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あなたが綴る物語

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●近世ヨーロッパ 10

 花売りをしていると突然後ろから腕を掴まれ、強引にそちらを向かされた。
 悲鳴を上げる間もなく両肩が壁にぶつかって、その衝撃に腕にかけていた花かごが落ちて転がる。
 まさかまたなの? と紫扇 香桃(しせん・こもも)は恐怖に固まった。つい先日もこんなふうにいきなり腕を掴まれて路地の奥に引っ張り込まれたのだ。そこには3人のうす汚れた男たちがいて、あっという間に手足を押さえ込まれた香桃は身動きすることすらできず、彼らのなぐさみものにされる寸前だった。
 しかし今彼女の前に立っていたのは彼らではなく、そのとき香桃を助け出してくれた人物、アルフォード公爵その人だった。
「公爵さま…」
「こんな所で何をしている! また襲われたいのか!」
「いえ、そんなことは……でも…」
 彼が怒って当然だ。花を売るのは昼までにしておけと、あのあときつく言い聞かされていた。だけどそれでは全然足りない。仕入れのことだってあるし、場所代もあるし、売れなかった分の見込みも…。
 夕方だと女性の元を訪れる男性に需要があって、売上げが格段にいいのだ。
「あの……公爵さま…」
 香桃は緊張にもつれる舌でしどろもどろになりながらもそのことを説明した。
「なら俺が面倒を見てやる。俺のものになれ、香桃」
「えっ?」
「俺には金がある。おまえの親父の起こしたスキャンダルなんか蹴散らしてしまえるだけの力だ。すぐにまたおまえを社交界の華に戻してやる」
「そ、それは駄目です!」
 香桃はあわてて首を振った。
「私は社交界を追放された父の娘…。私などをお屋敷に入れては駄目です。公爵さまの輝かしいお名前に傷がつきます」
 お優しいアルフォード公爵。あのころの友達は父が破産したと知った瞬間にそっぽを向いたというのに、こんな、おちぶれた自分などを今でも気にかけてくださって…。だからこそ彼を巻き込むことだけはなんとしても避けたかった。この人だけは。絶対に。
 そっと、そでに触れていた手を引き戻した。汚れた手で彼のきれいなシャツにしみをつけたくない…。
「お気持ちだけで十分です…」
「じゃあここに毎日立って、あんな目にあいたいというのか? 前回は運よく逃れられたが次もそうだとは限らないんだぞ!」
「…………」
「――そうか、分かった。おまえはそうされたいって言うんだな…」
「えっ?」
 腹立たしげなイリヤの意味深なつぶやきに驚く香桃の腕を掴み、有無を言わさず引きずるようにして市場の外に止めてあった馬車へ押し込む。館へ戻ったイリヤは手近な客室へ彼女を連れ込むとベッドの上に突き飛ばした。
「きゃあ!」
 埋もれるほどやわらかなベッドがクッションがわりになって痛みはないが、動きにくい。どうにか身をひねって起き上がろうとしたところで両手を掴まれて、頭の上に引っ張られた。否も応もない。しゅるりと絹のこすれる音がして、気がついたときにはもう両手首を彼のスカーフで結ばれていた。スカーフのもう片方はヘッドボードに結びつけられて…。
「こ、公爵? これは――」
「こうされたかったんだろ。俺がその願いをかなえてやるよ」
「や! だめ!」
 ひざ立ちになり、いろんな方向に引いてなんとかして手を抜こうとするが、反対にますます締める結果になってしまった。スカーフはわずかも緩まない。しかも、そうしている間にも彼女の服はイリヤの手でどんどんはだけられ、はがされていった。
「いやっ、こんな…。み、見ないでください…」
「どうして? こんなにきれいなのに」
 羞恥に赤らんだ香桃の耳元、後ろからおおいかぶさったイリヤがささやく。その声は早くも熱を帯びて低くかすれている。
「香桃。おまえはその名のとおり、いい香りがするな。味もいいか、たしかめてみよう」
「ああ……っ!」
 首筋に押しつけられた唇が舐め、甘噛みした。小さなキスをつなげて肩先を噛む。それを繰り返しながら下へと下りていく。もちろんその間もイリヤの手は香桃の体を探索し続けていた。もう彼の触れていない箇所はどこもないのではないかというほどに。
「……っ!」
 たまらず、香桃は顔をクッションに押しつけた。端をくわえ、噛み締める。頭のなかが沸騰寸前なほど真っ赤に染まって、何も考えられなかった。まるで全身が1つの心臓になってしまったようにどくんどくんと脈動している。手足に力が入らず、ただ感じていることしかできない。
「香桃、香桃。聞かせて、香桃。ピアノか、それともフルートか。おまえがどんな音色を出すのか知りたい…」
 切れ切れの息の下、イリヤの声が聞こえた。今までの命令口調と違う、懇願するような声だと、しびれた頭のどこかで思った。どうして? しかしそんな疑問も次の瞬間には圧倒的な情熱の波に飲まれて跡形もなく消える。
 イリヤの求めるままに、香桃は彼の楽器となった。彼の望むがまま、その巧みな技で奏でられる楽器に。
 そうしてすべてが終わったとき、香桃はまだ自分が生きているのが不思議に思えてならなかった。熱くほてった体は冬の寒さを感じない。手首の拘束はいつの間にかはずれていて、それをしたのが自分なのか、イリヤなのかも覚えていなかった。ただ両手には、汗に濡れた彼の背中を抱き締めた感触がはっきりと残っていた。
