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あなたが綴る物語

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●近世ヨーロッパ 6

 ドアが開いた瞬間、出てきた男とぶつかりそうになって、コハクはあわてて横にとびのいた。
「うわ」
「すまない」
 男は風のようにコハクの横をすり抜けて、あっという間にクラブを飛び出して行く。
「ずい分急いでいたみたいだけど、何かあったのかな」
 というか、服装がかなりくだけていたというかカジュアルに見えたけど……まさかね。ここは会員制のクラブだし。そう思って首を傾げていたら、奥のボックス席から名を呼ばれた。
「コハク! こっちだ!」
 見ると、遊離 イリヤ(ゆうり・いりや)が手を上げている。
「遅くなってごめん。姉さんが来ていて、屋敷まで送ってきたんだ」
 席にはすでに矢野 佑一(やの・ゆういち)翠門 静玖(みかな・しずひさ)たちもいて、やはりコハクが一番最後だった。
「それで、何があったの?」
「さあ。僕も知らないんだ。イリヤから手紙で呼び出されてね」
 佑一の言葉に同意するように静玖も肩をすくめて見せる。答えたのはまたもイリヤだった。
「聞いて驚くなよ? あのアイン・ブラウ卿がついにグレトナ・グリーンへ馬車を走らせたんだ!」
 驚くなと前置きするわりに、さあ驚けと言わんばかりの言い方だった。そして実際、3人は一瞬体をこわばらせるほど驚いた。
 グレトナ・グリーンとは国境沿いにある隣国の村で、そこでは望めばどんな恋人たちでも(究極恋人同士でなくても)すぐさま式が挙げられることから駆け落ち婚で有名な場所だった。さまざまな障害に阻まれた2人。けれど運命の恋に落ちた2人は馬車を駆ってグレトナ・グリーンへ! 追手に追いつかれる前に式を挙げていれば、2人は名実ともに夫婦になれる、という塩梅だ。
 ロマンチックに聞こえるかもしれないが、本当のところは違う。隣国の法がどうであれ、この国では貴族は貴族以外の者との婚姻を認めない。周囲からは白眼視され、親族からは縁を切られて二度と社交界へは戻れない。(ただしそれなりの力と援助により体裁が整えば、数年の謹慎ですむ場合もある)
「それはまた……よりによって、あの温和なアインがか」
「ひとは見かけによらないってことかな」
「相手は裏でいろいろとうわさになっていた例のメイドだそうだ。ばかなやつだ、爵位目当ての成り上がりなんかにひっかかるなんて」
「……そうとも、限らないんじゃない、かな…」
 コハクは急に締まったのどから無理やり言葉を押し出す。
「決まっているさ! ほかに何があるっていうんだ? ああいうやつらは俺たちの持つ爵位をうらやんでいるんだ。金はどうにでもして稼げるが、爵位だけはどうあがいても絶対に手に入れられないからな。いつだって罠にかけようと手ぐすね引いて待ってやがる。
 コハク、おまえも気をつけろよ? 最近東洋から来た女の子とうわさになっているだろ。へたに色仕掛けでそそのかされて罠にはまる前に、愛人にしてソーホー・スクエアに家でもあてがって、身のほどをわきまえさせておけ」
 イリヤは特段ひどい発言をしているわけではなかった。それがこの時代、この社会におけるルールだ。身分差は絶対に越えられない壁として存在する。おそらく美羽と出会う前のコハクであれば、普通にあいづちを打っていただろう。しかしこのとき、コハクはとっさに声も出ないほど凍りついた。
「違う! 美羽は――」
 言葉にかぶさって、そのときとなりのボックス席から声が飛んできた。
「やれやれ。若いのに、ずい分とひねくれた考えの持ち主だね」
 そちらを見ると、琥珀色の液体が入ったグラスを口元にあてがった初老の紳士が1人座っている。静かにたしなみ、もれ聞こえてくる会話を聞くともなしに聞いていた、というところだろうか。
「失礼ながら、あなたは?」
 佑一からの質問に、紳士はふむと考え込むそぶりでグラスを揺らした。
ヘイリー、と名乗っておこうか」
「ヘイリー卿」
 いかにも偽名といった口ぶりだったが、あきらかに目上の紳士を相手にあからさまに突っ込むわけにもいかない。
 しかし酒の回ったイリヤは挑発的にソファから身を乗り出した。
「へえ。ではあなたはどういうお考えですか? ぜひご高説を承りたいですね」
「……そうだね。昔からの教訓の1つとして、例えばこういう話がある」
 ヘイリーはグラスをテーブルに戻して彼らに向き直ると、淡々と話し始めた。



