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あなたが綴る物語

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●近世ヨーロッパ 7

 クラブから戻った翠門 静玖(みかな・しずひさ)を待っていたのは、婚約者朱桜 雨泉(すおう・めい)の両親だった。
「どうなさったんですか? こんな夜更けに」
 そう声をかける前、客間へ足を踏み入れるより早く――もっと言えば、彼らが来ていると執事に聞かされたときから――それが何であるか、うすうす静玖には分かっていた。
 2人はソファにかけることもなく、見るからにそわついて落ち着きを失っている。彼らが静玖に助け舟を求めているのは伝わってきた。しかし静玖は促したり、自身から切り出すようなことはせず、黙って2人からの返答を待つ。それは、できるだけ知ることを遅らせたいという思いの表れでもあった。
 1つ2つ空咳をして、大きく息を吸い込んだあと。やがて意を決したように、長年に渡る飲酒で枯れた声で重々しく朱桜卿は告げた。
「夜分申し訳ない。お伺いしたのは……もしや、娘が、こちらにお邪魔しているのではないかと…」
「雨泉がですか? いえ、今日は一度もお会いしていませんが」
「そうか…。
 実は……もう気づいているかもしれないが……娘が、書き置きを残して家を出てしまった…。どうやら……その……男が絡んでいるようで…」
 朱桜卿は伏せた顔の下で視線を横へ流した。何か言いたいことがあるが、のどから上に上がらない、そんな様子だ。
 その姿に、ああと静玖も気付いた。では彼もまた、あのことに勘付いていたのかと。
 理解した2人の重い沈黙が流れる。それは足元でよどみ、徐々に嵩を増していくように思えた。
 のどをふさがれ、窒息しかけた寸前、感極まった様子で夫人が静玖の前へ飛び出す。
「全てわたくしの責任です! わたくしの教育が至らぬばかりに、申し訳ございません…!」
 ひと息にまくしたてると、やおら夫人は深々と頭を下げた。娘にとてもよく似た、柳葉のような体が目に見えて分かるほど震えていた。腫れたまぶたの下で真っ赤になった目。化粧は涙で流れて崩れてしまっている。
「あの子ったら、一体何を血迷ったのか…! こんなことをするなんて! 男と逃げるなんて、世間に知れたらあの子の将来は破滅です…!」
「落ち着いてください、朱桜夫人。まだ方法はあります」
「本当ですか!?」
「ええ。雨泉を連れ戻すのです。だれにも知られないうちに」




 スコットランドのとある村へ続く山道を、馬車は疾走していた。
 もう真夜中近く、周囲はときおり吹く風でさざめく葉擦れの音しかしない。そのせいか、雨泉にはガラガラと音をたてて回る車輪の音が、教会のパイプオルガンさながらの大音響に聞こえてならなかった。
 こんなにすごい音をたてて、大丈夫だろうか? もしも追手がかけられていたら、この音で自分たちの居所がばれてしまうのではないか…。
 ひきりなしに揺れる馬車のなかで、雨泉の行儀よくひざの上に乗せられていた両手はいつしか握りこぶしになっていた。そこに込められた力を解こうとするように、となりから伸びた手がやさしく包み込む。
 大きな手だった。庭師の手らしくごつごつとして固く、指先もしみ込んだ土や何やかやで黒くなっていたが、とてもあたたかい。
「大丈夫かね? なんなら、戻ってもいいんだよ?」
 やさしく語りかけてくる声。そちらを向くと、心配げな目をして風羽 斐(かざはね・あやる)が覗きこんできている。
 雨泉はもう一度視線を手に戻した。そこから伝わってくるぬくもりが、不思議と雨泉のおびえをとり払い、不安を消してくれる…。
 解いたこぶしをあお向けにして指をからませ、ぎゅっと握る。
「いいえ。これでいいのです」
 


 雨泉と斐が出会ったのは、翠門家の屋敷だった。
 静玖と雨泉は親同士が決めた婚約者で、物心ついたときから互いの家を行き来する間柄だ。雨泉は純粋に静玖を慕い、静玖も雨泉の面倒をよくみていたことから両親を含めて周囲の者たちは皆2人は完璧なカップルで、きっと幸せな夫婦になるのだろうとあたたかく見守ってきていた。
