り、彼が真珠の無事を願って着せたもの──を着込んだゆるスターの姿。 「この子、真珠って言うんだね。琴理の家の庭にいたんだよ。それで、大事にしてるゆるスターだって聞いて、届けに来たんだ」 「長い話になりそうですから、お茶をお入れしますね。──あ、これ、手作りのマドレーヌです、どうぞ召し上がって下さい」 同行したロイヤルガードの神楽坂 有栖(かぐらざか・ありす)が、モニカから茶器を受け取ると、手早くアレッシアにお茶を入れる。可愛らしく水色のリボンでラッピングされた包みをほどき、シェル型のマドレーヌをお茶菓子に配った。 (初めてアレッシアさんを見た時、何だか寂しそうに感じたけど……あれは、自ら命を絶とうとして思いつめてた? ……もしまだアレッシアさんが自殺しようとしてるのなら、止めなきゃ……!) 人は落ち込むと食欲がなくなることもままある。死のうとしている人間は余計そうだろう。 けれど、朝から何も手を付けていないせいか、それともお菓子は食べやすかったからか、礼儀からか。 アレッシアはマドレーヌを手にすると、小さく口に含んだ。 (良かった、ほんの少しは安心できそう……) 最後に自分の前に紅茶を入れて、有栖は腰を下ろすと、肩に自分のペットであるゆるスターを乗せた。 「可愛いでしょう? 私のゆるスターの『おかゆ』です。 やっぱりこの子達って、一番好きな飼い主の所にいる方が良いと思うんです……」 真珠を見つめたまま手を触れもしないアレッシアに、有栖は訴えた。 琴理もその言葉にぴくり、と指を震わせる。返すと決めたものの、彼女と共にあるのがいいのか、という僅かな迷いを正されたような気になったからだ。 「あの、アレッシアさんはどうして……どうして自殺、なんて考えたんでしょうか?」 アレッシアはこの前、ミアに告げたことと同じ言葉を繰り返した。 「もう、疲れたんです……。裏切りを疑い続けて生きていく生活に。そしてもう、裏切られ続けるのは嫌なのです……。夫にも、信じていた人にも……、生き抜くために人を疑い探り合う貴族の社会にも」 「私は世間知らずです……貴族の方の複雑な事情も、判る事もできません……でも、真珠ちゃんの為にも、どうか、アレッシアさん、そんなこと考えないで……!」 アレッシアは半分ほど口にしたマドレーヌを置くと、 「皆さん優しいのですね。関わりのない私のために、色々としてくださって……」 と言った。そして、 「ケージに入れていた真珠が独りでにいなくなって、そして庭で見つかるなんて、考えられません」 アレッシアは首を振って、ヨルに優しい嘘をつかれるのね、と微笑した。 ヨルは隠しておく意味もないか、とそれをあっさりと肯定する。 「そうだね、いかがわしいところにいたんだよ。裏切りって話だけど……もしかして、ディーノに盗まれたって思ったの? それって、他にもなくなったものがあったからそう思ったのかな?」 「真珠に関しては違います。彼の手に届くところにはなかったものですから。でも、他にも盗まれたものは……」 「何か色々あるみたいだけどさ、聞いた話だと、ディーノは盗みなんてしなさそうだし。なかなか勇気のいることだけど、思うことがあるならきちんと話した方がいいよ。だから、オペラをみんなで一緒に見に行こう?」 今は色々あって嫌になったみたいけど、もともと音楽が趣味や慰めなら、誤解さえ解ければ今まで通りの支えになるかもしれない。 地位のある人は、体面を大事にする。それは両親を見てよく知っている。ヨルは実家の上流意識にはプチ家出で反抗してきたし、それは息抜きにもなるけれど、性格も年齢も立場も、アレッシアはそんなことができるようには見えない。たくさん我慢してきたなら、我慢しないでいいよ、と後押しするくらいはしたかった。多分彼女の周囲は、それを許さなかったんだから。 「──あたし、真珠ちゃんを見つけた場所にいました」 意を決したように口を開いたのは七瀬 歩(ななせ・あゆむ)だった。 「ヴァイシャリー湖にあった、秘密の賭博場です。去年の話で、もうヴァイシャリー軍が管理してるんですけど……」 言いにくそうに濁した彼女の言葉を、琴理が引き取る。 