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絶望の禁書迷宮  追跡編

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絶望の禁書迷宮  追跡編

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第2章 「時の花」の影で

 いかめしい背表紙の本が並ぶ書棚、古びたランプ、首の曲がったフラスコ。
 しかし机の上には、酒の瓶。
「…ったくよお、それ以外に答えはねぇのか」
「うっせぇな。堂々巡りはお互い様だろうがこのヨッパライ様が」
「誰がヨッパライだコラ。ヨッパライのパイオニア様と呼べ、パイオニアと! ケッケッケ」
「あーあー絡みだしやがった。一応結界の監視しなきゃなんねんだぞ、おいオッサン、……?」

 人化した魔道書『オッサン』と『騾馬(らば)』が、それぞれグラスを片手に何やら下卑た笑いやボヤキ口調も交えながら喋りこんでいる。それがぴたりとやんだのは、大久保 泰輔(おおくぼ・たいすけ)とそのパートナーたちが近づいてきたからだった。不意の闖入者たちに、二人の魔道書は敵意を含んだ怪訝そうな目を向けた。
「…おい、誰かこの酒宴に人間呼んだのか?」
「オッサン、酔いが酷いな。呼ぶ訳ねえだろ。そもそもいつこれが宴になったよ」
 無精ひげに半白の短い髪を乱した『オッサン』は、アルコールの色の差す目をギラリと光らせ、腰かけていたテーブルの端から滑り降りた。『騾馬』は横にある流し台のへりに座っていたが、彼の方は動くつもりはないらしく、冷たい視線をただ契約者たちに据えていた。
「ふん。パレットあたりの差し金か?」
「違うな。あいつはそんな甘っちょろい奴じゃない。大方リピカの心配性だろうよ」
 言いながら、オッサンは泰輔の前にぶすりと立った。
「何か用か、お若いの」
「まぁ、ちょっとお話でも、と。僕ら見たことあります? 半日くらい前に」
 一応あの書庫入口で結界越しに彼らの姿を見てはいるし、彼らの今後に関して「ニルヴァーナに新設される図書館に」と提案している。その時彼らは姿は見せなかったが、見せないところで自分たちの話を聞いていたふしはあったので、泰輔はそのような質問をしてみた。オッサンはじろじろと無遠慮に泰輔を眺め回したが、
「どうだかなぁ。うっすらあるような、ないような」
 ダミ声で言って、
「まぁ、座れや」
 席を勧めた。
「お邪魔します」
 泰輔に続いてフランツ・シューベルト(ふらんつ・しゅーべると)讃岐院 顕仁(さぬきいん・あきひと)レイチェル・ロートランド(れいちぇる・ろーとらんと)も席に着く。
「もてなすのか」
「それもしないほど器の狭い奴だと思われるのは癪なんでな」
 騾馬の冷たい口調に振り返りもせずそう返したオッサンは、席に着いた四人の目の前に、グラスに注いだ酒を問答無用でどんっと置いていく。
 これは「俺の盃に手も付けない奴の話なんぞ聞かん」という無言のアピールだと思ったので、四人は素直に「頂きます」と口を付ける。
 と、そこへ。
「あ……ちゃー……なんかアルコール臭がする……」
 セレンフィリティ・シャーレット(せれんふぃりてぃ・しゃーれっと)セレアナ・ミアキス(せれあな・みあきす)もやってきた。
「なんだなんだぁ? 今日は招きもしねぇのによく余所者が来やがるなぁ」
 オッサンはぎろりと二人を見たが、やはりグラスを二つ出してテーブルに置くことで、無言で着席を勧めた。二人がそれに従っている間、フランツは研究室らしき室内の様子を見回し、グラスの酒を呷って呟くように言った。
「なかなか、面白い様子の部屋ですね」
 今にも、中世ヨーロッパの錬金術師が得体のしれない煙を出すフラスコでも持って現れそうな風情だ。その言葉の後を引き受けたのは泰輔だった。
「ま、確かに興味深い部屋ではあるけど……書物がずっと籠っているべき場所ではないと、僕は思うねんなぁ」
 オッサンは一瞬泰輔を見たが、ここでは口を開かず、黙ってフランツの空のグラスに酒瓶から二杯目を注いだ。続けていいという意味だと受け取り、泰輔は話し続けた。
「もしかしたら自分らは、人の手に触れられるのもイヤなほど、手ひどい扱いを受けたんかもしれへん。けど、書物は人によって、人が読むために作られた存在や。
 ヒトと分かたれて自分ら魔道書が、魔道書だけで固まって集まって在る今の姿は、正しいものやないと僕は思うよ? 何か不自然に感じるわ」
 泰輔の言葉を、オッサンは黙って聞きながら、自分の空いたグラスに手酌で酒を注ごうとしたが、顕仁が瓶を横から静かに引き取り、代わりに酌んだ。酌みながら、
「そもそもそなた達は、人間の手によって綴られ形を成し、人間の手に取られて読まれるために生まれた存在であろう。
 そのように生まれたくなかった、としても、生まれ出たならばその役割を果たさんとするのが『存在』の意味であろうよ」
「その通りですよ。貴方だって、誰かが誰かの為にしたためた書物なわけでしょ?」
 フランツも言葉を添える。すると、顕仁の酌に微かに頷く程度に頭を下げてみせたオッサンは、何故だか急に、片方の口角を釣り上げてにやっと笑った。
「ふん。……ま、お前らが俺らのことをどう思っているのかは知らんけどな。これでも俺も、相当数の人間に閲覧された過去があるわけよ」
 そう言って自分のグラスに口を付けようとしたが、セレンフィリティのグラスが空になっているのに気付き、腕を伸ばして酒を注いだ。
 泰輔が、わずかに身を乗り出した。
「そうなん?」
「おうよ。その結果、世間からは貶められ、時の権力からは処分対象となった」
 ざくりと切るような口調でそう言った後、ぐっとグラスの酒を干した。
「お前ら確か、どこだかの図書館に行くようにって勧めてた奴らだったな。どんな本にも誰かに必要とされる知識がある……そう思うか?」
 泰輔たちが頷くと、オッサンの顔に、にやあっと卑屈な影を帯びた笑みが広がる。
「ない奴もいるんだよ。
 あのな、人が本を著すのは、知識を残すとか、誰かへの思いを残すとか、そういう動機だけじゃない。
 時代と世論に無理矢理押し出され、移り気で軽薄な期待に応えるため、中身も伴わずに生まれてくる――そういう奴もいるんだ。俺や騾馬のようにな」