 実際、雨泉もそう思い込んでいた。いずれ、そう遠くない未来、自分は静玖と結婚するのだと。そしてそのことに何の疑問も不満もなかった。あの日、いつものように静玖が帰宅するまでの間、庭へ散策に出るまでは。
 斐は数カ月前に雇われたばかりの庭師で、その日も土いじりをしていた。
 実をいうと、彼は翠門家の遠い縁戚の者だ。しかし親の代までに財を食いつぶし、没落した。それでも頑なに「働くなど下賤の民のすること」と斐の父は言い続け、決して一度たりと働くことはなく、斐にも一切何もさせなかった。だから父親が死んだとき、斐には何ひとつ生きていく手立てがなかった。家は借金の形としてとうに銀行に抑えられている。父親の死後、彼が爵位まで金に換えていたことを知っても驚くことはなかった。ただ、ああそうかと受け入れた。
 かくて身ひとつで放り出された斐だったが、そんな彼にも唯一できたことが庭いじりだった。父親が床に臥せってから、ただ1人最後まで風羽家に仕えてくれていた庭師の老人から伝授されたのだ。
 土や草花を相手に黙々と作業をする、これが意外と斐の性に合ったようで、斐が手を入れた風羽家の庭が父親の葬儀に現れた翠門卿の目をひいた。それで庭師として雇ってもらえたというわけだった。
「これ、何という花ですか? とてもきれいですのね」
 手入れの最中に話しかけられ、斐はとまどった。これまで庭師などに話しかける者などいなかったからだ。屋敷のメイドたちでさえ、彼に話しかけるのはまれで、その内容はいつも「部屋に飾る花がほしい」という類いのものだった。
 長い間、彼はこの屋敷で空気のような存在だった。
「どの花がご入用ですか」
 振り返り、そこにいた少女に義務的な笑顔を向ける。少女は脇の花壇に植えられたピンク色の小薔薇に顔を近づけ、見入っていた。
 婦人というよりも乙女といった言葉がぴったりの少女だった。まだ肉感的な要素はなく、若馬のようにしなやかで初々しい。
 見覚えはなかった。おそらく朱桜家のお嬢さんについてきた小間使いだろう。そう検討をつけた。
「お摘みしましょうか」
 ベルト吊るしから植木ハサミを引き抜こうとする彼の動きを、雨泉はあわててさえぎった。
「あ、いえ。そういうわけではないのです。摘んだりなどしてはこの花がかわいそうですわ。摘まれた花は、あとはもう枯れていくだけですもの」
 おかしなことをいう娘さんだ、と斐は思った。摘まれないならば、何のためにこの花はこの屋敷で咲いているのか。
 斐はハサミを動かし、適当に見繕った房咲きの枝を切って彼女の髪止めの隙間に差した。
「まあ」
「花は大勢の人に愛でられるためにあるのです。あなたが摘まなければ、ここでこの花はひっそりと朽ちていくだけです。それではこの花もせっかく咲いた甲斐がないというものでしょう。
 それでもその花がかわいそうだというのであれば、あなたがたくさんの人の目にとまるようにしてあげてください」
「……分かりました。そうします」
 それで会話は終わりだと、再び手入れに戻りかけた斐に、雨泉はためらいがちに声をかけた。
「あの……この花は、何という名前なのでしょう?」
「グリーンアイス」
 ほのかに緑がかった多重弁の白薔薇は、小ぶりながらも薔薇の気品を備えていて美しい。
「もう少し育ったら這わせてアーチを作ろうと思っています」
「薔薇のアーチですか。とてもきれいでしょうね。
 あの……あの、また見に来てもいいですか? どんなふうか、とても興味があるんです!」
「ええ。かまいませんが」
 庭師に許可を求めるなど、やはりおかしな娘さんだ。そう思いつつ応じた斐の前、雨泉は見るからにほっとした様子で、小薔薇に負けないほど美しくほほ笑んだ。
 それから雨泉は足しげく翠門家を訪れるようになった。婚約者の家で、もともと子どものころから幾度も通っていた場所だったことからだれも不審に思うことはなく、彼女の両親もむしろいい傾向だと容認していたため、彼女の目的が静玖でなく斐だということに気付く者はだれもいなかった。
 それは斐も同じだった。このころにはもう雨泉が最初思ったような小間使いなどではなく、この屋敷の跡継ぎ静玖の婚約者だと分かっていたが、かといって何も人聞きの悪いようなことはしていないと。ただ花について語り、手入れの仕方を解説しているだけだ。自分が老庭師に師事したように。
