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10


 三井 藍(みつい・あお)に誘われて、『Sweet Illusion』まで来たのはいいけれど。
 ――どうすればいいんだろう……。
 オープンカフェ。他と比べて人気の少ない場所にあったテーブルに座った三井 静(みつい・せい)は、静かに途方に暮れていた。
 藍がここに連れてきた理由は、恐らく引きこもりがちな自分を少しでも外の世界に触れさせるため。
 彼の気遣いに応えたいと静は思う。そのためには、楽しむのが一番いいのだろうけど。
 さて、どうすれば楽しめるのか。
 美味しいケーキを食べて、美味しい紅茶を飲んで。それだけでも十分楽しいと思うのだけれど。
 ――それじゃあ、外に出てきた意味はない、かな……?
 そう、せっかく『Sweet Illusion』に来たのだから。
 ――フィルさんと親しく……ううん、何か話せたら、いいな。
 話してみたいと思っていた。ただ、あまり店に行く機会もなくて、叶わなかったけれど。
 だけど今日、彼はすぐ近くにいる。売り子をしていて、話しかけるのは容易に思える。
 ――でも、だから、どうやって?
 ケーキの追加注文に行けば、話しかけられる。だけど、その会話の切り口が思いつかない。
 こんにちは、とでも声をかければいいのだろうか。だけどそれだとこんにちは、と返されて終わるのではないか。
 何を言えば、フィルは話を聞いてくれる?
 何を言えば、フィルのことが聞ける?
 不意に、思い出した。
 この間、藍にザッハトルテを作ってもらったことを。
 ――ケーキの、話なら。
 少しは弾むかもしれない。
 席を立って、フィルに近付いて。追加のケーキを注文したら、
「ケーキ、作ってもらえるのって嬉しいね……?」
 恐る恐る、話しかけてみた。
 話しかけてから気付いた。
 ――言葉、足りなすぎじゃないか……。
 自分の会話能力の低さに内心頭を抱えていると、
「静ちゃん、作ってもらったのかなー? いいねいいね、何作ってもらったのー?」
 フィルは、さも当然のように話を広げてきた。
「ザ、……ザッハトルテ」
「ザッハ! どうどう? 美味しかった?」
「……うん」
「それはすごいよー。ザッハを美味しく作れる人は、他のケーキも逸品なんだー」
「そう、なの?」
「まー、パティシエさんからの受け売りなんだけどねー」
 あはは、と笑うフィルの顔は、以前見た営業用スマイルとは少し違って。
 ――パティシエさんのこと、話してるから……かな?
 なんて、なんとなく思った。
「フィルさんは……パティシエさんにケーキ作ってもらったり……してる?」
「うん。たまにね、作ってくれるんだー。俺は死ぬ気で食べきるよ」
「死ぬ気……?」
「内緒ね。……俺甘いもの苦手でさー」
「え」
 意外だった。ケーキ屋をやっているくらいだから、ケーキが好きだとばかり思っていたのだが。
「でもさ。自分のために、って作ってくれたんだって思ったら、そんなのどうでもよくなったり、ねー」
「……嬉しい、よね」
「うん。すっごくね。
 ケーキって、決して簡単じゃないから。手間のかかるものだしさ。それをわざわざ作ってくれるなんて、幸せ者だと思うよ。俺も、君も」


 静がフィルと話しているのを、藍は離れた場所から見守っていた。
 人見知りの気がある静だけれど、フィルとは年が近そうだということもあってか自然に話すことができているようだ。
 はにかむように静が笑ったのを見て、藍は少し驚いた。ああやって笑うことができるくらい会話を弾ませられたのか。仲良く、なれたのか。
 いいことだ、と思った。静に友人ができるのはもとより、それをきっかけに静の世界が広がったら良い、と思っているから。
 その時、フィルに近付いてくる人物が見えた。金髪の、背の高いウェイター。彼は、フィルと数度会話を交わしてから、人懐っこそうな顔で静にも話しかけた。
「…………」
 ほんの少しだけ。
 形容しがたい感情が生まれた。
「……?」
 その感情がよくわからなくて、もう少し見守ることにすした。
 最初、ウェイターの彼に話しかけられて怯えていた静は、段々と慣れてきたのかなんとか会話を試みようとしている。そして、それは上手くいっているようで。フィルと話せたように、やや及び腰ながらもなにやら喋っている。
 今度はちょっと、ちくっとした。
 ――……ちく?
 なんだそれ、と思いながら、感情に対して自問自答。
 ――まさか。嫉妬か?
 ふとそう思ったけれど、嫉妬の理由はわからない。
 静がフィルと話しているときは、友人が増えてよかったと思っていたのに。
「…………」
 答えが出なかったので、藍は目を背けた。
 間もなくして、ケーキを持った静がやってきた。
「一緒に、食べよ」
「ああ」
 普段どおりに振舞ったけれど、心には先ほどの感情に対するもやもやが残っていた。


