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リアクション
第8章 貴族達の幕間劇
誕生日の事件から一週間後の今日、オペラ歌手ディーノの住居は、かつてこの小さな家が迎えたことのない人数の来客を迎えていた。
ここでオペラ『騎士ヴェロニカ』の第二幕上演されるのだ。
無論個人宅、設備もない。そもそも、大勢の人が入れるような広さもない。日程がずれたために集まれない奏者もスタッフもいた。
けれどディーノは、それでもいいと思っていた。
「これはお礼の気持ちだからね。できる人間が、できることをして、それを観ていただければ……それだけでいい」
最高の舞台を御覧に入れることはできなくなったかもしれないけど、それよりも今の夫人を少しでも早く元気づけることができたらいいんだ、と。これはディーノだけでなく、他の出演者たちも同じだ。
何しろ、アレッシアが再び見てくれるというだけでも、彼らには嬉しかったのだ。何故か不仲であろう夫のアウグストも同席している。彼女たちには一番いい席と、家中で一番いいソファとクッションでおもてなしした。
それにその後ろには、ディーノの新しいスポンサービアンカがいる。複雑な事情は彼らのほとんどが走る由もない故に、仲間を援助してくれる彼女にもお礼を、と、歌手や奏者はかわるがわる訪れて、感謝の気持ちを表している。
「はい、これがしんこうひょうです。チェンバロがんばってくださいです!」
オペラの手伝い中のヴァーナー・ヴォネガット(う゛ぁーなー・う゛ぉねがっと)はフランツ・シューベルト(ふらんつ・しゅーべると)に書類を渡すと、また小走りに部屋を横切っていく。ゴシックな白黒ドレスのフリルが跳ねる。
開幕まであと一時間。
ヴァーナーは、息を切らして、朝からスタッフへお弁当を配ったり、お客さんへのお茶やお菓子を出したり、めまぐるしい。
廊下に出た時、視界の端に何だか違和感のあるものが映ったような気がしたが、出演者の最後の一人を支度していたクロエに呼ばれた。
「ごめんなさいヴァーナーさん、そちらに置いた飾りを取ってくれるかしら」
「はいです!」
そのまま忙しさにまぎれて、彼女はそれを忘れてしまった。
「……失礼」
ソファと椅子が並べられただけの、ささやかな観客席。急に立ち上がろうとするビアンカに、ローザマリア・クライツァール(ろーざまりあ・くらいつぁーる)が伊達眼鏡の奥から怪訝な目を向けた。
「どちらへ?」
「ディーノさんにご挨拶を」
「では私が先に話を付けてきます。あなたは危険ですから、ここでお待ちになってください」
今日のローザマリアは、教導団の軍服の代わりにドレスを纏い、ビアンカの従者兼護衛を務めていた。
「……分かったわ」
腰を上げかけたビアンカは一先ず大人しく座ってくれたが、
(まだ信用されてないみたいね……)
ローザマリアは心中で一人ごちた。
身辺調査に手間取って、大した収穫もないままカヴァルロ邸を訪れたのは、押し込み事件の後だった。ただでさえ怪しいのに、そんな事件の後で突然「従者にしてくれ」といっても、簡単に信用されるものではない。彼女もローザマリアについて何か探りたかったのだろうか、一応従者として雇ってはくれたが、家の中にはろくに上げず、外出時のお供だけなら、という条件だった。
(でもいいわ、ディーノを害するならどうせ外出時でしょうから。……で、困るのは私の正体を知ってる人がいることなんだけど……)
今のすぐ外で開演前の準備に忙しいディーノの側には、例によって戦部 小次郎(いくさべ・こじろう)がいる。彼女には、誕生日パーティでディーノに接触しようとして、小次郎に遮られた経緯がある。
(あっちがディーノの護衛なら、こっちはビアンカの護衛──監視って事で。職務中邪魔はさせないわ)
ローザマリアは小次郎に近づき、気配に気づいた彼が振り向きざまに“ヒプノシス”をかけた。彼女は、彼を催眠状態にして、「ローザマリアではなく全くの別人」という暗示をかけるつもりだったのだ。
──けれど、“ヒプノシス”には催眠の効果しかなく──彼女の強力な催眠は、小次郎をたちまち眠りに落としただけだった。