 雨泉はまだほんの子どもで、人生の入り口に立ったばかり。対する自分は人生にくたびれた初老の男。何も財と呼べそうなものはなく、あるのは花たちだけだ。夢は新しい品種の薔薇を作り、学会に登録すること。それで満足だった。何の不足もない。彼女はただ純粋に花に興味があって、愛でて楽しむために来ているのだろうとばかり思っていて、周囲の目など気にしていなかった。だから「ちょっと斐さん」と執事に声をかけられ、あまり親しくしすぎるのもどうかと思うと、それとなく注意をされたときは本当に驚いてしまったのだった。
「まさかそんなことをあやしむ人がいるなんてね」
 と斐は笑い話として雨泉に話した。しかし雨泉の反応は斐の考えていたものと違った。
「……いけませんか?」
「え?」
「あなたに会いにきては、だめなのでしょうか」
 自分を見上げる雨泉の真剣な眼差しに、初めて間違っていたのがほかの者たちでなく自分の方だと気付いた。
「娘さん。あなたはそう思い込んでいるだけだ。私に父親を見て――」
「私に父はいます! あなたと父への想いは、全く別物です!」
 そう言われると返す言葉がなかった。
 斐はどうにかはぐらかした。この時点でも雨泉の一途さを本気にしてはいなかった。きっとそのうち気付くだろう。これが少女特有の一過性のもので、絵物語の登場人物への憧憬とそう変わるものではないと。自分は安全な男だから、彼女は安心して空想の恋物語を楽しんでいられるのだと。
 そんな斐のあたりさわりのない扱いに雨泉も気付いていた。
 斐に対する想いは、父に感じていたものとも静玖に感じていたものとも全く違う。むしろ斐に出会ったから、静玖に対する想いが敬愛であることに気付けたのだ。静玖もそうだろう。彼女を見る目に愛はあってもそれは妹のような存在に対するそれで、情熱はみじんも感じられなかった。
 雨泉は恋した少女のひたむきさで斐にぶつかっていった。ぐずぐずしていたところで斐から動いてもらえる可能性はゼロだと悟ったからだ。
 庭の一角にある斐の小屋へ忍び込み、驚く彼の腕へと飛び込んだ。
「お慕いしております。ずっと、お慕いしてきました。初めてお会いしたとき。私を振り返ったあなたを見て、胸がドキリとしたのです。あんなことは初めてでした。思えばひと目惚れだったのでしょうか。それからの日々、あなたとお会いすることだけを楽しみにこちらへお伺いしてまいりました。夕暮れがきて、あなたと別れることだけがつらくさびしいことでした。あなたと幸せな時間を過ごせることだけが今の私の幸せです」
「娘さん…」
「雨泉です。どうか、雨泉とお呼びください。そしてお情けをください。ただひたすらにあなたをお慕いする1人の女として、私を見てください。私はただ愛でられるだけの花ではありません。あなたに摘んでいただかなければ、枯れていくしかない」
 斐は驚くと同時に、ふつふつと胸にこみ上げるものを感じていた。
 一体だれがこれほどまでに自分を求めてくれただろう? それまで彼はただの傍観者だった。ただそこにいるだけの者だった。雨泉だけが彼に気付き、彼を見て……こんなにも彼を必要としてくれる。
 彼女を想うなら突き放すべきだ。彼女はこの屋敷のレディとなる身で、自分が破滅させていい相手ではない。
 良識が何度も訴えたが、どうしても手を放せなかった。
 それから2人は、小屋で秘密の時間を持つようになった。だれにも気づかれないよう、細心の注意を払って。短い時間だったけれど、とても幸せなひと時だった。
 しかしそれもすぐに終わりを迎える。翠門公爵が気付いて、下男たちを使って斐を痛めつけたのだ。身の程を知れと。
「命を取らないのは縁戚だからだ。しかしそれも2度はない。もし息子の婚約者にこれ以上近付こうものならテムズ川に浮かぶことになるぞ」
 傷ついた斐を見て雨泉は嘆き、自分のせいだと青ざめた。
「ごめんなさい……ごめんなさい…」
 枕元でさめざめと泣く雨泉の手をとり、斐は告げた。
「私の妻になってくれるかい?」
 あと戻りするには、もう遅すぎたのだ…。



