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前奏曲 七宝細工の眼をした人形


「へええ、これが聖ホフマンの神殿かあ」
 九条 ジェライザ・ローズ(くじょう・じぇらいざろーず)がパンフレットから顔を上げ、天井を見上げた。
 石造りの伽藍は、ヨーロッパの教会のようにも、アジアの寺院のようにも、また南米の神殿のようにも見え、一方でそのどれとも似ていない不思議なデザインだ。
 ドーム状の天井は高く、外光を取り入れる為の幾何学的なデザインの天窓が、いくつもはめ込まれている。きっと昼間はここから、陽の光がレンブラントの絵画のように差し込んで来るに違いない。
 日暮れをとうに過ぎた今は、壁にかかった燭台の揺らめく明かりだけが幻想的に室内を照らし、ローズの黒髪と横顔に艶やかな陰影を作り出している。
「いいなぁ、まさに古代のロマンって感じ」
「そうかなぁ」
 嬉しそうなローズとは対照的に、連れの斑目 カンナ(まだらめ・かんな)は不満顔だ。ギターケースを肩に掛け直して、疑わし気な視線をその燭台に向ける。
「……あれ、蝋燭っぽく揺らしてるけど電球だよね」
 鋭い指摘に改めて見直すと、確かにその通りだ。炎の揺らめきに見えたのは電飾の演出らしい。
「それに、これも」
 扉の横に立つ女性の像にポンと手を置いて、そのざらりとした表面を撫でる。
「彫刻っていうより、これ、セメント型抜きの安物じゃないの?」
「もう、カンナったら」
 さっさと神殿から出て行ってしまうカンナを追いかけ、ローズが口を尖らせた。
「あら探ししないで、ロマンを楽しまなくちゃ。ほら、セメントの像なら古代ローマにだってあったんだし」
 古代ローマと古代パラミタではずいぶん違うと思うのだが。
 だいたいロマン云々と言うなら、「恋人のお祭り」に恋人とではなく自分と来るのが既におかしい……とカンナは思った。
 それに関しては出かける前から訴えているのだが、ローズは「カンナとならカップルに見えるし、別に良いじゃん?」とまるで気にしない様子だ。
 しかし、それ以上追求する気もしないのか、つまらなそうにつぶやいて階段を下りて行く。
「ロマンねぇ。まぁ、いいけど……っと、失礼」
 そのカンナのギターをかすめて、一人の少女がすれ違った。
 体にぴったりした白いメカニカルなスーツと、白い肌。それにゆるくウェーブした銀の髪。機晶姫だ。
 白い光が漂って行ったかのような雰囲気の中で、七宝細工のような光をたたえた藍色の瞳が、妙に印象に残った。
 咄嗟に身をかわして発した詫びの言葉に視線も向けず、長い髪をなびかせて何事もなかったように階段を上っていく後ろ姿に、カンナは軽く舌打ちをする。
「……無視かよ」
「まあまあ、ぶつかったわけじゃないし……あれ?」
 苦笑してカンナをなだめようとしたローズが、ふと何かに気がついたように表情を変える。
「……今の、えっと……」
「何」
 カンナが訝しげにローズを見る。ローズは首を傾げ、記憶を辿るように眉間に皺を寄せ、空に視線をさまよわせた。
「んー、誰だっけ、なんか、知ってる人だったような……あ」
 くるりと振り返り、今降りてきた階段の上をぴたりと指差した。
「あれだ、さっきの像とそっくりなんだ!」
 神殿の入り口の女性像。地球のアールヌーヴォーっぽい雰囲気のそれを指差していたローズは、我が目を疑った。
 目の前で、その像の姿がわずかに揺らめいたように見え、次の瞬間……消え失せたのだ。
「……え、えええっ!?」
「どうしたの」
 大袈裟な声を上げるローズを諌めるような気のない声で言って、カンナも背後を振り返る。
「……あれ?」
 神殿が大仰な割に、学校の非常階段みたいだと思っていた正面階段が、正真正銘の古代の神殿のような重厚さをたたえて目の前にある。
 おもわず瞬きをして見直したが、踊り場に置かれた篝火も、間違いなく本物の炎がぱちぱちと音を立てて燃えていた。
「……カンナ?」
 ふいにローズが聞いた。
「どうしたの、そんなの抱きしめて」
「……えっ」
 ローズに指摘されて、カンナは初めて、自分が肩に掛けていた筈のギターケースを両手で抱きしめているのに気がついた。
 何をやってるんだ、と自問して手放そうとして自分自身の異変に気づいた。
 ……手放したくない。
 自分の楽器に愛着がない訳ではない。しかし、それは執着というにはほど遠い希薄なものだった筈だ。
 ……抱きしめていたい。
「ローズ、何か変だ」
 カンナは言った。
「あたし、恋したみたい。……ありえないよ、絶対」 


