蒼空学園へ

イルミンスール魔法学校

校長室

シャンバラ教導団へ

あなたが綴る物語

リアクション公開中!

あなたが綴る物語
あなたが綴る物語 あなたが綴る物語 あなたが綴る物語 あなたが綴る物語

リアクション


●近世ヨーロッパ 3

「ですがお嬢さま。紫桜家のご令嬢がお1人では――」
「ほんの少しの時間でいいの。お願い」
 下りようとしたメイドのメアリーを馬車のなかへ押し戻して、紫桜 遥遠(しざくら・ようえん)は1人道に下り立った。
 これがいつも一緒のばあやだったらこんなやりとりはなく、すんなり1人にさせてもらえるのだが、残念ながらばあやはとうとう腰の持病が悪化して寝ついてしまい、付き添い人の役目を果たせなくなってしまった。そのかわりに選ばれたのがメアリーだが、若い娘らしく好奇心旺盛で、遥遠のすることを何でも知りたがり、どこへ行くにもついて行きたがった。付き添いとしては務めに忠実で優秀なのだろうが、かなり息が詰まる。
「1周だけですよ? すぐ戻ってきますからね。ここからあまり離れないでくださいよ?」
「ええ。分かっているわ」
 答えつつ、遥遠は御者の男をちらりと見た。御者は心得ているという様子で帽子を持ち上げて見せ、遥遠を安心させる。きっと馬車はいつもの時刻まで戻ってこない。
 不服そうな表情をして窓から身を乗り出しているメアリーを見送る。馬車がかなり離れるまで待ってから、遥遠は公園のなかへ足を向けた。
 昼間の公園とはいえ、女性が1人で歩くのは軽率かもしれない。平民ならともかく、彼女は身分ある女性だ。軽率で、危険なことだ。
 しかし遥遠は臆することなく歩いていく。それはもう何度となく歩いた道、通い慣れた行程だった。いつもの時間、いつもの場所。大きな噴水を背にしたベンチの、空いた1つに腰かける。
 ここで彼女は小1時間ほど思想にふける。思想といってもたいしたことではない。ほんの些細な日常のことどもだ。特に結論を出すようなこともなく、脳裏の表層を流れていくいくつかの出来事にあれやこれやと思いを馳せていると時間がきて、迎えの馬車に乗って屋敷へと戻る。
 なんでもないことかもしれない。だが彼女にとってこれは大切な時間、一種の儀式だった。だれも彼女と気付く者のいない、世界で1人きりになれるひととき。
 そこに、いつからだろうか? 1つのカラーが加わった。
 両ひざにひじをついて、前かがみに腰かけた青年。
 いつから彼がそこにいたのか、はっきりと思い出せなかった。同じベンチの端と端で、ただ気がついたらそこにいた。
 だれを待つでなく、何か目的がある様子もなく――もしかすると自分と同じで、ただそこにそうしていることが目的なのかもしれないと、いつしか思うようになった。
 初めて口をきいたのは、存在に気付いてからさらに数カ月を経てからだ。
 青年は、名を緋桜 遙遠(ひざくら・ようえん)と名乗った。
 それからはぽつりぽつり、この公園で会うたびに言葉をかわすようになったが、たいしたことは話していない。その日の天気だったりといった、日常会話だ。だからいまだに彼のことは名前しか知らない。口調や物の見方、ちょっとした仕草などから高い教育を受けていることがうかがい知れるだけだ。
(今日はヨウエンの方が先ですね)
 彼がいないベンチに、ほっとしたのか、がっかりしたのか。
 がっかりしたのかもしれない。今日は少し心細いから。
 あてどなく、ぼんやりと見渡した視界に、談笑するメイドらしき少女とその友人の女性の姿が目に入った。向き合った互いの表情や、屈託なく笑い合う姿に、気心の知れた仲のいい2人だと直感する。
 実は遥遠にもそういう友人がいた。遠野 歌菜(とおの・かな)といって、母方の遠縁にあたる年下のかわいらしい少女だ。3年前、社交界デビューのときに遥遠の一家を頼って遥遠の屋敷に滞在していたことがあり、彼女の世話をした縁で仲良くなった。それからは社交界のシーズンが来ると屋敷に招いて、一緒に過ごしたものだった。
 だがそれも、もう過去のことだ。彼女は今日、嫁ぐために大陸行きの船に乗った。
 おそらくもう二度と会うことはないだろう。
 見知らぬ土地、見知らぬ人々。きっと見知らぬ風習が彼女を待ち受けているに違いない。そんななかへただ1人飛び込むことになった少女。彼女はまだ19歳だ。支えてくれるはずの相手は、名前しか知らない夫…。
 背筋を伸ばし、最後まで毅然とした態度を崩さず船に乗り込む彼女の口元は笑んでいたが、肌は血の気を失って白く、強張っているように見えた。
 けれどそんな姿を見ても、遥遠には「行くのはおよしなさい」とは言えなかった。
 結局は自分も同じなのだ。親の言うままよく知りもしない相手と婚約し、結婚しようとしている…。
 そんな自分に、一体何が言える?
 そう思う。けれど、心のざわめきは収まらなかった。歌菜の乗った船を見送ってもう大分経つのに、ざわざわざわざわ心は騒ぎ、揺らいで、いつまでも震える。
(早く来てください。そしてヨウエンを、いつもの日常に落ち着ける錨となってください)
 そんな遥遠の祈りにも似た願いが通じたように、そのとき遙遠が公園へ入ってきた。