「ヴァイシャリー軍が押収した顧客名簿の中に、アウグストさんのお名前が。真珠はアウグストさんによって、借金のカタに売られたそうです」 「アレッシアさん、アウグストさんに、直接賭博のことを聞いたことがあるんですか?」 歩は何となく、二人とも遠慮をしていて、察していながら疑うだけで、直接ぶつかってはいないんじゃないか、と考えていた。 「あたしはオペラの第一幕見れなかったんですけど、観劇した友達に内容を教えてもらったんです。『愛とはひとりでに生まれるものではない』って台詞は素敵だなぁって思いました。だって、結局相手がいて、その人をちゃんと見て、初めて愛が生まれる余地が出来るんですから」 「ディーノの演じてるオペラ、大人の話でよくわかんなかったんだけど、要するに頑張って好きになってもらおーとしなきゃダメってことだよね? ペットって家族みたいなものだし、売られるなんて真珠が可愛そうだし、した人は許せないけど……」 歩のパートナー七瀬 巡(ななせ・めぐる)が頷く。 「許せないようなことなら、なおさら、アレッシアねーちゃんもアウグストにーちゃんにしっかり言わなきゃ。どんな答えでも、それでも本当の気持ち聞けたら、きっと納得できるところあると思うよ?」 互いに不本意な結婚であっても、分かり合おうと努力したから、オペラの当主ジェラルドと騎士ヴェロニカの二人は結ばれた。勿論「おはなし」だが──そしてこれはここにいる全員が知る由もないのだが──現実のヴェロニカも、ジェラルドとは恋愛でなくとも、家族として友人としての結びつきを持つことができた。 今のアレッシアとアウグストの間にはそれがない。信用も信頼もお互いを思いやる心も。 歩はアレッシアの気まずそうな表情で、自分たちの予想が正しいことを確信する。 「あたし、真珠ちゃんを返すのが嫌なわけじゃないんです。でも、今のままのバルトリ家だと、真珠ちゃんを返してもまた同じことになるかもしれないんじゃないでしょうか。真珠ちゃんじゃなくても他のことで」 「そうでしょうね。ですから、私は──」 自殺しようとまで、追いつめられた。そして──、 「私は、自分自身を追いつめたんでしょうね」 三杯目の紅茶を有栖に注いでもらいながら、アレッシアはぽつぽつと話し始めた。 「何故死のうと思ったのかと言えば……、勿論今までお話しした事情もあります。けれど、あるとき、私の存在自体が夫を苦しめていることに気付いたんです……いえ、そう思った、と申し上げた方がふさわしいのでしょうね」 一言ごとに紅茶に口をつけながらの、それはゆっくりとした語りだった。 「私は夫を愛そうとしました。でもそれは“夫”という存在を愛そうとしただけだったのであって、あの方を一人の人間として見ても、信用しても、尊敬してもいなかったんだと思います。おかしいですね」 裏切られたのではなく、自分が裏切ってきたのかもしれない。 「結婚した当初から、お互い政略結婚だと思ってきました。夫は私を疎みましたが、それは政略結婚だから、だけでなく。私が私の意思というより、夫を補佐するという気持ちだけに囚われていたからかもしれません」 それに、賭博に関しても、忙しさを言い訳にして、もっと嫌われてしまうような気がして、大した害がないならと、感づきながら何も聞いてこなかった……、と彼女は言い。 「夫婦としてだけでなく、家族として、同じ家に住むものとしても興味を向けなかったのです。そして、事実に基づき判断するべき立場の人間が、思い込みだけで動いてしまいました」 ──その時、一人の使用人が、礼をして入ってきた。その顔には若干の緊張が見て取れる。 耳打ちしようと近づこうとする彼に、アレッシアは、何の用かと距離を保ったまま尋ねた。 「奥様、ご来客が……ディーノ様がお見えになっています」 「ディーノが? 何の用で……」 「茶器の件でお会いしたいと仰っておられますが」 アレッシアの顔色がさっと変わるのを、その場の全員は見た。 彼女は四杯目の紅茶を飲み干すと、震える声で、 「お会いします。お通してください」 とだけ、言った。 |
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