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リアクション
賑やかな食堂のアーチを潜って入って来たのは雫澄だ。
未だにソランも、ハイコドも、その手がかり一つも見つからない。
「はぁ、参ったな……」
そういえば校内を走り回って咽が乾いている。
「何か飲み物でも買ってこうかな」
ペットボトルを手にレジに並んでいた時だ。
長身のブロンドヘアと、その隣に並ぶ赤毛のショートヘア。
見知った後ろ姿を見かけて、雫澄は固まった。
――どうしよう。挨拶すべきなんだろうか。
「……あれはキアラさんとトーヴァさん……だったよな。
キアラさんとはこの間少し会ったけど、覚えてるかな。
……いや、覚えてないでいて欲しい。
と言うか僕が忘れたい……。
くっ、でも覚えてるなら謝らなきゃいけないのもある、か……。
……話し、かけるか」
葛藤を終了させて、律儀な男は清算を済ませると、二人に近付いて声をかけた。
*
「キアラさん、トーヴァさん、こんにちは。
あの……僕の事覚えてる?」
「ああ、大女優」
「げっ! クリーム塗れのエロ動画の人」
「違うよ!!」
思わず突っ込みの勢いになってしまうと、後ろから何かに撓垂れ掛られた。
デカい。重い。
うん、この感じ、誰か分かってるぞ。
雫澄は嫌な予感に振り向かないでいるが、雫澄の人権を無視して相手はもう耳元で喋り出している。
うん、知ってるぞ。この声。
「違わないよなぁ?
雫澄ちゃんは甘くて白いトロットロのクリームがだぁい好きなエッチな男の子なんだよなぁ?」
「アレクさふごぉ!!」
振り向き様に口に何かを突っ込まれた。
ケーキか、シュークリームか、それともロールケーキかもしれないが兎に角甘い生クリームがふんだんに使われている事が分かる。
「うぐ、ぐ」
苦しんでいるというのに咽の奥にグイグイと突っ込まれて雫澄は息が出来ない。
「今日はドレスが無くて残念だな。
ごめんね、次はちゃぁんと用意しておくから。
どんなのがいいかな? 前みたいにピンク? それともその目みたいに綺麗なブルーがいいか?」
見下ろして来る顔は壮絶な笑顔をたたえていて、もう絶対にこいつは当初の目的を忘れて、自分を弄るのだけを楽しみにしているんだと分かってしまった。
煽ってしまった自分が悪いのか、それとも相手が悪かったのか。
というかもう色々と諦めた方がいいのか。
「公開プレイとは……キュートな顔して中々やるわね。
あたしもそんなのやったことないよ」
「うっわマジ引くんだけど。
つーか雫澄君ってあれっスよね。高度な変態っスよね」
結局この日も、雫澄はトーヴァとキアラとまともな会話を交わす事も出来ずに、妙な評判が、噂が、彼の与り知らぬ所で広がってゆくのだ。
後日雫澄は、明らかに自分をモデルにしたであろう青年が出て来るその手の漫画を、漫画研究部の女子生徒たちがイベントで発行した事を、そしてそれが高等部で流行してしまったことを知る事になるのだった。
「もう皆……忘れてくれ……」
* * *
ソファ席のあるスペース。
四人以上は座れそうなその席に、一人分にも満たない程小さくなって瀬島 壮太(せじま・そうた)は座っていた。
カガチに渡されたピロシキを小動物のように両手で支えながら無心に噛み付いているが、パンには歯形がつくばかりで一向に減っているようには思えない。
何処か一点だけを見つめている目は不自然にギラギラと輝き、ただ雷が去るのだけを塊のようになって待っていた。
こういう時に傍に居て欲しい恋人は、きっと今バイト中だろう。
否、そもそも『この程度の事』で来てくれと叫ぶのは憚られる。
それでも大きな窓に煌めく雷光が、耳に轟く雷音が、彼にとって耐えきれない程に重く伸し掛っていた。
理性と衝動が混ざり合い、頭の中がパンクしてしまいそうだった。
「おにーちゃん」
