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第6章 熱と卵


「んん〜〜??」
 物の輪郭もはっきり見えないほどの仄暗い視界に、映っているのは……恐らく洞窟の岩だらけの天井。
 歩いていた気がするのだが、いつしか薄暗い一角で、垂は足を湯に浸けて背中は大きな岩の上にのせたまま、仰向けに寝転んでいた。
 実は、もう本人が自覚している以上に酔いが回っている。最初は大人しく入り口から程遠くない一角で飲んでいた垂だったが、いつの間にかふらふらと歩き出していた。気が付かないうちに寝転がっているのは、転寝してしまったのか、それとも足が滑って転んだのか――そんなに足元が覚束なくなるほど酔っているとは思えないが、何と言っても洞窟は足場が悪いし、左腕を失っている垂にはバランスを取り切れなかった所もあったかもしれない――前後の記憶もなく、分からなかった。
 何か、ふと気になる感覚に引かれるように、歩き出した気もするのだが……
「ありゃ、ここどこだっけなぁ」
 呑気に呟いだ大声が、洞の中に響く。ここに来るまでにいろいろな場所があったのではないかと思うが、そこをどう切り抜けたのかも覚えていない。取り敢えず、酒の瓶はまだ右手がしっかり握っている。そのことに、自分で可笑しくなってケラケラと笑った後、垂は、鼻先辺りに何か気配を感じた。
 目を凝らす。目が闇に慣れてくる。
 目の間に何かいる。仰向けになった自分を覗き込んでいる。

 まるで竜のように、それは見えた。
「――あ? ヌシ、か!? お前」
 その威圧的な顔を間近に見ているにしては、あまりに素っ頓狂な調子であっけらかんと言い放つ、垂の声はまだ笑い混じりだ。
 恐怖も逡巡も、気後れも当惑すらもまるでない。
 竜に似た、ごつごつと鱗でおおわれたいかつい顔の大蛇は、こちらもまた垂のテンションに惑わされた様子もなく、金色を帯びた緑色の双眸でじっと垂を見ている。
「よう、お前がこの洞窟の主か? 無断でこんな奥まで入ってきちまって悪かったな……
 お詫びって訳じゃね〜けど、一緒にどうだ?」
 そう言って、右手に持った酒の瓶を突き出す。瓶の口に、小さな杯も引っかかっている。
「とっとっと……と、まぁ、遠慮せず、ぐいっとやってくれよ。
 ……あ〜、ヌシさん相手につまみもないのが残念かぁ……。何か……」
 そもそも持ってきていないものがあるわけがないのだが、酔いが回って考えが及ばなくなったのか、何故か垂は酒瓶を置いて右手をごそごそとその辺りに探すように這い回らせる。【トレジャーセンス】が働いた訳でもなかろうが、何かがあるような気がしたのかもしれない。
「あ、あちち、この辺急にあちいなおい。ん?
 ……お〜、さすが温泉、気が利くねぇ。温泉卵のサービスかぁ」
 岩の間の湯溜まりから、垂が取り出したのは卵だった。
 ――どのくらいだか前に、そこに弥十郎が卵をセットしていったことなど知る由もない。
「温泉卵が酒のつまみ、ってのも妙な感じだが……まぁ食ってくれよ。
 ……っと、剥き難いな意外と。あぁ、落ちた欠片は気にしないでくれよ、俺があとでちゃーんと片付けとくからよ」
 酔ってはいてもメイド気質が出るのかそんなことを言いながら、垂は殻剥きに悪戦苦闘している。道具も何もなしに片手で半熟卵を剥くのは結構骨が折れる。
 やっと一つあらかた剥いたのを「ささどーぞ」と差し出すと、竜のような口が近くに寄ってきて、かぷりとひとくち齧り、それからチロチロと出た舌が、杯の中の酒を舐めた。


 ――垂は気付いていないし、他に人がいないから指摘する者もないのだが。
 この時盃を交わした相手は実は、垂の頭の中にある姿とはいささか違う姿をしている。
 寝転がっていたのを覗き込んだ、その顔をドアップで見たのと、酔いで少し頭がぼんやりしているせいで、垂は相手を、少なくとも自分と同じくらいの大きさを持った、竜に似た大蛇――「ヌシ」だと思い込んだ。
 しかし実際には――顔は龍のようにいかめしくても、それは、体長せいぜい20センチ強の、小さな蛇であった。
 蛇といっても、背中には赤ちゃんコウモリのような薄くて頼りなげな翼があり、1対2本だけの肢も生えていて、岩の上をぺたぺたと踏む。
 この容姿の特徴は、パラミタリンドブルムと合致してはいる。ミニサイズであること以外は。


 残念ながら、垂が体を起こしてこのギャップに気付く前に、パラミタリンドヴルムに似たこの小さな蛇は、杯の酒を半分ほど飲み、卵を食べてどこかへぺたぺたと走っていって消えてしまった。
 やや足運びがふらついていたのは、もしかしたら酒のせいかもしれない。
「――もう1個どうだ? って……ありゃ?
 ヌシさん?
 もう行っちまったのか。まぁ……1個の洞窟を構えるヌシともなりゃ、呑気に飲んでばかりもいられないかもなぁ……」