深い眠りにぐらりと傾く小次郎の体は、壁に背を付けると、ずるずると引きずられるように床に崩れ落ちる。
(な、何で寝ちゃうのよ、早すぎない?! どこかに連れてかないと。これがだめなら、“その身を蝕む妄執”で私を知覚できなくして──)
もしその幻覚を見せたとして、都合よく何かを知覚できなくする、という器用なことはできない。何かを見せることによって気を逸らすことは出来たろうが、小次郎が見るのは悪夢であり、事と次第によっては叫びだして大騒ぎになる可能性もあっただろう。
このままでは不味い。とにかく彼を一度起こすかどこかに引っ張っていくかしなければ。
彼女が仕方なく小次郎の体を担ごうとした時、
「──幕が上がる前に“もう一幕”を起こさないでね」
「……!」
声がして振り向けば、そこに立っていたのは宇都宮 祥子(うつのみや・さちこ)だった。礼服を纏った彼女の腕には判官の腕章。
「残念だわ、後輩同士で喧嘩してるなんて。ねぇ前回のことがあるのよ、また地球人が、って思われたくないわよね?」
「な、何であなたが……。それに、此方には此方の事情があるのよ」
「静香様とディーノには許可を貰って、今日はここの警備をさせてもらってるのよ。ビアンカが何かしないかと思っていたのだけれど……」
まさかローザマリアがしでかすとはね、と、祥子はため息交じりに続ける。
「ビアンカの護衛をしているようだけど、ディーノの護衛をしてる小次郎にこんなことをしたっていうことは、彼女からの指示があったと思っていいのかしら」
「違うわ、これには事情があるのよ」
彼女は弁解する。自分がビアンカの護衛をしているのは監視の為であり、ディーノを守る為でもある、と。
けれど祥子は、自分の中にむしろ苦々しい思いが湧き上がってくるのを感じていた。
──先日騎士ヴェロニカと会った時、彼女は自分の存在が今のバルトリ家を乱すことを危惧し、姿を見せないと言っていた。
祥子にも彼女の気持ちはわかる。実際バルトリ家に戻ってみれば、国難の時に貴族同士でのんきに足の引っ張り合いをする様が繰り広げられていたのだ。そしてそれ以上のこと……地球人による襲撃も。
(それでもヴェロニカには一度戻って、見て欲しかったと思っていたけれど。来なくて良かった、なんて思いたくなかった)
アウグストだけでなく、ヴェロニカも地球人に怒ってしまっていたかもしれない。こうして国を守るべき教導団員同士が争ってしまうような光景を見たら。元教導団憲兵科だから猶更悲しく思う。
「空京大学歴史学科所属の判官、宇都宮 祥子です。速やかに彼から離れてください」
“警告”を発し、怯むローザマリアを小次郎から引き離す。
「──何かありましたか」
「ああ、フェルナンさん」
騒ぎを聞きつけ、やってきたフェルナンに祥子は二人を視線で示して肩をすくめ、事情を説明する。前回オペラの手伝いとは無縁だったフェルナンも、家の警備を担当している一人だった。
「事実がどうあれ、彼女の行為はビアンカを聴取するに十分だと思うんだけど……どうします?」
「せっかくのオペラです、雰囲気を壊したくありません。取り調べるのは閉幕してからにしましょう」
それに会場には実は、
「彼女たちは私がお受けしますので、引き続き居間の警備をお願いします。ご存知かと思いますが、ラズィーヤ様もいらっしゃっていますから」
「分かったわ」
祥子が居間に戻る間、フェルナンは小次郎を揺り起こす。そしてローザマリアに告げた。
「──奇しくも彼女を捕える手伝いをしていただきましたね。お手数ですが、ヴァイシャリー軍の詰所までご同行頂けますか?」
開演まであと三十分。
「ええと、あとできたおきゃくさんは……はい、どうぞです」
ヴァーナーは、観客席で体を寄せ合っている二人へお茶とお茶うけのセットを出す。
如月 日奈々(きさらぎ・ひなな)と冬蔦 千百合(ふゆつた・ちゆり)の二人だった。
「また……付きあわせて、ごめんね……」
「ううん。あたしも続きは気になるし」
少し申し訳なさそうな日奈々に、そんなこと気にしなくていいのに、と、千百合が笑顔を向ける。
