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第二章

1 空京 オフィス街


 初夏の穏やかな日差しが、立ち並ぶオフィスビルの影を人気のない通りに落としている。
 出社時間を過ぎて人の出入りの途絶えたビルの入り口へ、鋭い視線を向ける少女がいた。レキ・フォートアウフ(れき・ふぉーとあうふ)である。
「……今のところ、怪しい人はいない、か」
 隣のビルの影に身を隠し、むつかしい顔で呟いた。
「レキ、退屈じゃ」
 足下に座り込んでいるミア・マハ(みあ・まは)が声を上げた。
「そろそろ派手なアクションはないのか」
「張り込みの神髄は忍耐だよ、ミア」
 忍耐も何も、張り込みを始めてからまだ一時間と経っていない。
 この地味な行為で刑事ドラマの雰囲気を満喫しているレキとは対照的に、ミアは雰囲気のツボが違うらしい。不満の表情を貼り付けた顔でレキを見上げた。
「捜査の基本は足、と言うではないか。聞き込みはしないのか」
「うーん、聞き込み、ねぇ……」
 チラッとミアの方に視線をやって、レキは困ったように顔をしかめた。実年齢がいくつであれ、ミアの外見は完全に子供だ。
 これが道ゆく人に聞き込みなんかやっていたら、あまりに目立つ。確実にオフィスの噂の的だ。
 レキは苦笑して言った。
「んー、やっぱり、聞き込みははやめとこう」
「何故じゃー」
「ほら、ボクが張り込みで怪しい人を見つけたら、ミアに尾行を頼むから」
「尾行か……」
 警戒されにくい子供の外見を利用した、華麗な尾行術……。
「ふむ、悪くない」
 そう呟いたミアの手の中に、ポイと何かが放り込まれた。ミアが目を丸くして声を上げる。
「アンパンではないか!」
「フッ……張り込みの友は、何と言ってもアンパンと牛乳だよ、ミア」
 レキはいい笑顔で自分のアンパンを齧り、牛乳パックを差し出した。
「うむ、お約束じゃな!」
 ミアも目を輝かして牛乳を受け取った。
 

「アンパンと牛乳には共感しますが……あれは隠密行動のつもりなのでしょうか」
 葛城 吹雪(かつらぎ・ふぶき)は、レキとミアの楽しそうな後ろ姿を見守りながら、自らも手にしたアンパンを齧った。
 そもそも、ここはオフィス街だ。隣のビルの陰に隠れたところで、反対側から見れば普通に「壁に貼り付いてアンパンを食べる少女2人」の図。悪目立ち以外の何ものでもない。
 吹雪が顔を上げると、向かいのビルの2、3階の窓から、不思議そうにそれを見下ろす人影もあったりする。
 こうして隠れ身を使ってその背後から観察しているのが、少々後ろめたい気持ちになってくる。
「一言、声を掛けておくべきでしょうか」
「放っておけ。良い具合に人目を引いて撹乱になるわ」
 そう言いながらアンパンにのばすイングラハム・カニンガム(いんぐらはむ・かにんがむ)の触手を容赦なく払いのけて、吹雪は顔をしかめる。
「そういうのは、トンちゃん刑事さんが散々やっている筈でありますが……」
「だからこそ、だ。今度はあやつらが派手にやれば、トン……なんとかに働いた力があやつらにも向くかもしれん」
「それでは危険であります!」
 さらに伸びてくる触手を再びぱしぱしっと払いのけ、吹雪は声を荒げた。
「バカ者、そこを押さえれば解決ではないか……というか、我にもアンパンを食わせてくれてもよかろうに……」
「不許可であります。民間人を囮になどできません」
「……待て」
 執拗にアンパンを狙う触手を止めて、イングラハムが低く言った。
「誰か来たようだ」
 見ると、問題のオフィスの入り口にスーツ姿の男性がいる。
「……社員さんのようですが……」
 身なりに不審なところはない。しかし彼は入り口のドアの前でふと足を止め、ちらりと向かいのビルの方に視線をやった。
 レキとミアが潜んでいる姿は、あの場所からは死角になっている筈だ。
 その視線を辿ると、そのさらに背後にいる若い女が目に止まった。その一瞬の視線に軽く頷くと、レキとミアの背中にちらりと目をやり、すぐに踵を返した。
 男の方は、何事もなかったようにオフィスに入っていく。
 吹雪はアンパンの最後の一片を口に放り込んで、呟いた。
「……怪しいであります」
 イングラハムは絶望的な声を上げた。
「……くぅ、この人非人が」


「わかりやすい張り込みで助かりますわ」
 真端 美夜湖(しんは・みよこ)は小さくほくそ笑んで、レキとミアの背中をを見遣った。
「これなら、楽勝ですわね」
 無骨なアタッシュケースを重そうに持ち直し、美夜湖はそっとその場を離れた。
「これを指定の倉庫に届けるだけなんて、楽なバイトですわ」
 相場を遙かに超える高額報酬を思い出して、くくく……と、悪い含み笑いを漏らしかけて思い直す。そして、うふっ、と可憐に笑った。
 そのとき。
「君……君、ちょっと待ち給え」
 立派な肺活量を思わせる声に、美夜湖は思わず飛び上がった。
 ちょっとした小遣い稼ぎに、悪人商会のサイトから「誰にでもできる簡単なお仕事」の募集に乗っかっただけなのだが……まあ、どこにも「合法です」とは書いてなかったし。
 倉庫から倉庫に、ちょっとした荷物を送る簡単な仕事にしては、時給が高すぎるし。
 なんかヤバい仕事に使われてるんだろうな〜、とは思いつつ、まあ、背に腹は変えられないと言うか、遊ぶお金が欲しいと言うか、あまりこだわらないことにしたのだ。
 ハイリスクハイリターン。いい響きではないか。
 ……が、捕まる、となれば話は別だ。
 心の中で身構えながら、一番邪気のない最高の笑顔を作って、振り返った。
「はい、何か?」