 時は今から数百年ほど前か。場所は、イングランドのとある地方とだけ言っておこう。そこはオルトリンデという領主に治められていた。
 当時何度目かの十字軍遠征で、国全体が疲弊していた。時の王は聖地奪還に夢中になり、騎士の大半は徴収されて領主とともに何年も不在が続く。普通なら領主の末息子あたりが城の名代を預かるのだが、オルトリンデには息子がいなかった。熱病で死んだ正妻が産んだのは娘で――もちろん、領主は目に入れても痛くないほどの溺愛ぶりだったが――庶子もまた、残らず娘たちだった。
 娘を名代として城を預けるわけにはいかない。領主は名代としてとなりの領主の息子を指名した。
 彼の名はディラン・メイトランド。三男坊で、領主の娘フェイミィ・オルトリンデ(ふぇいみぃ・おるとりんで)のいいなずけだ。順当な采配だろう。はじめはだれもがそう思った。
 しかし領主不在が長引くにつれ、彼は自分が城を預かっただけの名代だということを忘れた。まるで己の城であるかのように横柄にふるまうようになり、些細なことでも不平不満をつぶやけば容赦なく罰を与え、それが元で亡くなる者も少なくなかった。税率を上げ、作物の徴収量を上げ、地代を払えない者が出ればそれがどんな理由であれ、追い出した。
 追い出された民は森に住むようになり、やがては自ら森に入る者も出始め、その数は増えていった。
 ならず者同然だった彼らを束ね、ひとつにまとめていたのがリネン・エルフト(りねん・えるふと)。若干17歳でありながら統率力は群を抜き、すでにその豊かな才能は他に追随を許さないほどだった。
 彼もまた、ディランの行った理不尽な圧政により両親を失っていた。その憎しみ、そして自分と同じ悲しみをこれ以上味あわせないためにと、彼女は立った。
 彼と志を同じくする者たちとともに団を結成、ディランの配下の者たちから人々を守る義賊として名乗りを挙げたのだ。