 セレンフィリティは、いわゆる「いけるクチ」である。
(あ、醸造酒じゃない……蒸留酒よね、これは)
 酒好きの心を開くには酒の話をするしかない、と、話の糸口にするため、飲みながら注がれた酒がどんなものかを検分していた。……が。
 オッサンが空のグラスに気付いた時にはどんどん注いでくれる。そうして自分もぐいぐい飲むので、彼に負けじとどんどんグラスを干していくうちに、いつの間にかかなりのピッチになっていた。
「安酒で酔うと、後が酷いぞ」
 突然、それまで彼女の後ろの流し台に座って黙って眺めていた騾馬が、ぼそりと声をかけてきた。呆れたような声音だった。
「安酒〜? 安いの? これ」
 空になった瓶はテーブルの下に置かれている。体をかがめてごそごそと手探りしていると、
「おいこら、安酒とは聞き捨てならんな騾馬!」
「安酒に違いねえだろ。今の技術で精製された酒に馴染んでる口にはな」
 オッサンと騾馬がそんな会話をしていた。その間に空瓶を手に取ったセレンフィリティは、ラベルを確認しつつ、スキル『博識』を働かせた。
「“アクア・ヴィテ”……あれかな、北欧のじゃがいものお酒? ちょっと違うか。……命の水、って意味よね?」
「世界最初の蒸留酒さ。蒸留酒は、錬金術の実験から偶然発見されたんだ」
 オッサンが突然、セレンフィリティに言った。
「錬金術……。だからこんな部屋で飲むの?」
「……。偶然発見されたアルコールの抽出法は、当時、錬金術にとって大きな意味があった。何せ、水が燃えるんだからな」
 セレンフィリティの問いを無視して呟く、オッサンの口調が微妙に変わったことに、一同は気付いた。
「その『燃える水』についての奥義書が発刊された。如何にもそれっぽい、ごつい装丁の見てくれは立派な本だ。
 しかし、いざ開いてみるとそれは、錬金術と無関係の一般人でも作れるような安っぽい蒸留酒の精製方法と飲み方の勧め、といった俗っぽい内容だった。
 酒好きにはウケたが、錬金術に携わる者には蔑視され、やがて安酒の流行が風紀を乱す人間が続出させたとして、当局にも睨まれて発禁処分になった」
 オッサンの姿が消え、テーブルの上に乗っていたのは、古びた、装丁だけはひどくいかつい一冊の本だった。
≪俺はいわば、ヨッパライのパイオニアが、大流行の錬金術の体裁を借りて書いた、インチキ錬金術書なのさ≫
 オッサン――「秘術書『水上の火焔』」の、自嘲の笑いを含む声は全員に聞こえた。

 ごく、と喉の鳴る音は、騾馬の方から聞こえてきた。見ると彼は、眉一つ動かさずに自分のグラスを干したところだった。
「……それでも、内容に誤りがないだけ、あんたはマシだ」
 暗い目で、オッサンに言うというより独り言のように呟く。セレアナが尋ねた。
「あなたには、誤りがあると……?」
「どこが正しくてどこが誤りなのかもよく分からん」
 自分のことだというのに、どこかそっけなく捨て鉢な言葉だった。
「錬金術っていう当時の流行、いわば『時の花』を、専門家ばかりでなく広く大衆に知らしめ、楽しませる――そのために生まれたって点では、俺もオッサンと同じだ。
 知識のない人間にも分かりやすいよう難しい理屈をかみ砕き、砕きすぎて曲解を混ぜた。大衆受けを狙って面白おかしい、俗っぽい内容で水増しした。
 一時はウケた。そりゃそうだ、そういう風に書かれたものなんだからな。
 だが、内容の不正確さはやがてバレて、あっという間に叩かれ、貶められた。
 内容が真実でないのならしょうがないことだろう。だが、錬金術を目の敵にする取締り連中にとっては、不出来な術書は取締りの口実には格好のものだった」
 錬金術が「時の花(=流行)」ともてはやされた時代のことを思い出したのか、騾馬の鋭い目はどこか遠くを見ていた。
「――俺の書名は『錬金図解書「黄金の騾馬」』。
 黄金、はいかにも錬金術を連想させるからつけられた言葉。騾馬は多分俗っぽい、庶民に気やすいというイメージだったんだろう。実際には何の意味もない書名だ」
 そして、一息置いて、こう吐き出した。
「何で俺やオッサンみたいな本が魔道書化したのか、俺たち自身にも分からん。何百年考えても解けん謎だな」