 斐が起き上がれるようになるのを待って、2人は夜の暗闇にまぎれるように馬車を走らせた。
 スコットランドへ。グレトナ・グリーンへ。
 そこは身分など関係なく、だれもが幸せになれる場所といううわさの地だった。
「式さえすませてしまえば、きっと父や母は認めてくださいます。だって夫婦なんですもの。そうする以外ないでしょう?」
 希望に輝く笑顔で雨泉は言った。
 そんな簡単なことではないと斐は思ったが、口にはしなかった。自分が悲観的すぎるのかもしれない。そう思うことで目をつぶった。耳をふさぎ、背を向けた。でもおそらく、雨泉も感じてはいたのだ。斐と同じく、口にしなかっただけで。
 到底かなうはずがなかったのだ。
「雨泉、帰るんだ。今ならまだ間に合う。彼らと一緒におとなしく家へ帰り、ご両親に謝るんだ。そして今日のことは忘れろ。あとの始末は俺が引き受ける」
 屋敷の下男たちとともに馬を駆って追いつき、崖へと追い詰めた静玖が淡々と切り出した。内心がどうあれ、その声や表情からは一切感情は読み取れない。
「いやです! 私はこの方の妻になると決めたのです! もう二度と離れません!」
 となりの男にしがみつく雨泉を見て、静玖はそちらへと目を向ける。
「あなたからも説得してください。こんなことは彼女のためにならない。彼女はまだ若い。これがどういうことを意味するか、全く理解できていないんです。まだ17で、破滅させたくはないでしょう」
「だめ!」斐が揺らいでいるのを感じてしがみつく。「卑怯よ! 年齢なんて、私にはどうしようもないことを武器にしないで!」
 そして斐に懇願した。
「私を放さないで……決してあきらめないでください。ここで離れてしまったら、もう二度と会えない気がするんです…!」
「……雨泉。私は――」
 苦渋の色濃い声。はっと顔を上げた雨泉の視界で動くものがあった。それが下男の1人がかまえた銃口であると気付くより早く、雨泉は動いていた。
「やめろ!」
 それと気付いた静玖が銃を持つ手を払うのと、雨泉が斐の胸を突き飛ばすのと。
 すべては一瞬だった。
 山肌を反響して響き渡る銃声。雨泉は何かが胸にぶつかった衝撃を感じると同時に今まで感じたことのない激痛に身をよじる。倒れまいとして本能的に2歩、3歩と後退した彼女の足元でピシッと不吉な亀裂音がしたと思った次の瞬間、崖が崩れた。
 夕方の豪雨でもろくなっていたに違いない。だれもがあっと思ったときにはもう崩落は起きていて、彼女の姿は視界から消えていた。
「雨泉!!」
 悲鳴のように彼女を呼ぶ静玖の声が落下していく雨泉の耳に届いたが、雨泉にはどうすることもできなかった。
 ごうごうと流れる水音が、下が川であることを知らせる。死を覚悟した一瞬に、雨泉は力強い腕で後ろから抱き締められていた。
「あなた…!」
 斐だった。
「どうして…」
「ここで離れたら、二度ときみと会えなくなる…」
 肩口に押しつけられた顔。伏せられた目尻に涙がにじんでいるのを見て、そっと指をそわせる。その動きに誘われるよう目を開いた斐の前、雨泉は幸せそうにほほ笑んでいた。



「ばかな……こんな…」
 崖の上、ぽっかりと口を開けている下の暗闇を覗き込んで静玖はうめいた。
「雨泉、なぜこんなことになる前に俺に相談しなかった! それがおまえの望みなら、俺はたとえどんな手を使ってでもかなえてやったのに…!」
 行き場のない憤りと、悲しみと、後悔とが静玖のなかで荒れ狂う。静玖もまた、雨泉の想いを軽んじていた。雨泉が庭師になついていることには気付いていても、そこまで真剣なものであるとは思ってもみなかったのだ。
 奥歯を噛み締める静玖の耳に、かすかに川の流れる音が聞こえた。真っ暗で見えないが、下は川が流れているらしい。
 静玖のなかで、クラブで聞いた話がよみがえった。
 川に飛び込んだ2人。彼らの遺体は見つからなかった…。
 雨泉は被弾している。そして川は雨で増水し、急流となっているに違いない。雨泉が岸に這い上がれる可能性は一体どれくらいあるだろう?
 たとえそれがどれほど低い、わずかな可能性であろうとも。静玖は願わずにいられなかった。2人が無事岸へとたどり着けて、生き延びてくれていることを――――