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リアクション
心に刻むべきもの??
「あー……」
目の前に出てきた皿を見て、芦原 郁乃(あはら・いくの)は小さく、珍しくどこかメランコリックな響きのある声と共に息を吐いた。
皿の上には、でっかい碁石(黒)
――ではなく、懐かしのハンバーグ。
ナイフとフォークを持って、その先でちょっとつつくと、碁石……のようなハンバーグは皿にぶつかってコンコンと固い音を立てた。
「お母さんのハンバーグね、これ」
少しはにかむような苦笑を浮かべ、郁乃は向かいの席の荀 灌(じゅん・かん)にそう簡単に説明した。
「ちょっと笑っちゃう見た目だけどね……懐かしいな。
でも、どんな味だったか、正直ちゃんと覚えてないんだよね」
これを食べたのは、郁乃がまだ本当に小さい時だった。
決して頻繁に食べていたわけではなかった。
その理由については、のちに祖母から「『教育によくない』からとなるべく食べさせないようにしていた」と聞かされた。
(「でも……結局お母さんの料理の腕を受け継いでたんだから、もっと食べさせてあげてればよかったねぇ」)
そんな風にしんみりと言われもした。
自分の料理音痴は遺伝だったのか……と郁乃は思ったものだった。
表面が本当にがちがちのハンバーグは、なかなかナイフが入らず、相当な力を入れてしまうために皿が動いてしまうほどだ。肝心のハンバーグも何度も皿から落ちそうになり、切るだけで悪戦苦闘である。そうして何とか切ったハンバーグの断面からは、グルメ番組にあるような「肉汁がじゅわ〜っと溢れ」る……なんてこともなく、ややぱさぱさした肉がぼろっと崩れ出てきた。
もくもくもく。ごくん。
「……そういえば、こんな味だったんだっけ」
そうだった気もするし、やっぱり昔すぎてはっきり思い出せないような気もする。
(でも、なるほど……こうしてみると、血の繋がりを感じなくもない)
「料理下手って親譲りだったんだねぇ」
ぽつりと呟いた。
それでも。
聞いている話では、郁乃は当時「お母さんのハンバーグ」を食べたがったっていたという。
(それに、美味しくなかったって記憶はない)
もくもくもく。ごくん。
覚えてはいないけど、幼い自分はこのハンバーグを喜んで、楽しみにして食べていたのだろう。
きっと……母は、自分のために一生懸命作ってくれていたのだ。
「……けど硬いね、小さい時のわたし、どうやって食べてたんだろ?」
この表面をゴリゴリと噛み砕いて食べていたのだろうか――
涙が一粒、ぽろりとこぼれて頬を転がった。
我が子のために料理するのを祖母に止められるほど料理下手だった母は、料理に対してどんな意識を持っていたのだろう。
「ほんと懐かしいなぁ……
お母さんが生きてたら、今もこのハンバーグ食べてたのかなぁ?」
自分がハンバーグをせがんだ時、どんな気持ちでこれを作ってくれたのだろう。
それでも、凄まじい出来のハンバーグだけど、ここには、娘の自分へ料理を作ることに対する母の、苦手意識だとかマイナスの感情だとかがこもっているとは感じられないのだ。
下手だけど、せがむ自分に明るい表情で料理を作ってくれた母の笑顔が、浮かんで見える気がしたのだ。
「もう一度会いたいなぁ。
……お母さん」
ぐすん、と鼻を一度すすり、慌てて零れた涙を指で拭う。荀灌がいたことを思い出し、ちょっと恥ずかしくなって顔を上げると。
「あの、……あれ?」
荀灌は何故かテーブルに突っ伏していた。
(私にとっての思い出の食ってなんだろう?)
母の思い出の料理にちょっぴりおセンチになる郁乃をよそに、荀灌は自問自答していた。
思い出の料理。まず思い出すのは……
(桃花お姉ちゃんのお料理)
秋月 桃花(あきづき・とうか)が作るのは本当に美味しい料理。――その対極に存在するものもしかし、荀灌は知っている。
(お姉ちゃん、の、……料理というか何というか)
お姉ちゃんすなわち郁乃の作る、生あるものへのトラップとでもいうべき「お料理」。
見た目は普通の美味しそうな料理。だが、食べると……
(美味しいとか美味しくないとか……そういう概念を越えたそんなお料理。……お料理?)