 テテ・マリクル(てて・まりくる)は困惑していた。
 何が起こったのか、さっぱりわからない。ほんの少し前……正確にはどの瞬間に”それ”が始まったのか、テテにはよくわからなかったが……少なくともほんの数分前までは、いつも通りの無邪気なで楽しい時間を過ごしていたのだ。
 恋人たちというよりは、姉弟のような関係ではあったが、大好きな眠 美影(ねむり・みかげ)とふたり、後夜祭の出店で食べ歩きを楽しんで。
「楽しいね、テテと来られて良かった!」
 そう言って美影が笑ったのが嬉しくて、テテもはしゃいで、美影に甘えて、笑っていたのだ。
 それが、何故か。
「きゃあああ! 君、可愛いぃぃ!」
 その黄色い声が、異変の始まりだった。
 黄色……いや、むしろピンク色のような。
 パステルピンクのハート型のシャボン玉が吹き出すみたいな声を上げて美影が抱きついたのは、たこ焼き屋の前にあった人形だ。
 店のキャラクターのゆる族を模したと思われる、法被を着た人間の頭部が、バネで揺れる真っ赤なタコ。若干邪悪な何かを思わせるデザインだが、罪のないつぶらな瞳ときゅっと巻いたねじり鉢巻が、確かに可愛いと言えば、言えなくもない。
 それにしても、美影の様子は度を超していた。
「ああもう可愛いかわいい! タコ君、あたしと一緒にいきましょう!」
 タコの頭部にひしと抱きついて放そうとしない。
「み、美影……? どうしちゃったんだよー」
 困惑したテテが声をかけても、美影はおかまいなしでタコにしがみついている。
 おかしい。こんなのは絶対におかしい。
 気がつくと、目の前にあったはずのたこ焼きの屋台が、美影がしがみついたタコを残して消え失せている。
 ずらりと並んでいた他の出店や屋台も、その周囲を飾っていた派手な電飾も、ざわめいてていた周囲の人々の姿もない。
 でも、そんなことより。
 ……美影がオレのことを無視してる……。
 テテは思わず、強引に美影の手を取った。
「しっかりしてよ! いつもの美影らしくないじゃん!!……いくよ!」
「ああん、あたしのタコさぁぁん」
 情けない声を上げて引き剥がされる美影の手を、テテはぎゅっと力を込めて握った。
 何か、あったんだ。それが何かはわからないけれど。
 ……美影を元に戻さなきゃ!
 テテは強く決心して、歩き出した。


 その頃。
 混乱が始まった街では、だれもそこに目を向ける余裕のある者はいなかった。
 もしも誰かがそこ……街の入り口に立つ門の上に目をやれば、そこに立って街を見下ろす機晶姫の姿を見た筈だ。
 月の光を受けていっそう白く輝くその姿は、先刻カンナとすれ違って神殿に入って行った筈の、あの機晶姫だ。
 彼女はその七宝細工の瞳で足下の街を見渡し、虚ろにつぶやいた。

「……ここは、愛の街。アナタは、どこ……?」

 一陣の風が吹き、機晶姫の銀の髪が舞い上がる。
 そして、月光に溶けるように……彼女の姿は消え失せた。