 遥遠が気付いたとき、遙遠もまた彼女に気付いた。
 ベンチに腰掛けた清楚可憐な女性。
 彼女が昨日と同じ場所にいてくれたこと、それだけでほっとする。
 そこには、いつもどおりの日常があった。
 太陽は暖かくふりそそぎ、風はやわらかく彼をかすめて流れ、ほのかに彼女のまとう香水の香りを運ぶ。周囲にはうるさく感じない程度の雑踏があって…。
 かつて彼は、1人になりたくてここへ来ていた。
 前を通り過ぎる人々は現実の幻影。だれも彼に気付かず、彼を緋桜遙遠と認識しない。自分もまた、彼らにとって幻影となる。
 緋桜でない「遙遠」など、その程度の者だと気付かせてくれる場所。
 それなのに。
(いつからでしょうね「1人」でなく「2人」になったのは)
 淡い色のドレスをまとい、小さな日傘をさした女性。
 いつから彼女がそこにいたのか、はっきりと思い出せなかった。同じベンチの端と端で、ただ気がついたらそこにいた。
 女性は、名を紫桜 遥遠(しざくら・ようえん)と名乗った。
 彼女もまた、最初は幻影の1つでしかなかったはずなのに。気がつけば、この小さな孤独の箱庭のような世界に、彼は彼女を受け入れていた。おそらくは彼女もまた。
 彼女がだれなのか、どういった人なのかは知らない。だが自分と同じ世界の者であるのはなんとなく知れた。付き添いはいないが平民ではない。まとったドレスや靴、日傘に派手さはないものの、使われている生地も仕立ても一級の品。そしてぽつぽつとかわした数少ない会話の受け答えでも、彼女が高い教育を受けた女性であるのは分かった。社交界で見た覚えはないが…。
(まあ、もともとヨウエンはああいう場には興味がなくて他人なんかろくに見てもいなかったし、ここ数年は足も遠ざかっていたから、彼女がデビューしていても記憶に残るはずがありませんよね)
 毎日に不足はなかった。だから、何も求めていなかった。ただ昨日が今日になり、明日となる……漠然と、日々はそうして過ぎるものだと思っていた。
 だがそんなもの、無責任な子どもの思考でしかなかった。
 過不足ない食事をし、清潔な服を着て、安全な家で、温かなベッドで眠れるのは、だれのおかげ?
 何もせず、ただこうして思考に時間を費やせるのは、だれのおかげ?
 その「だれか」――つまり両親なわけだが――は、今、遙遠にその代償を求めていた。
 名前しか知らない相手との結婚、つまりは家督の存続。当然だ、身分と責任は切り離せない。両親は遙遠にそれを期待するだけの投資をしてきている。そして遥遠もまた、彼らの提案を当然のことと受け止めた。
 さからってどうなる? ほかの生き方など、全く思いつかない。それに、そこまでしてさからうだけの理由も思いつけなかった。
 ただ、見も知らぬ相手と生活を送るということに、少しばかり精神的な負荷を感じるだけで……これもいつか、解消されるものだと思った。
 今朝父から聞かされた、挙式の日さえ過ぎてしまえば。相手の女性が自分に何を求めているかが分かり、それを与えることで満足してもらえ、また自分を1人にしてもらえるのだと分かれば。
 ああそうか、と遙遠は不意に気付く。だから彼女をこの世界に受け入れられたのかもしれないと。
 彼女は何も求めてこないから…。
「こんにちは」
「こんにちは」
 あいさつをして、同じベンチの端へ腰かけた。ひざの間で指を組む。いつものように。そうしてリラックスして見る風景もまた、いつもと変わりない。
「今日は遅かったんですね」
「あ、ええ。出掛けに父に呼び止められまして」
 そして遙遠はさして深く考えもせず、つれづれと、自分の結婚の日取りが決まったことを話した。
「――そういうことですので、その準備でしばらくはこちらには来れない日があるかもしれません。式が終わって……そうですね、3〜4カ月もすれば、またいつものようにこちらに来れるようになるかと」
「そうですか…」
 こころなしかそう答える遥遠の声が沈んでいるように聞こえて、遙遠は道に落ちた何かをついばんでいるような小鳥から目を放して彼女の方を向いた。
 遥遠は少し考え込むそぶりをして、日傘の柄をくるくる回し、もてあそんでいる。
「どうかしましたか?」
「……実は」
 と、今度は遥遠が話し始める。婚約者――その存在は、これまでの会話で遙遠も知っていた――との結婚の日取りが決まったこと。それがあと2週間ほどしかないこと。
「来週、教会に告示をします。形どおりのものですわ。「この結婚に異議ある者は――」
「「名乗り出よ」ええ、分かります。父も手配したと言っていました」
 そして遥遠の言いたいことも分かった。付き添いもなしに未婚女性が男性と同じベンチに座っているなどという、今のこの状況ですらかなり異常なものなのだ。結婚した良家の女性が夫の許しなしに外へ出ることなど不可能に近い。しかも理由が男に会うためでは。
「そうですか…」
 何を残念に思うことがある? また「1人」だけの世界に戻るだけだ。
 だが遙遠は残念に思ったし、重いため息が出るのを止めることはできなかった。