「さて、誰も得をしない昔話はこの辺にしとくか」
 いつの間にやら人の形に戻ったオッサンが、そう言いながらテーブルの上の空の瓶を片付け始める。
 泰輔は、話の接ぎ穂を探しあぐねて思案していた。彼らの話のどこまでが客観的事実で、どこから主観的な感情が混じっているのか、今ここで判別するのは難しい。ただ、彼らは自分たちが世に出た時の経験を引きずって、今現在衆人が求めるような書籍としての価値が自分たちにあるとは、頭から信じていないのだ。そのことだけは理解できた。
 と、ここでパートナーのレイチェルが口を切った。
「あの、灰の司書さんの事ですが……」
 その名を聞いたのが思いがけなかったのか、オッサンも騾馬も一瞬動きを止め、眉を上げた。
「司書のことまで聞いたのか」
「私たちが聞いているのは、リピカさんという魔道書が話してくれたことまでよ」
 飲んでいたグラスをテーブルに置き、セレアナが話を引き取る形で説明した。リピカがエリザベートに助力を求めたこと。パレットが出した指示で、彼が悩んでいるという話。
「……ふん。パレットらしいっちゃあらしい決断だが……寝耳に水なのは否めねえなさすがに」
 オッサンが呟く、さっぱりした声の下に、滅びを選ぼうとしている仲間への感情は押し殺している。
 騾馬は鋭い目を一層狭めて、表情をこわばらせ、無言だ。
「あの方のお世話になってる方々は、その昔焚書の目に遭われた魔道書さんたちですよね。あなた方お二人は、そこまではひどく損なわれなかったのですか?」
 パレットの決断に対し、それでいいと思うのか、と核心に踏み込んでいくのは一時置いておいて、レイチェルがそんな風に訊いた。
「……俺たちも、異端の書として回収されていた。俺と騾馬と、“姉ちゃん”はな。灰の司書の誕生で、焚書と火刑の場が混乱に陥ったどさくさで、逃れられたようなもんだ。そういう意味じゃ、恩義がある」
 姉ちゃん、とは別の房にいる通称『姐さん』のことだろう。
 と、結構なアルコールを摂取しているセレンフィリティが、先よりも少し砕けた口調で喋り出した。
「じゃあさ、このままでいいとは思ってないでしょ。パレット一人が、彼のことを思ってるわけじゃない。あんたたちにも思うところがあるんだもんね。
 そのうえ、司書をあのまま放置して、いま侵入しているエルドとか言う奴に、好き勝手されたくないでしょー?」
「私たちも、そのお手伝いをしたいと思っているんです」
 レイチェルも、多弁ではないその口で強く言い募った。
 二人のその言葉に、オッサンと騾馬は一瞬顔を見合わせたが、やがてオッサンが頭を掻いて言った。
「とはいえなぁ。正直、何をどうすればいいのか分からん。パレットの選択も、司書をある意味では助ける。それはそれで正しい選択肢の一つだろうからな」
「でも、一人の決定よ? その一人の決定で、二つの命がむざむざ消えてもいいと思う? 自分たちの意見が反映されることもなく?
 そうなった後、後悔しながら飲む酒はまずいよー?」
 微かに体を傾けながら、セレンフィリティが熱弁をふるう。隣でセレアナも頷く。
 正直、聞いた話だけで考えれば、司書をこの世から解き放つのが最良の手段と考える気持ちは、彼女には分からなくもなかった。けれどそれは、パレット一人で決めたこと。安易な判断はできない話だから、簡単に口を挟むつもりはないが、彼らもまた慎重に、そして悔いを残さぬようよく考えて、その決断に加わるべきだろう。難しい問題だからこそ、尚更。
 オッサンも、騾馬も、言葉はなく、契約者たちの視線を受け止めたまま口をつぐむ。

「だから、灰の間を開いてほしいの」

 セレンフィリティの言葉に、二人の魔道書は再び顔を見合わせ、それから視線を戻してオッサンが言った。
「難しんだよなあ、それは。灰の間を閉ざしているのは、パレットの意思だ」
「無理だって言うの?」

「無理とは言わない。策はないわけじゃない。
 ――ただ、俺たちだけでは難しい」