日奈々は彼女に嬉しそうに微笑み返しながら、
「あのときは……あんなことに、なっちゃって……途中までしか、楽しめませんでしたけど……続きが……気に、なりますし……」
先日貰ったパンフレットを千百合との間に広げながら、
「それに……観客は、多い方が…演じる側も…やる気が、出たりしないかなぁ……って……」
「そうかもね。えっとね、第二幕はここからだね」
千百合は目の見えないパートナーに代わってパンフレットをめくった。
「……古王国時代。ツァンダの騎士の家に生まれ、男兄弟に混じって自身も騎士として育てられたヴェロニカ・バルトリに政略結婚の話が持ち上がる。相手はヴァイシャリーの若きバルトリ家当主・ジェラルド。しかし、彼には美しい恋人がいた。
先代である父に抗えないジェラルドは、恋人と別れ花嫁を快く迎える決意をするが、花嫁ヴェロニカは、女王にのみ忠誠を誓っていたのだった……」
「ここまではぁ、この前……読みましたねぇ」
「第一幕の最後は確か、豪雨の日の話だったね。ヴァイシャリー家に使命を託されて、領地の森に住む魔女に会いに行くんだよ」
「森には盗賊が出るって言われてたんですよねぇ」
「そうそう、花嫁だからって家で待たされるヴェロニカが、夜中になっても帰ってこないジェラルドを探しに行くの」
盗賊に囚われたジェラルドはヴェロニカに救われ、お互いの気持ちに気付く。
「第二幕は……気持ちが通じた二人だったが、魔女への使いの内容とは、近い将来起こる大きな戦への協力要請だった。暗雲広がるヴァイシャリー。子をもうけ仲睦まじく暮らしていたジェラルドにも、ある日参戦せよとの命が下る。ジェラルドの代わりに自分が往くというヴェロニカ、出立まではあと三日……」
貴族の難しいことは脇に置いておいて、日奈々は笑顔で話を聞いている。
(うん、良かった、観客がいて)
彼女たちの表情に、隣の席五月葉 終夏(さつきば・おりが)はこっそりと微笑を浮かべる。
背後からは良くは見えないけれど、何となくよそよそしいアレッシアとアウグスト夫妻に、横にわざわざ警護を付けているビアンカ。窓際には会場警備に礼服の判官。ディーノにも教導団の護衛。
この間のオペラの時も色々あったし、今も人の色々な思惑……というか。見えにくい何かが飛び交っている。だからこそ、今度は最後までこのオペラが紡いでほしいと、終夏は思う。
幸いにも自分のヴァイオリンの出番はなさそうなくらい、出演者が集っている。ということは、それだけの想いで彼らは音楽のために今日も集ったのだ。
奏者の自分は、音色が届けたい人に届く幸福を知っている。だからただ聞くのが好きなだけでなく、彼らの想いをきちんと受け止める観客の一人としてここにいたいのだ。
(最後まで演じられるといい。それで何かが変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。何よりね、このオペラの結末を私は知らない)
本当は観客が笑顔になるハッピーエンドなんかじゃなくて、ひどいバッドエンドなのかもしれない。
(でも、だからこそ思うんだ。わたげうさぎも凍える息吹は、ずっと吹き続くものではないと、言う事を)
思い出そうとすれば、胸の奥から湧き出るように広がる、第一幕の終わりのヴェロニカのアリア。自身の本当の気持ちに気付いた彼女が、自分の女性としての気持ちを花に託して、冬の吹雪で枯らせて欲しいと願う場面──。
(そして、信じたい。音楽はどんなかたちでも聴いた者の心に残る、って。音楽と、音楽を愛する人たちの力を)
終夏は息を細く長く吸って、吐いて。心を落ち着ける。幕が上がったらそこからは素敵な音楽の時間。まっさらな心で受け止めたかった。
──やがて時は満ち、オペラの幕が上がる。
変哲のない小さな居間に、無限の空間が広がった。森が、屋敷が、ヴェロニカの花が、色とりどりの情景が。
音は響き声は告げる。どんな言葉よりも饒舌に語る。アレッシアと全ての観客たちへ、惜しみない感謝と真心を──。
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