*            *            *



 白い壁に囲まれたうす暗い廊下の一角で、匿名 某(とくな・なにがし)は立ち尽くしていた。
 最初は看護婦たちも彼に椅子をすすめたが、彼が一切応じないことに今はもうあきらめて、ただその横を通り過ぎるだけだ。
 四方にあるのは壁だけ。ここに来て、どれだけの時間が過ぎ去り、今が昼なのか、それとも夜になってしまったのかも分からない。
 某の意識はただ、目の前にあるドアにのみ集中していた。
 しかしはたしてそのドアが開くのを心待ちにしているのかは不明だ。ドアノブを一心に見つめる彼の目は、どちらかといえば怪異な物を見つめるそれに近い。ひたすら息を殺し、気配を殺して、わずかも動かず。それが回らないことを念じているかのよう。
 だが時間の流れは止まってはくれない。
 ガチャリ。
 金属的な音をたてて、ついにドアノブは回った。
 それと同時に凍りついていた某の時間が動き始める。
 押し開けられたドアから出てきたのは、白衣をまとった初老の医師だった。
「先生…」
「ご安心ください。綾耶さんの容態は今は安定しています。投与した薬で脈拍も正常値まで戻すことができましたが、しかしまだまだ不安定で予断を許さない状態であることは変わりありません」
 医師はそこでいったん言葉を切った。
「先生、どうか?」
「たしか綾耶さんにご家族は?」
「いません。俺だけです」
「そうですか…。
 あなたもお気づきかと思いますが、強度の発作を起こす間隔が短くなっています。今回は運よく息を吹き返すことができましたが、次もそうとは限りません。特に綾耶さんの今の体力では、今回のような発作が明日までに起きれば、おそらく持ちこたえることはできないでしょう。
 もし綾耶さんにお会いしたい方がいらっしゃるのであれば、今のうちにご連絡をとられた方がよろしいかと思います」
「…………」
 某は沈黙し、のろのろと視線をドアへ向けた。
「先生……綾耶に会えますか?」
「今は注射が効いて眠っています。あと数時間は目を覚まされないでしょう。その間は看護婦がついていますから、あなたは今のうちに一度帰られて、準備をなさってはいかがですか? 今夜も付き添われるのでしょう?」
「……はい」
 それから二言三言話をして――某は何を口にしたか全く覚えていなかったが――医師は軽く会釈をし、その場を去った。
「彼女が助かってよかったな、某」
 いつからそこにいたのか。まるであかりの届かない暗がりから生まれてきたように、ミスター ジョーカー(みすたー・じょーかー)が壁にもたれていた。
 口元にはひとを小ばかにするような笑みがうっすらと刷かれていたが、それがこの男の常だった。それ以外の表情を某は見たことがない。
「……おまえ、知っていたな」
「もちろん。私は悪魔だよ? しかも半人前のきみと違ってとても優秀だから、今日彼女が発作で死なないことくらい簡単に調べがつく」
「そうじゃない! 彼女の病気についてだ!」
 某は激怒していた。今この場で彼を殴り飛ばしたいほどに。
 しかし声をひそめなくてはならないと分かる程度には我を失ってはいない。壁ひとつへだてた部屋の中には看護婦たちと……綾耶がいた。彼が悪魔とは知らない綾耶が。
 某の葛藤を見抜いたように、やれやれとジョーカーは肩をすくめてみせる。
「なんだそのことか。感謝してほしいな、半人前くん。これもきみを思ってのことさ。もともと半年の寿命の者なら、きみも殺しやすいだろう?」
「おまえがそんな殊勝な考えの持ち主であるものか…!」
「ああもちろん、初仕事というのはだれしも臆しがちだからね。実際きみはずるずると半年かけているじゃないか。その点期限を設けていれば、否も応もない。
 きみの半年の期限は今日だ。早くあの肉体を切り裂いて、いっそ彼女を楽にしてやったらどうだ?」
「彼女は今日死なないと言ったじゃないか!」
「寿命ではね」
 そう言うと、ジョーカーは壁を離れて浮かび上がった。
「待て! どこへ行く!」
「もちろんほかの者たちの様子を見にさ。私がきみ個人の担当だと思っていたのかい? 半人前くん。それはちょっと自意識過剰というものだよ」
 別れのあいさつのようなウインクを飛ばして、ジョーカーは天井の闇に溶け込むように消えた。
 クスクスと失笑するような声が、空間のどこからか聞こえてくる。――それともこれは空耳か?
 結崎 綾耶(ゆうざき・あや)との表札がかかったドアに視線を戻して。
「……ちくしょう…」
 某は両手に顔を突っ伏した。