「わが剣の下へ集え! 同胞たちよ! ディラン・メイトランドの悪辣非道なふるまいより無力な民草を解放するのだ!」

 それは、現実の過酷さを知らぬ者、権力代行者たる者を弑することがどういう結果を生むか知らないがゆえの向こう見ずさであったかもしれない。力に力でぶつかれば、さらに圧倒的な力が返ってくる……平民の反逆など、どこも許しはしないからね。
 無学な者ならではの無謀さと愚かさだ。そして気高く凛々しい頭首リネンが持つ、まごうことなきカリスマ性が彼らを熱狂させ、武器をとらせた。
 彼らは人々を苦しめるディランの配下の者たちを襲い、挑発し、貯蓄庫を襲撃しては徴収された金品、作物などを人々に返していった。人々はリネンたち義賊に感謝し、彼らを褒め称えた。それはそうだろう。そしてリネンはますます人々の羨望のまと、希望の星となった。
 けれどリネンは?
 人々に崇拝され、期待される彼の安息はどこにあっただろう?
 人々は忘れていた。彼がまだ二十歳にもならない少年であることを。(公平に見て、忘れていたのはリネン自身もだったかもしれないが)
 彼はそれを、フェイミィ・オルトリンデに見出した。
 2人はとある小さな村で出会った。
 リネンは情報屋から情報を得るため、フェイミィは城を抜け出して好奇心からの探索者として。情報屋とやりとりをしている最中、怪しんだ兵の職質を受けて逃走しているリネンを馬小屋に匿ったのがフェイミィだった。
 逃走の途中で、リネンは足に深手を負っていた。動けない彼の元へ、フェイミィは食事や薬草を持って足しげく通った。
「俺はリネン。キミ、名前は?」
「――フェイ」
 とっさにフェイミィはそう口にしていた。リネンは森の盗賊一味の1人だ。彼らが城の者をきらっているのは知っている。だから、自分がオルトリンデの者だとは言い出せなかったのだ。
 間違いじゃない、自分は父や城のみんなにはフェイの愛称で呼ばれているんだから、とフェイミィは自らに言い聞かせた。
 リネンにきらわれたくなかった。路地から飛び出してきた彼とぶつかったとき、ひと目で彼のとりこになったからだ。目深にかぶったフードの下から現れた黒曜の瞳。そのいきいきと輝いていた瞳と視線を合わせた一瞬に、フェイミィは理解していた。なぜ自分がディランとの式を承諾できずにいたのか。いつまでも煮え切らない態度で彼を不機嫌にさせながらも期限を引き延ばしてきたのか。ディランではない、リネンこそが待ち望んでいた心から愛する人、自分の運命の相手とはっきりと理解した。
 それはリネンも同じだった。
「不思議だ」
 干草の上、となりに横たわったフェイミィのつややかな――そして少し汗でしめった――黒髪を指ですいて、わらくずを取ってあげながら、リネンはささやいた。
「失うのは慣れっこだった。両親も、友人も、家も、何もかも、俺の指をすり抜けていく。何ひとつとどめておくことはできない。そういうものだとあきらめていた。あの貪欲な貴族どものような得る側の人間がいるのと同じように、俺はことごとく失う側の人間なのだと。そう悟ってからは、何かに執着することはなくなった。むしろ愚かだとさえ思っていたんだ。固執すれば、失うのは自分の命だと。だが。
 今、初めて失いたくないと思っている…。キミを失うくらいなら、命を差し出した方がまだマシだ」
「リネン…。オレもだ。オレも、愛してる。おまえのためなら死んでもいい…」
 彼に求められるまま、フェイミィは全てを投げ出した。フェイミィのような地位の未婚女性にとって、それは身の破滅を意味する。しかしためらいはなかった。リネンが捧げてくれた真摯な想い、誠実さ。それにふさわしいものを返したかったのだ。
 彼らは身を焦がすような情熱にかられるまま、幾度となく互いを求めあった。少しずつ、少しずつ、互いを互いに溶け込ませ、いつか1つのものとなるのを願うように…。
 そしてそれはリネンの足の傷が治ってからも続いた。2人はだれにも気づかれないよう細心の注意を払って村を訪れては、愛を深めていった。
 やがてリネンたち義賊団は蜂起を決意する。
 別れ際、リネンは腕のなかのフェイミィにそのことを告げた。
「明日の夕刻までにディラン・メイトランドを城壁から吊るしてやる。そうすれば――」
「やめてくれ!」フェイミィはすがりついて懇願した。「そんなこと、イングランド王は決して許さない! すぐに命令を受けた近隣の領主の兵たちがやってきておまえを殺す!」
 リネンもそれは承知の上だった。だがディラン・メイトランドの非道な行いをやめさせるにはそれしかない。その上で、新たな名代となる人物が今よりもっと良い統治をしてくれることを願うしかなかった。
「もちろんなぜ蜂起に至ったかの訴えはする。心ある領主であるなら耳を傾けてくれるかもしれない。だが俺は、いずれにしても責任をとらなくてはならない」
 リネンはフェイミィと出会うよりずっと前に、神に誓いを立てていた。フェイミィに止められるはずもなかった。
 そうしてリネンたちは翌朝、予定どおり城に攻め入った。城のなかにはリネンたちに通じる者も数多くいて、彼らが内側から義賊団に手を貸した。いくら頑丈な城壁と厚い城門に守られていようと、内と外両方から攻められてはどうにもならない。
 勢いはリネンたちにあった。
 城は陥落するかに見えた。
「姿を現せ、ディラン・メイトランド! 出てきて潔く俺と戦え!!」
 領主の自室でリネンはついにディランを見つけた。ディランと、そしてフェイミィを。
 そのとき初めてリネンはフェイミィが村の少女フェイではなく、フェイミィ・オルトリンデであることを知ったのだった。
「ばかな……そんな…」
 驚愕に目を瞠り、硬直したリネンを背後からディランの部下たちが襲う。
「おまえのことなどすべてお見通しだ、薄汚い盗賊め。おまえとのことは何もかも、このフェイミィから聞いている。おまえが今日、何をするつもりだったかもな!」
 床に抑え込まれたリネンを見下ろしてディランは嘲り、つばを吐いた。
 蜂起は無残なまでに失敗し、リネンは地下牢へ入れられ、彼の部下はことごとく首をはねられた。
 ディランの言葉はすべて嘘だ。フェイミィの様子がおかしいことに気付いたディランは部下にあとをつけさせ、リネンとの逢引きを知って、その上で泳がせていたのだ。
「売女め!」ディランはフェイミィを張り飛ばし、罵倒した。「あんなチンケな盗賊などに身を任し、この俺の顔に泥を塗るとは! おまえがオルトリンデでさえなければ、この手で殺してやるところだ!」
 さんざんフェイミィを痛めつけたあと、ディランは1週間後に式を挙げると宣言した。
 フェイミィは痛む体をおして、地下牢のリネンの元へ向かった。番兵からかすめ取ってきた鍵でリネンを逃がそうとする。
「……オレは……裏切ってなんか、ない…」
 フェイミィの必死の訴えも、傷つき、疑心に凝り固まったリネンの心を溶かすことはなかった。
「――二度と顔も見たくない」
 リネンは憎しみの目をフェイミィに向け、森へ消えた。
 森の隠れがへ戻ってみると、そこも焼き払われていた。拷問を受けただれかが口を割ったのだろうことはすぐに想像がついた。もうリネンは驚かなかった。
 心身ともに傷ついた彼を待っていたのは、ここから西にあるシャーウッドの森でやはり義賊団を率いているヘリワード・ザ・ウェイク(へりわーど・ざうぇいく)だった。事を聞きつけた彼が救援に向かってくれていたのだ。そうして彼は、ディランの兵に追われ、散り散りになっていたリネンの仲間たちを集めて保護してくれていた。
「あいにくときみたちの蜂起には間に合わなかったがな」
 蜂起は失敗に終わり、大勢の仲間が死んだ。すべて自分のせいだ。
 リネンは殺されるために戻ったというのに。彼はほがらかに笑って、よく戻ってくれたとリネンを抱き締めた。
 それから数日後。新たな隠れがで傷を癒していたリネンに、ヘリワードがフェイミィとディランの婚儀は明日だと教えた。
「あれはおまえの女だろう。取り戻す気があるなら力になるぞ?」
「ばかな! あれは裏切り者の女狐だ! 俺をだましてディランに売った娼婦だぞ!」
「そうか? ならこれを聞いても平気だろうな。
 床入りをすませたあと、やつは彼女を殺すつもりだぞ。盗賊相手に簡単にスカートをめくり上げるような女はそうされて当然だと、酒の席で周囲に漏らしていたそうだ。はじめからそうするつもりだったくせに、あの豚め!」
「……だが、俺は…」
「あれから6日。そろそろ頭が冷えてもいいころだ。冷えた頭で考えろ。彼女がいる世界か、いない世界か。リミットは明日の朝だ。逃せば2度はない」



