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リアクション
●Run Runaway
高層マンション、最上階の一室。
すでにクランジμ(ミュー)も、フレンディス・ティラとベルク・ウェルナートも空京になにが起こったかを理解していた。彼方に聞こえる爆発音、逃げる市民、逆に騒ぎの方向へ向かう市民……ようやくそのときが来たのだ。
「レジスタンスの行動に合わせわたくしたちも」
ミューは灰色の外套姿で立ち上がった。すでに準備は整えている。
このとき、部屋のドア方向からめりめりという大きな音が上がった。白い煙が足元に漂い、茶を点てるような忙しない音も聞こえる。
最初に飛び込んで来た機械の蜘蛛は、ミューの赤い視線を受けてその場に凍り付いた。
「何事です!」
目隠しを取ったミューの目は炎のように赤く、怒りを伴って吊り上がっている。しかしその一方で、戸惑いの色は隠せなかった。
「このような狼藉……わたくしに対して許されるとでも思って!」
まるでその発言を待っていたかのように、機械的な声が返ってきた。
「クランジμ(ミュー)、ここ数日監視させてもらった結果、あなたには現在、反社会的集団に協力している疑いがかかっています」
量産型クランジだ。手に電磁鞭を構えている。
「逮捕状が出ました。その身柄を拘束します」
量産型はそこまで言い切った状態で動きを止めた。やはりミューの『メデューサアイズ』が相手を捉えていた。
「一個一個止めていっても無理なようだぜ」
ベルクは咄嗟に部屋の食器棚を倒すと、バリケードのようにして部屋のドアを閉ざした。
その向こうから数え切れないほどの蜘蛛と量産機が押し寄せてくるのが一瞬見えた。茶を立てるような音はすべて、蜘蛛機械が走る音だった。
食器棚を貫通した銃弾が、サイコロ大の穴をいくつも開ける。
「ちと分が悪ぃな、ミュー。なんせ敵が多すぎる。あんたの能力でも防げそうもないぜ」
「いいえ、わたくしなら……!」
ベルクを押し切るようにしてミューはドアに向かおうとしたが、背後からフレンディスに腕を引かれた。
「私も考えさせて頂きました。あなたの能力について」
ミューは身をよじったが、フレイの言葉が続くとやがてあらがうのをやめた。
「ミューさん、その目は、人間と同等の視野ならば最大でも二百度の範囲にしか使えず、死角も考えると隙も大きい上、どうしても対個人または少数戦に限定されます。決して戦闘向きとは思えない能力ですね」
「……その分析、間違いはありませんわ。しかし、わたくしの能力の本当の意味は」
「それも推測できております。この窮地を脱するには、ミューさん、あなたのその力に賭けるほかありませぬ」
フレンディスの背後で、灰色の壁に亀裂が走った。ベランダからも蜘蛛が侵入してくるのが見える。
「あなたの能力は、その目で捉えた対象に流れる時間を操作するものとお見受けしました。『見た』だけで私やベルクさんを止めることができた理由はそこにあるのではないかと考えたのです」
「慧眼、恐れ入りますわ。ほぼその通り、ただしわたくしができるのは対象者の時間の流れを遅らせることだけです。完全に停止させたり早めるたりすることはできません」
「遅らせることができれば十分です……!」
高層マンションの窓が割れ、外に向かって三つの人影が飛んだ。
フレイとベルク、そしてミューだ。
飛び降り自殺、そう見えたとしてもおかしくはない。されど三人は……正しくはフレイとベルクは、パラシュートでも開いたかのようにゆるやかな速度で地面に降下していき、高さ一メートルほどになってぱっと着地した。二人につかまっていたミューの灰色の外套は弾みで解けて、はためいて風に流されていった。下からは、真っ白な着物が現れている。
「上手く……行きましたね!」
ミューは顔を上気させている。口元にはあどけないまでの笑みがあった。
「そっちはいいだろうがこっちは楽じゃねぇ。前に金縛り……っていうか極端にスローにされたときもそうだったがな……時間酔いというのか、船酔いをぐっと酷くしたようなので頭はグラグラ、胸もムカムカするぜ」
ベルクは本当に気分が悪そうに毒づくが、少なくとも目立った後遺症はそれくらいだった。フレイともども五体は無事だ。
だが休んでいる暇はない。蜘蛛機械やクランジは飛ぶことができないものの、まもなくここに殺到するだろう。
「早く逃亡しませんと……!」
フレイが四方を見回したとき、
「早く! こっちへ!」
と、言うように狭い路地から彼らを呼んだ者があった。
犬だ。
といってもただの犬ではない。
見間違いようがなかった。フレイのパートナー、長らく行方知れずになっていた忍野 ポチの助(おしの・ぽちのすけ)ではないか。やや高い声で鳴く豆柴の姿だ。
合流するや反転してポチの助は駆けた。狭い通りを右へ左へ、稲妻のように走り続ける。まったく判断に迷うことがないのは、この入り組んだ場所の地理を知り尽くしているからだろう。フレイとベルク、そしてミューは必死で追いすがった。ちょっとでも足を休ませれば、たちまち置いていかれそうだった。
どれほど走ったか。
いつの間にか追っ手の姿は完全になくなっている。
ようやく身を隠せるところまで来て、ポチの助はすっくと立ち上がった。獣人の姿をとっていた。
「ポチ……よく生きて……」
目を潤ませ、尻尾をハタハタと振りながらフレイは彼の手を取ったが、当のポチの助は冷静だった。
「ご無沙汰しておりました」
ぺこりと頭を下げてポチの助は言う。
「お二人の気配を感じ、ひそかに場所を特定して万が一に備えておりました」
「空京にいたんだな」
ベルクも感慨深げに言う。
「……そうですね、空京で潜んでいました。豆柴獣人だったことが幸いだったと言えましょう。野良犬ならば気を止める者も少なく、隠れるところも沢山ありましたから。いつかお二人が空京に来たときのために、徹底してこの地の地形を頭に叩き込んだつもりです」
言いながら、ちらりとポチの助はミューを見た。
「この人は」
と説明をしかけたフレイに、ポチは片手を挙げて見せた。
「お言葉ですが存じているつもりです。お二人の事情も、ほぼ理解していると思います。行きましょう。僕は忠犬、最後まで二人のお供をします」
ミューもポチの助のことについて、いちいち問い質したりしなかった。それだけの時間がなかったということもある。だがそれよりも、フレイとベルクを信じる以上、ポチの助のことも信じると決めているからのようだ。
「それでは参りましょう。幸い、ここからはそう距離はありませんわ」
ミューはそう言って、目隠しの下の目を行く手に向けた。
「彼女の……クランジη(イータ)のところまで」