 百合園女学院制服、お嬢様然とした物腰に、ゆるいウェーブの掛かった長い黒髪。
 普段なら、多少の胡散臭い行動をとっても、見逃されてしまう最強コンボだ。
 『怪しい女がそちらに向かった』という吹雪の報告で駆けつけた夜刀神 甚五郎(やとがみ・じんごろう)は、これを怪しい女と考えていいのか、戸惑っていた。
「君、ここの関係者か?」
 甚五郎は紳士的に訊いた。美夜湖は一点の曇りもない笑顔のまま、こくこくと頷いて、そうです、そうですと連呼する。
「バイトでも、しているとか?」
「はいっ」
 一応ギリギリで嘘はついていない美夜湖が、自信を持って答える。
 ……怪しい。
 『ここ』というのはオフィス裏の流通倉庫だ。甚五郎の頭の中には、屈強の若者が爽やかな青春の汗を流して重いダンボールを気合いで運んでいる、若干大時代的なイメージが浮かんでいる。
 やはり、怪しい。
「君が、力仕事か?」
「えっ」
 一瞬慌てたように言い淀みながも、美夜湖それでもニコッと愛らしい笑みを浮かべて答えた。
「そ、そうなんです。私、結構鍛えてるんです。これでも、その……」
 そして、恥ずかしそうに顔を伏せ、そっと甚五郎を上目遣いで覗き込んだ。
「脱いだら……スゴいんですよ?」
「な、に……っ」
 ……いける!
 この古典的な技に真っ赤になって硬直する甚五郎を見て、美夜湖は勝利を確信した。
 しかし……


「あああーん、ごめんなさいぃぃ」
 嘘泣きとは言っても泣きは泣き。そう言わんばかりの哀れっぽい泣き声を上げているのは、美夜湖だ。
 彼女の確信した通り、甚五郎はあっさりと美夜湖のハニートラップの術中に落ちた。
 むしろあまりに熱い落ちっぷりに、美夜湖も軽く持て余し気味になったほどだ。
 本能的に感じる身の危険とお小遣いの貰える「お仕事」両方のために、早々にこの場を離れようとした美夜湖の努力は、甚五郎の無自覚な気合いによって阻まれた。
 それでもなんとか離脱しようと必死で考えを巡らしていた美夜湖に止めを刺したのは、背後から掛かった、ハスキーボイスだった。
「お嬢さん、何かお困りかしら?」
 たいへん「お困り」だった美夜湖は、ほとんど救いを求めるように声の方を振り返った。
 長身の、黒髪の美女が立っていた。
「ちょっと、お話を伺いたいんだけど、よろしいかしら? さっき、あのビルに入っていった殿方とのご関係とか……どうして、彼に怪しげな術を掛けたのか、とか、他にも、色々と……ね」
 長い睫毛に縁取られた黒い瞳が、すっと意味ありげに細められる。
 それは黒髪の美女、ではなく、女装姿の黒崎 天音(くろさき・あまね)だった。
 そして……この嘘泣きに至る訳である。
 観念した美夜湖の自白は、実に簡にして要を得たものだった。
 曰く「お金に目が眩んじゃったんですぅー。あの男から受け取ったものを、郊外の倉庫に運ぶだけの簡単なお仕事って聞いたんですぅー。他には何も知りませんー。ごめんなさいぃぃ」
 練習していたのではないかと思えるほどに、よくまとまった説明だ。
 しかも、アタッシュケースの中味はマヨネーズが一本。
「……分析させてみるか?」
 ブルーズ・アッシュワース(ぶるーず・あっしゅわーす)が困惑したように訊く。天音は肩をすくめて、
「そのお嬢さんと一緒に、警察に届ければいいんじゃないかな。多分、ただのマヨネーズだと思うけど」
「えええ」
 美夜湖が涙目で哀れっぽい声を上げる。
「君は、撹乱に利用されたんだよ。警察でじっくりお説教をしてもらうんだね」
「そんなぁ〜」
 天音は、美夜湖の嘆きを無視して、甚五郎に目をやる。大袈裟に嘆いている美夜湖よりも、甚五郎の方が落ち込みが激しいようだ。自慢の気合いが抜けたように、肩が落ちている。
「じゃあブルーズ、後を頼むよ」
 マヨネーズを片手に甚五郎を慰めていたブルーズが顔を上げた。
「……どうするんだ」
 ブルーズの言葉に、天音は婉然と微笑んだ。
「き・き・こ・み♪」
 ブルーズの眉間に、くっきりと縦皺が刻まれるのを面白そうに眺めて、天音は言った。
「イケメンスーツのビジネスマンでも捕まえて、さっきの男のこと、根掘り葉掘り聞いてみようかな」
「ちょっと待った!」
 いきなり、どこからかダメ出しの声がかかった。
 一同が振り返ると、両手にアンパンと牛乳を持ったレキと吹雪が、仲良くちょっと待ったのポーズで立っていた。
「……ええと、君らは?」
「通りすがりの張り込みの者です」
「同じくです」
 いつの間にか、意気投合していたらしい。妙にいい呼吸で、二人は口々に言った。
「イケメンスーツのビジネスマンは、意外に自分の仕事以外には通じていないものです」
「そのとおりです、オフィスの真の支配者は、別にいます」
「そして、最高の情報収集場所は……」
 ひと呼吸置いて、ふたりに同時に言った。
「……給湯室です!」
 その瞬間、天音の表情が僅かに強張ったのを、ブルーズは見逃さなかった。