味はSANチェックが必要だなんて、そんなのない、と思い出して身震いする。
もしかしたら、あれを料理だと思うのは間違いなのではないだろうか。
人がゴムとかガラスとか食器棚とかイコンとかを食べる事なんてありえないのと同じレベルで、食べるべきではないものなのかもしれない。
そう、見た目はきちんと整っているのだから、むしろあれは食品サンプルだと思えば万事解決――するわけない。
はぁっ、と、荀灌は溜息をつく。
桃花と郁乃、両極ではあるが、どちらもそれぞれに思い出深いといえば思い出深い……
(…はっ!! いけないいけない!
お姉ちゃんのお料理を思い出深いなんて思っちゃうと出てきちゃいます)
頻繁に思えば思うほどそれが出てくる、というシステムなのかどうかわからないが、郁乃の料理に思いを馳せるのは地雷に近付くことのような気がして、荀灌はプルプルと首を振った。
ただ、郁乃の料理は思い出に(悪い意味で)深く残っているとしても、味は記憶に残っていないのである。
何故か覚えていない。記憶する前に意識がシャットダウンする。
(おそらく記憶に残しちゃいけないと思ったんですねぇ……)
無意識のうちに。防衛本能が働くのではないだろうか。
人はあまりに辛い記憶があると、生きる気力を保持するためにそれを消失させるという。それと同じかも知れない。
……などと、荀灌が生命の持つ大いなる生存本能に思いを馳せていると、目の前に椀が現れた。
椀の中に入っているのは、「一見」美味しそうなお雑煮。
「あ……ああぁ…ぁ……」
体が勝手にかたかたと震えていくのを、荀灌は感じた。
何故かお雑煮と認識した瞬間から、全身から脂汗が流れ出す。
脊髄反射的に溢れ出す恐怖。これは、もう、疑いようがない……
(これは…お姉ちゃんのお雑煮だ……)
ホカホカした湯気の立つ澄まし汁。三つ葉や飾り切りされたニンジンなどが彩りよく飾られ、その奥に真っ白な餅がてろんと沈んでいる。
以前、正月に彼女の家で振る舞われた、紛れもなく郁乃お手製のお雑煮……
訊けば、この施設、食と記憶の結びつきをセラピー等に生かすために開発されたものであるとか。
――郁乃の料理がどうセラピーと結びつくのか?????
……いや、「癒し」ではなく、精神活動に作用するものだというのなら「気付き」として働くものなのかもしれない。
思えば、彼女の料理はインパクトと生命活動への脅威だけを深層心理に爪痕として残していくが、具体的な味は記憶に刻まれていない。
ここでのこの料理の出現は、もしかしたら、それを知覚しろと促しているのではないだろうか。
それによって、何か重大な「気付き」を会得しろ、と……??
(とにかく……出された以上、口にしないわけにもいかないです……!)
ついに荀灌は覚悟を決めた。震える手で、震える口に一口運ぶ……
……
…………
「ゴバァ!!」
破滅の音を噴き出しながら、荀灌は崩れた。
急速に薄れ行く意識の中――
(わかってました…わかってたんです……こうなることは……)
(お…お姉ちゃん……料理ダメ、ぜ…絶対……)
何より強く、確信を得たのは――再確認したのはそのことだった。
(食べなくても分かっていたことだけど)
しかし、地獄にダイブするくらいの気構えでこれを食べ、悟らねばならないことがあるとしたら、これ以外には見つからない。
(ダメ、ぜっ……た…い……)
――ガクッ
(どうしたのかな? なんだか顔色悪そうに見えるけど?)
荀灌が三途の川の岸を見ているとも知らず、郁乃は呑気に首を傾げる。
(……疲れてたのかな。しばらく、休ませてあげたほうがよさそうね)
そう考え、もう一度目の端に残っている涙を、指先で拭った。
(とりあえず、泣き顔は見せずにすんだみたいね)
そのことにほっとしていた。
荀灌が意識の途切れる間際に、心に強く刻んだ思い。
――それが郁乃に通じる日が来るかどうかは、残念ながら前途多難であると言わざるをえない。
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