と。その言葉が口からぽろりと飛び出たのは、誰でもいいから傍についていて欲しいという衝迫(しょうはく)だったのか、それとも呼べば必ず来てくれるだろうという確信だったろうか。もしかしたらその両方かもしれない。
揺れたソファに横を向くと頭の上にマグカップをゴツンと置かれて、壮太は隣に座った『お兄ちゃん』に、男にしてはかなり情けないしょぼくれた顔で笑ってみせた。
助けを呼んで命を救われたあの時は「本当にきた」と冗談が実現したように思ったが、二度も実現してしまうとこの男は助けを求めれば「本当にきてくれる」のかもしれないと、そう思ってしまう。
「なんかいつも悪い」
「お前俺の弟なんだろ」
敢えて否定はしないのだが黙ったままでいると、それを肯定と取ったのかアレクは合皮の背もたれに寄りかかって続けた。
「だったら殊勝な事言うより黙ってそれでも飲んでろ。
パン食って何も飲まないと咽詰まるぞ」
テーブルに置かれたマグカップからは仄かに蜂蜜の香りがして、成る程やはり自分は年下に弟扱いされているのだと分かったが、今の壮太にはそれが心地いい位だ。
さっきまで雷音に「ぎゃー」とか「わー」とか叫ぶ元気も有ったのだが、頼る人間が居るとなると話しは別だ。
一気に弱くなってしまう。
「あんたに何でもかんでも頼んねえようにしねえとな」
パンが潰れる程握りしめて白くなった手をカップの熱で暖めながら、壮太はポツリポツリと話し始めた。
理路整然としない、過去の――遠い昔の話だ。
「四歳の頃」「『いたずらしたお仕置き』で……クソみてえな施設長に……」「木にくくりつけられて……放置された」「こういう、雷と雨の日で――」
寒くて怖かった。
断片的な言葉は肝心の感情を伝えないが、震える瞳はその時の気持ちを何よりも雄弁に語っている。
壮太の心は今、ここには居ない。彼はもう一度あれを体験しているのだ。
暫くの沈黙の後、唐突に膝に落ちて来た黒髪に壮太は喉の奥で悲鳴を上げた。
「顔見て話せよ」
「ごめんなさい」
怯んだ青い顔で謝る壮太を見あげてアレクは悪戯っぽく笑うと、おもむろに自分のシャツの首を引っ張った。
壮太の視界に、幾つかの傷跡が見える。
銃創。それからナイフか何かで裂かれたような傷。
腹筋だけで起き上がって、アレクは今傷跡があった場所をシャツの上から指差した。
「傷は消えない。
ここも、『中』もな」
今度は壮太を指差していた。
「無かった事にはならない。でも終わった事だ」
いやにはっきりとした実感のある言葉に、壮太は急速に頭が醒めるような気がした。
「悪かったのはお前じゃない。あいつらがそうしたかったから――やりたかったからやったんだ。
壮太、悪いのは、お前じゃないよ」
伸びて来た腕が躊躇無くハグしてきたので、そう言えばこの人シャンバラの他の外国人同様日本語ペラッペラだけどスラヴ人だったと壮太は遅れて思った。
血縁関係どころか人種も見た目も悉く違う上相手は年下なのに、それでもアレクは壮太にとって本物のお兄ちゃんになりつつある。
「よし、泣け。今なら別に泣いてもいいぞ」
「泣く訳ねえだろ!」
後ろに引いた壮太に、アレクは眉を吊り上げている。
「泣くならお兄ちゃんより恋人の胸がいいってか? え?」
踏ん反りかえりながら前に組まれていた足が、顎の下に伸びてくる。
急所である喉仏をつま先でつついてこられるのは、下品とか器用とかその体勢で微動だにしない筋力すげえとかよりもう、差し迫った恐怖でしかなかった。
「生意気な弟だな。泣けよ。ホラ泣けよ。泣けって」
「何だそれ理不尽過ぎねえ!?」
「だらしなく鼻水垂らして泣きわめいて『そしてお兄ちゃんご免なさいと』赦しを請え。さっさと日本人お得意の土下座を見せてみろ。地面に頭を擦り付けるんだろ? 一度見てみたかったんだよ。ほら早くしろ遅せぇんだよこの糞バカが」
最早目的も手段も入れ替わっているアレクに責められながら、壮太はソファの上に昇って逃げながらも抗議している。
雷雨は続いている。
けれども壮太の耳には、雷音は届いていなかった。