 そんなよく分からないことを言いながら、垂は、殻を剥いた温泉卵を自分の口に運び、それから酒瓶に手を伸ばした。



「この辺、入口の方よりだいぶ熱いな」
 上條 優夏(かみじょう・ゆうか)は、額の汗を拭いながら、辺りを見回す。湯量はさほど変わっていないが、天井が低い。
「源泉が近いゆうことかもな」
 フィリーネ・カシオメイサ(ふぃりーね・かしおめいさ)は、そんな優夏の様子を見ながら、通気効率を上げるよう【風術】を使う。――本当は、自分は少しだけ汗ばんでいた方が「効果的」なんだけどなぁとも少し思いつつ。
(特にこの辺りが、ね……)
 目を落として、自分のビキニの胸元をチラリと見る。
「その分、『広間』に近付いてればええんやけど」
 優夏は、「ヌシが溜めこんでいる(という噂の)お宝」を狙っていた。
 そのために、【根回し】で関係者から情報を集め、分岐の多い道で迷わないよう【記憶術】で迷路対策もしている。
(お宝見つけたらHIKIKOMORIの生活費に出来るし!)
 今もって「働いたら負け」と思っている優夏である。
 しかし、その一方で、温泉を満喫もしている。洞窟を探検して歩くのも。
 情報集めにはスキルを駆使しているが、その情報自体の精度は決して高くない。あくまで「〜だと聞いている」「〜と言っている人がいた」レベルの情報の集まりだった。ゆえに、その分行動効率は確かに落ちる。広間への道筋が確実に分かるわけでもないし、ヌシの行動パターンも分かるわけではない。
 それでも、ここが洞窟温泉である、という点が、迷い歩く間も楽しみを添える――

「ねぇ、優夏。ちょっと歩き疲れちゃった。少し休んでいかない?」
 フィリーネが声をかけると、優夏は足を止めて振り返った。
「また? ちょっと休憩多いんちゃう?」
「……だって、暑くなってきたの分かるでしょ? 風術や【氷術】も、使い続けるとこれで疲れるのよ意外と」
「あ、せ、せやな。悪ぃな、気ぃ付かんくて」
 慌てて謝るようなことを言われると、実はそれほど疲れているわけではないフィリーネは、ほんのちょっと良心にチクリと感じるものがある。
 だが、気を取り直して引き締める。
 ――彼女には決意があったのだ。
(このやや際どいビキニとあたしのナイスバディで、優夏をリア充に目覚めさせるわよ☆)
 この温泉洞窟探検を、フィリーネはデートと捕えていた。
 ちょうど腰かけるのに良さそうな平岩があり、優夏はそこに腰を掛けた。ちょうど腰から上が水の外に出て、半身浴を出来るような深さになる。空気はムッとする暑さを孕んでいるが、それでも温泉というのは体にじんと染み入るような特別な熱がある。
「あ〜、やっぱ温泉はええな〜……」
 今はちょっと暑いけど、と思いながら、歩き疲れた両足をぐいーんと伸ばしたり足首を回したりしていると、フィリーネが近付いてきた。

「横いい?」
「? ええけど」
 逆に何故遠慮するのだろうかと思ったが、そう答えると、フィリーネはすっ…と、隣りに来て腰を下ろした。
(え、近い近い近い)
 思ったよりぐっと近寄ってきた。彼女の後れ毛が濡れているのを間近で感じ、何故だか優夏はドキドキした。
 妙に息苦しくなって視線を落とすと、彼女の肌の上を湯の雫がつつつと滑り落ちていくのが見えた。
「何?」
 視線に気付いたように、フィリーネが優夏を覗き込む。
(うっ……な、なんで心臓が……)
「これ……変?」
 そう言って、フィリーネは胸元を抑えるようにビキニに触れる。
 どきっとなる。
「や、そ、そのビキニに合うてると思うし」
 顔が熱い。ぼうっとなる。
「ありがと、優夏好みのビキニで良かった♪ 恋愛ゲーのヒロイン参考にしたのよ」
 急に、フィリーネの声に、ぼやけるようなエコーがかかったように思った。
「え……っ」
 慌てる優夏に、フィリーネはにこにこと微笑みかける。何故か息が苦しい。顔が、頭が燃えるように熱い。
「……ねぇ、優夏。ここならいいかも」
 他に人はいない。フィリーネはにこにこ笑顔のまま、優夏の戸惑いも焦りも無視して、ず…っと迫ってくる。
 もう近すぎる――
「優夏――」
(な、何やこの、まさかの展開――!)
 熱い――

「きゃーっ、優夏っ!?」
 いきなりひっくり返った優夏に、フィリーネが驚いて声を上げる。
 蒸し暑い通気の悪い一角、ずっと浸かっていた湯の熱さで、優夏はのぼせて倒れていた。

 熱に浮かされた妄想の中でフィリーネがどうなっているのか、それはフィリーネ本人は知る由もない。



 この優夏とフィリーネが騒動を起こしているごく近くを、パワードスーツに身を包んだペルセポネが潜水して進んでいた。
 戦闘員たちは回復し次第後から続いてくるという。ペルセポネはひとり先行して泳いでいた。優夏らのいた場所の近くを過ぎると、水底は上がっていく。高いところから流れてくる湯を遡っていく感じだ。しかし、高性能のパワードスーツで守られたペルセポネの進行に問題はない。どこまでも、水中を進んでいく――
 突然アラートが響き、パワードスーツのAIから警告メッセージが流れた。

『周囲の気温の上昇を確認。機晶リアクター、オーバーヒート。
 放熱のため、装甲をパージします』
 
「えっ」
 驚いて、思わずペルセポネは浮上する。
 見るとそこは行き止まり、突き当りの岩壁の上から湯が降ってきているが、それ以上人は進めそうにない。
 もうもうと立ち込める湯気。
 熱だまりであった。

『装甲をパージします』
 最後のメッセージが繰り返され――実行された。

「へっ? ……
 きゃ、きゃああああぁぁっ!!」