*...***...*


 遠目からでも、そこが賑わっているのは見て取れた。
「いらっしゃ――あ、歌菜ちゃんとはーちゃん♪ 来てくれたんだー」
「こんにちはー! 盛況みたいですね♪」
 フィルに声をかけられて、遠野 歌菜(とおの・かな)月崎 羽純(つきざき・はすみ)は会釈した。
「今日はデート?」
「そうなんですよー。羽純くんから誘ってくれたんです」
 『Sweet Illusion』が、一日限定でオープンカフェをやるらしい。行ってみないか、と。
「教えてくれたろ? 昨日」
「教えた教えた。やーでもホントに来てくれると嬉しいよねー。ありがと、ゆっくりしてってよ♪」
「はーい♪」
 あまり引き止めてはいけないからと、挨拶程度の会話を終えて歌菜は羽純と席につく。
「忙しそうだねー……」
 フィルと、他にも数名の店員さんがせわしなく動いていた。片やオーダーを受け、片やケーキをテーブルに届けに。紅茶のお代わりを所望する声が上がればすぐに駆けつけ……。
「手伝えないかなあ」
「まぁ……普段からフィルには色々とよくしてもらってるしな……」
「何か力になりたいよね」
 羽純との間で結論が出ると、歌菜はさっと手を挙げた。気付いたフィルがすぐに寄ってくる。
「お決まりですかー?」
「ねえねえフィルさん」
「ん?」
「あのね、忙しそうだったらお手伝いしたいなって思うんだけど……」
「えー。お客様にそんなことさせられないよー」
 フィルの返しに、「言うと思った」と羽純が笑った。
「そこで。余ったケーキとお茶をバイト代としてもらう」
「余りでいいってーのー?」
「私も羽純くんも、フィルさんにはお世話になってますから。少しでも返させてください」
 だめですか? と小首を傾げてみせる。フィルは苦笑していた。
「そこまで言われて断ったら駄目だよね。じゃあ、接客をお願いしよっかなー。はいこれ、制服」
「ありがとうございます♪」
 制服を受け取り、簡易更衣室にて着替えを済ます。鏡で、エプロンドレスのリボンやフリルが歪んでいないか確認したら外に出る。
 外では、ウェイターの格好になった羽純が歌菜を待っていた。
「似合うねぇ……」
「そうか?」
「うん。見惚れちゃいそう」
「馬鹿。さっさと手伝いに行くぞ。客が絶えないからな」
 羽純に先導される形で、歌菜は広場へ戻った。
 広場には、さらに人が増えていた。客寄せや口コミ、もとからあった評判のおかげだろうか。席が空くのを待つ人がいるくらいだ。
「いらっしゃいませー♪」
 笑顔を振りまいて、歌菜はケーキをテーブルへ運ぶ。
 美味しいケーキと美味しいお茶。口に含んで幸せそうに笑うお客様。
 ――こういうのも、いいなあ♪
 幸せを与えて、そして分けてもらっているようで。
 うきうきとした気持ちになる。
 ……のだけれど。
「お待たせいたしました」
 静かな、それでいて耳に甘く染みるような羽純の声。
 振り返ると、優しい笑顔を浮かべた羽純が見えた。笑顔を向ける相手は、見ず知らずの女の子。
 ――お客様だよ。
 わかってる。
 ――あんなの、営業スマイルじゃない。
 けれど。
 ――…………。
 複雑な想いは拭えない。
 ――あー、私って嫌な子だ!
 ちょっとした自己嫌悪に陥った時、ぴんっと額を弾かれた。
「いっ……、羽純くんっ」
「なんて顔してるんだ? 接客は笑顔が基本だろ」
 ――羽純くんのせいだよ。
 とは、とてもじゃないけど言えなくて。
「……うん」
 無理に笑顔を作って、頷いた。


 長いようで短いピークを終えて、人手は十分と判断され。
 歌菜と羽純は、余りとは名ばかりの人気ケーキを目の前に、少し遅めのティータイムを迎えていた。
「お疲れ様でしたっ」
 明るく言って、ケーキにフォークを突き刺す、と。
「さっきのアレ。なんだったんだ?」
「あれって?」
「急に暗くなったやつ。その後の笑顔もぎこちなかったし」
 ぎこちなかったことにも気付いていたのか。
 ――バレバレだなぁ。
 なのにどうして、理由には気付いてくれないのだろう。
「あ、あれは……別になんでもないよ?」
「嘘つけ」
「本当だってば! ……ただ……」
「ただ?」
「……羽純くんが他の子に笑顔を見せてるとモヤッとするというか……」
 ぼそり、小さく呟くと。
 ぷっ、と吹き出す声が聞こえた。
「わ……笑うことないじゃない……!」
 そうだ。他愛のない理由だ。
 ただのヤキモチ。
 ――だけど……。
 真っ赤になって黙り込むと、
「バカな奴」
 苦笑するような羽純の声。何も言えず、また黙る。
「俺なんて、ステージで笑顔を振り撒くお前に、いつも同じこと思ってるっつーの……」
「……え?」
 顔を上げた。少し照れたように笑う羽純の顔が、近くにある。
「羽純くんも……そうなの?」
「そうだよ」
「……ごめんね。全然知らなかった……」
 自分だけだと思い込んで。
 勘違いして拗ねかけて。
「俺にはお前だけだ」
 だけど、そうだった。
 歌菜に、羽純しかいないように。
 羽純にも、歌菜しか。
「私、バカだった」
 ずっと一緒にいると約束を交わしたのに。
「何度も言った」
「う……。ごめん」
「いいよ」
「ごめんね」
「いいって」
 テーブルの上に置いた手に、羽純の手が重ねられた。
 その温もりを感じながら、歌菜は微笑んだ。