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第2章 音術師の記録 1

 その楽譜は先が読めなかった。
 壁面に描かれていたせいでもあるのだろうが、長年の荒廃で文字がかすれてしまっていたのだ。
 それでも、五月葉 終夏(さつきば・おりが)は壁面の前に立ってそれを見つめていた。
「…………」
 タイトルもはっきりとした音階も分からない。それでもそれが、かつてはここで奏でられていた『曲』だったのだということが、終夏の心を不思議な高揚感で包みこんでいた。
 手に持っているヴァイオリンケースを開いて、今すぐにでも奏でてみたい。そんな衝動に駆られた頃――彼女は呼ばれた。
「終夏君? 何してるんだい?」
「あ、あわわわわっ!?」
 突然の背中越しの声に、慌てて彼女は振り返った。
 パートナーのセオドア・ファルメル(せおどあ・ふぁるめる)が、きょとんとした顔をしている。終夏は顔を真っ赤にしてパタパタ手を振った。
「い、いや……その……なんていうか……ちょ、ちょっと楽譜を見てただけ。うん、そ、そう、それだけ!」
「楽譜?」
 小首を傾げて、終夏の頭越しに壁面へと視線を移すセオドア。
 納得して、呆れにも似た顔になった。
「ははぁ〜……どうせまた、弾いてみたいとか思ってたんでしょ?」
「そ、そんなことないよ! 全然そんなことないよ!」
 図星を突かれて挙動不審になっているのは明らかで、セオドアは疑うようにじと目でにやついた笑みを浮かべた。
「ふ〜ん、そう……? ならいいんだけどね」
「そ、そうだよ! みんなで冒険の最中にいきなり一人だけヴァイオリンを弾こうなんて、そんなこと考えるはずないよ!」
「…………いつもやってる気がするけどなぁ」
 朗らかに苦笑するセオドア。それを衝動的にやってしまうのが終夏なのである。
 もちろん、いつもならばそれをされてもセオドアが必要以上に何かを言うことはないが――今回はお仲間も一緒だ。
「終夏さ〜ん! セオドアさ〜ん! ちょっと来てもらっていいですかー?」
「はいはーい! いま行きます〜」
 客に呼ばれた店員のような声を出して、セオドアが部屋を出ていった。
 終夏もそれに続く。ふと……彼女が途中で振り返ったのは、その楽譜が名残惜しそうにこちらを見ていたような。そんな気がしたからだった。


 巨大なホールのような部屋の中心で、彼女たちは感嘆の声をあげていた。
「うわー…………すごいです。ウォーエンバウロンさん一人で、こんな部屋を作ったんですね」
「そのようだな」
 頭上を見上げて、無数に描かれている紋様に驚く東雲 いちる(しののめ・いちる)と、それを見守るギルベルト・アークウェイ(ぎるべると・あーくうぇい)
 言わばそれは巨大な楽譜であった。先ほど終夏が見つけた速記の楽譜とはまた違った、いわゆる『魔法』を応用した複合式である。その緻密さもさることながら、物量的に考えてもこのホールのような部屋一面に描かれていることに終夏は感動を覚えていた。
「これが……音術なのかな?」
 誰ともなく呟いた彼女に、エヴェレット 『多世界解釈』(えう゛ぇれっと・たせかいかいしゃく)が答えた。
「さあ、どうでしょう? 魔法を使えることを前提としているのか、あるいはそうでなくとも音の媒体が魔法を生み出すのか。……ソプラノは、分かるかしら?」
 興味津々といったように壁を触っていたソプラノ・レコーダー(そぷらの・れこーだー)は、ふるふると首を振った。普段は眠そうな顔の目が、今は少しだけ見開いているような気がする。彼女はスキップをするようにしてぴょんぴょんと跳ねながら、壁面の紋様を観察していく。
 そんなソプラノの様子を見て、いちるは笑っていた。
 ギルベルトが、彼女に言う。
「嬉しそうだな、いちる」
「はい。ソプラノちゃんも、楽しんでるみたいですから」
「そうだな…………相変わらず、俺に対する視線は痛いが」
「ふふっ……それもきっと愛情の裏返しですよ。ソプラノちゃんには……もっと『楽しむ』ってことを知ってもらいたいです」
 いちるはそう言うが、ソプラノのそれはマスターであるいちるに近づくギルベルトを快く思ってないからであって――決して『愛情の裏返し』なんかではないことを、彼はよく知っていた。ソプラノのもとに駆け寄っていったいちるに続こうとしたギルベルトを、ソプラノが「近づかないで」といった目でジーっと見ている。
 視線と言えば、魔道書であるシュバルツのそれも怪しいものだった。
「フフフ……」
「…………」
 恍惚に浸っているそれは、危険というか怪しいというか――如何わしい? に最も近いような気がした。そんなシュバルツの視線に対して、対抗意識のようなものを燃やすギルベルト。
 三つ巴の視線にさらされるいちるを見て、終夏は大変そうだなぁと苦笑した。
 そんな折、笑顔の守護天使が天真爛漫にあることを提案する。
「そーだ!」
「……?」
「終夏君とソプラノ君で、この楽譜を演奏してみるってのはどうかな? 魔法式と音楽の楽譜が混ざってるみたいだけど、やってやれないことはないだろ?」
「え……で、でも……」
 終夏はソプラノに視線を落とす。隣でいちると一緒にいた彼女は、同じように終夏を見上げた。
 互いに交わる視線。二人は次に壁面へと目を送る。そこに描かれている紋様は、先ほどの楽譜よりか多分に読み取ることが出来る。確かに、演奏できなくはなさそうだ。
 終夏はぎゅっと、胸元で拳を握った。
 気づけば、ソプラノが小型の鍵盤付き演奏機を取り出していた。音楽の為に作られた機晶姫である彼女は、その鍵盤付き演奏機を利用して音楽を奏でることが出来る。
「……うん」
 二人は頷き合った。
 そして、互いに別々のパートが重なっていることを読み取って、演奏を開始した。
 優しい曲だった。まるで母が子に向けて子守唄でも唄うかのような――そんな優しい曲。
 終夏はヴァイオリンを。ソプラノは鍵盤を。ホールは演奏ホールとなり、セオドアたちは観客となった。奏でられるそれは、一つ一つの音符を踏むごとに不思議と力が増してきた気がした。
「わぁ……」
 気づけば、セオドアたちの周りでかすかな光が粒子となって舞っていた。終夏のヴァイオリンが音階をうねるように歩くと光は躍動し、ソプラノの鍵盤が甲高い音を弾くと、光もそれに合わせてとび跳ねた。
 曲の演奏中、終夏はウォーエンバウロンの姿を見た気がした。
 彼がこのホールに紋様を刻んでいる姿が、壁面の向こうに映ったのだ。彼は悩み、もがき、立ち止まり、嬉しそうな顔になり、喜んでいた。自分の曲が光を動かすことを、彼は純粋に嬉しく思っていた。
 ――これが、彼の音色だったのかな?
 答えは分からないが、光はやがて紋様の文字と音符の上をなぞり始めていた。
 ソプラノもまた、ウォーエンバウロンの姿を見たのだろうか。普段はまっすぐ結ばれている彼女の唇が――このときだけは、嬉しそうに形を変えていた。