 イリヤはベッドの足元の方に座っていた。服をまとってはいたがボタンは留められていない。はおっているだけだ。うつむき、かぶさった前髪で表情はうかがえなかったが、彼が感じているのが満足からほど遠いものであるのは理解できた。
「どうして…」
「違うんだ。俺がしたいのは、こんなことじゃない。傷つけたいわけじゃないんだ」
 ぽつっと、独り言のようにつぶやく。こんな彼を香桃は今まで見たことがなかった。社交界で見かける彼はいつも自信たっぷりで、女性に囲まれていてもどこか皮肉げで……退屈そうだった。
「大切にしたいんだ。でも、どうしたらいいか分からない」
 今までそんな者、どこにもいなかった。だれがどうなろうとしったことか、あの日からそんな思いで生きてきた。利用できる者かできない者か、重要なのはそれだけだった。
「公爵さまは……あの……おやさしかったです…。私……よく分かりませんけど、多分あの人たちだと……こんなふうにはいられならなかったと…」
 のどの奥から言葉を押し出すように、つっかえつっかえしゃべる香桃のうわずった声が聞こえた。
 あんな扱いを受けながらそれでもイリヤを気遣おうとする香桃に、イリヤのなかで必死に押さえ込もうとしていたものが爆発した。
「やさしいはずがあるか! 俺は、おまえの両親を殺したんだぞ!」
「えっ!? で、でも、2人が死んだのは病気で…」
「そう仕向けたのは俺だ! 俺が何もかも奪ってやったから、あいつらは失意の底で病気になり、死んだのさ! だけど俺はそうしたことを後悔しちゃいない! あいつらはそうされて当然だったんだ! 俺から何もかも奪っていったんだから!」

『イリヤ……ごめんね…』

 母の最期の言葉がまたも脳裏によみがえった。
 灰色の寒空の下、雪に凍えながら母は幼いイリヤに言った。
『おうちにはもう帰れないの』
 そして最後に残った半分のパンを差し出した。これを食べなさい、と。その間にお母さんはちょっとお用事をすませてきますからね、と…。
 イリヤはうなずいて、母の言うとおり公園のベンチで待った。食べ終わり、かじかむ指先に息をはきかけ……日が暮れても、母は現れなかった。やがて制服姿の警官が現れて彼を保護した。母の遺体のポケットから手紙が見つかって、そこに居場所が書かれていたらしい。息子を頼みます、とだけ言葉が添えられていた。
 イリヤの両親はフランスの貧乏貴族だった。ただ爵位を持っているだけ。父は事務員をし、母は紡績工場に勤めていた。周囲の者たちは彼らが貴族であることすら知らなかったのではないか? やさしくて控えめな夫婦だった。特に貧乏というわけでもなく、ごくごく一般的な家庭だったと思う。
 そんな幸せな家庭は、父親が突然解雇されたことから急変する。仕事でミスをしたというのが理由だった。それにより発生した負債を全て押しつけられた。父親は「自分のミスだから」とそれを甘んじた。
 最初は家を売ればしのげると思っていた。しかし家はなかなか売れず、やっと売れたときは二束三文の捨て値だった。爵位も手放した。それでもふくれ上がる利息には焼け石に水だった。母親の仕事では家族3人が食べていくのも難しい。何の光明も見えないなか、父親は職を求めて奔走し、その途中で貴族の馬車の暴走に巻き込まれて死んだ。母と息子の手元に残ったのは、わずかばかりの見舞金。相手は平民と、謝罪もしない相手から慰謝料など望むべくもない。
 母親は若かった。若い女性が住む場所も職もなく、食べる物にも困るなか、冬空の下で子どもを育てるにはどうすればいいか? それはおのずと知れる。しかし彼女はそれを選ばなかった。自ら命を絶つことでイリヤを公共機関に託した。
 「かわいそうなみなしご」として貴族たちの慈善事業施設に放り込まれ、それでも順応しようと努力していたイリヤが全てのからくりを知ったのは、それからさらに数年後のことだった。
 爵位さえあれば何をするにもスムーズに事が運び、特権を享受することができると考えた金満家の事業家がイリヤの父親の持つ爵位に目をつけたのだ。
 何もかも彼の仕業と知ったとき、イリヤの心は冷たく凍りついた。
 それからは自分にあるのは復讐だけだと思って生きてきた。貴族の世話になるのがいやで施設を飛び出し、ストリート団に入った。そして街でスリをしているとき、客として目をつけた老婆がアルフォード公爵夫人だった。
 侯爵夫人はイリヤの頭と腕を買って、放蕩息子の行方を捜させた。しかし侯爵夫人の息子はフランスへ来てすぐに女に捨てられ、薬に溺れたあげくの果てに身ぐるみはがれて殺されていたことが分かった。「なんともあの子らしい最期だわね」と彼女は豪胆に笑って、今度はイリヤに関心を向けた。いつかきっとイギリスへ行って、あの男に復讐してやる――公爵夫人は彼の考えを面白いと思ったようだった。
『なら、私を利用しなさい。どうせ私にはもう用がなくなるものだもの。おまえにあげるのも一興ね』
 公爵夫人が旅先で見つけた息子の忘れ形見として、イリヤは海を渡った。必ずやこの手でマルレー男爵から爵位も何もかもはぎとってやるとの決意を秘めて。
 じわじわ時間をかけて追い詰め、抜け道のない袋小路に追い込み、自ら破滅していく様を見るのは愉快だった。何もかも失って、失意のなか子どもを残して死んでいかねばならなかった母と同じ末路を味あわせてやった。
 だがそうして残された香桃は?