「――それで、彼はどうしたんですか?」
 しゃべり続けて乾いたのどを潤すようにグラスに口づけたヘイリーに、すっかり話に引き込まれた佑一が先を促した。
「もちろんフェイミィ奪還に向かったよ。ヘリワードたちがその手助けをした。しかし思っていた以上に戦力の差がきつくてね、追手の足止めをするだけで精一杯だった。2人はディランたちに崖の上へ追い詰められ、投降を迫られた。だが応じたところで殺されるのは目に見えている。ディランの口約束など一考するにも値しない。
 2人は崖下の川へ身を投じることを選んだんだ」
「なんだ、結局死んだのか」
 はっとイリヤが嗤う。うす暗い部屋のなか、そっぽ向いた顔に浮かんだ表情は、しかし言葉とは裏腹にどことなく沈んでいるようにも見えた。
「身分不相応なことをすれば結局はどちらにとっても身の破滅。悲劇にしかならないっていうことだな」
 それを聞いて、ヘイリーの片方の眉がわずかに上がる。
「違うよ。リネンは、フェイミィが自分を裏切ったと思い込んでいた。彼女のせいで彼を信頼していた大勢の仲間が亡くなり、自分は何もかも失って破滅したとね。実際、それを覆すような証拠は何もなかった。けれどね、それでも彼はフェイミィを失った世界で生きたくないと思ったんだよ。彼女を失っては到底生きていけないと。それこそまさしく運命の恋というやつじゃないか?
 激流に飛び込む彼らは一瞬もためらわなかった。彼らを飲み込もうと渦巻く川へ落ちていく間じゅう、彼らは固く抱き合っていたよ。二度と離れまいとね。たとえ死ぬとしても、彼らは生ある限り精一杯生きる道を選んだんだ」
 回したグラスのなか、カランと氷が音をたてた。
「すてきな話をありがとうございました。とても有意義な時間を過ごせました」
 コハクたちは席を立ち、コートを羽織る。
 しかし無性に気になって、席を離れる直前、ヘイリーのいるボックス席を振り返った。
「あの……彼らは、本当に死んだんでしょうか?」
「うん? ――ああ。さあ、どうかな? かなり下流まで捜索されたがとうとう死体は見つからなかった。川の底で魚のエサになったんだろう、というのが結論で、その後2人を見た者がいないのも確かだ。ただね」と、ヘイリーはどこか子どものようないたずらっぽい笑みを浮かべる。「ヘリワードが彼らの逃走手段の1つとして用意していた2頭の馬が消えていたそうだよ」
「それって――」
「盗まれたのさ。決まってるだろ。さあ帰ろう。馬車が来ているぞ」
「う、うん…」
 イリヤに急き立てられるようにして去って行く足音を聞きながら、ヘイリーはグラスの底に残っていた、もうかなり溶けた氷で薄まったそれをあおる。そうしておかわりを頼もうとしたとき。いつの間にかテーブルに置かれていたボトルに気がついた。同時に、ボトルの下にはさみ込まれた紙にも。

     『なつかしい話をありがとう』

 走り書きされた文字を見て。
 ヘイリーは満足そうに大きく息をついたのだった。