 彼女は昔の俺だ。結局俺がしたことは、俺と同じ人間を作り出しただけなんだ。
「そんな……公爵が、私のお父さんとお母さんを…?」
 香桃は激しく混乱した。いきなりそんなことを言われても現実味がない。
 娘の香桃から見ても父親はおろかな人間だった。家庭をかえりみず、いつも考えているのはお金と、どうすればお金がもっと手に入るか、そればかりだったから、犯罪に関与していて警察に捕まったと聞いてもすんなり納得できていた。あの父ならやりかねないと。そんな人が人を愛せるわけもない。母親は自分のこと以外一切興味のない人で、ただ父の稼いできたお金を湯水のように使う人だった。事件発覚後、世間体、羞恥心が彼女を殺したのだ。そうでなければ今ごろ香桃と一緒に暮らしていたはずだ。貧しくとも寄り添いあい、助け合って生きてこれたはず。
 それを思うと、両親の死はある意味自業自得とも言える。自ら破滅する道を選んだのだから。
 それよりも香桃は、だからイリヤは自分に目を配ってくれていたのかと、そちらの方がショックだった。
 社交界に属していたころから香桃は彼に惹かれていた。彼はいつも美しい女性たちを連れていたからそっと目で追うことしかできなかったけれど。だからこの前助けてもらったとき、名前で呼ばれて、彼が自分の存在に気付いてくれていたことを知ってうれしかった。
 でも違った。彼は罪悪感を感じていて……それで、さっきもあんなことを申し出てくれたのだ。
「……公爵さま、もうお気に病まないでください。すんでしまったことです。私はあなたをうらんでいません」
 傷ついた心を隠して、香桃は懸命に笑顔をつくった。ひざ立ちで彼の元へ近付くとそっと肩口に手を添えて、その言葉が真実であることが伝わることを願う。
「ですから、つぐないのために、私を愛人にしたりする必要は――」
「はあ!?」
 イリヤがすっとんきょうな声を上げてさえぎった。見開かれた目がまじまじと香桃を見ている。
「愛人って何だ!? 俺はそんなことひと言も言ってないぞ!」
「え? え? で、でも、私の面倒を見たい、って…」
 予想外のイリヤの反応に、あれ? 何か勘違いしちゃったのかも? と内心あせり始めた香桃の前で、イリヤはガックリ両手をついてうなだれた。はーっと重いため息が出る。
「……全然通じてなかったんだな…」
「公爵さま…?」
「あれはそういう意味じゃなくて…。――大体、つぐないで愛人って何だよ?」
 香桃には聞こえない声でぼそりつぶやく。
 ようやく脱力から立ち直って面を上げたイリヤは照れ隠しのように視線をあらぬ方に向けると、こほっと空咳をした。
「ずっと、おまえを見てたよ。最初はかたきの娘としてだったけど…」
 あの男の娘だ。どうせ同じ穴のむじなだとあのころは思っていた。うぶで純心そうに装って、より高い爵位を持つ貴族のバカ息子を釣り上げようとしているんだと。
 けれど彼女はまさしく黄金だった。どんな場所であろうとも、輝きをくもらせない。
 そっと手をとり、甲に口づける。
「香桃……俺はまだどうすればおまえを幸せにできるか分からない。またさっきみたいに暴走して、傷つけてしまうかもしれない。でも、大切にできるようがんばるから……だから……俺の妻になってくれ」
 最初、その言葉を耳にした瞬間香桃は心底から驚いて硬直してしまったが、彼の言葉が徐々にしみ込んでくるにつれて解けていった。
「うれしい……です。公爵さま。ずっと、初めて見たときから公爵さまをお慕いしていました…。でも、身にすぎる願いだとあきらめていたんです…」
「イリヤだ」
 彼女が受けてくれたことにほっとした途端、心に余裕がうまれてか、イリヤはまたちょっぴり傲慢で居丈高な若者に戻って香桃をベッドへ押し倒す。一瞬どきりとしたけれど、今度は自分も彼女の横に転がって、乱れて顔にかかった髪をやさしく払ってくれた。
「言えよ。ほら」
「あの……イリヤさま…」
「違う」
「……イリヤ」
 香桃は恥じらうようにほおを赤くして、幸せそうに小さく笑った。