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あなたが綴る物語

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●近世ヨーロッパ 9

 スティール子爵の出奔を矢野 佑一(やの・ゆういち)は新聞記事で知った。
 貴族のスキャンダルはわりと日常茶飯事的に紙面を騒がせる。ただのうわさだったり、憶測にすぎないものも多かったが、あの夜のどこか思いつめているふうだったコハクを知る佑一は、これは事実なんだろうと考えて驚くことはなかった。
(みんな大変だな)
 そんなふうに考えつつ、紙面を閉じて朝のお茶を飲む。コーヒーは最近ちょっと値上がりして手を出しづらいが、中国茶は輸入が好調らしく、かなり値が下がってきている。大学の帰りに市場へ寄ってもう少し買いだめしておいてもいいかもしれない、と思った。午後の六講はたしか休講だったはずだ。
 朝食に使用した食器を片そうと流し台へ運んで、そこにあるはずの食器がないことに気付いた。棚の引き出しを確認してみると、昨夜クラブへ行く前に用意してあった夕食も手つかずで残っている。
「…………」
 佑一は黙々とそれらをごみ箱に捨てて、ありあわせの食材を使ってサンドイッチを作った。
「父さん」と、父の部屋をノックしてドアを開ける。「サンドイッチがあるから、食べておいてね」
 重いカーテンが年じゅうかかっているせいで室内は少しかび臭く、暗かった。今日はケイツ夫人が来てくれる日だから、掃除をして換気してくれるだろう。ただ、彼女が帰ると閉めてしまうからすぐ元のもくあみになってしまうのだけど…。
 佑一はしばらく待ったが、返事が返ることはなかった。
「……じゃあ、行ってくるね」
 失望に胸がふさがるのを感じつつ、部屋を出る。数カ月前、貿易船が嵐にあって沈んだという一報が入ってから、佑一の父はショックのあまり意気消沈してしまった。そうなって初めて知ったのだが、これで一気に巻き返しを図ろうと、父親は銀行から多額の借金をしてまで大金を投じていた。買い付けをした男からはかなり良質なオリエンタル家具が手に入ったという手紙が届いて、到着を楽しみにしていたというのにその荷財が全て海の藻屑になってしまったのだから、そうなってもおかしくはなかった。しかしあれからずい分経つというのに、父親はいまだ抜け殻状態でぼんやりと宙を見つめてはイスに座っているか、ああして1日ベッドから出てこない。このままでは本当に病気になってしまうのではないか、それが佑一には心配だった。
 佑一の家は、ひと言で言ってしまえば貧乏貴族だ。伯爵位はあるが、財はなし。領地もない。父親は投資家でさまざまな会社に投資をしてきたが、どうもそちらの才はないらしく、一時的にもうけても出て行く金の方が多かった。結局、かろうじて残った銀行の預金と利息でなんとか生活を送っている。ただ、この前の失敗の件があるから、もしかすると通いできてもらっている家政婦のケイツ夫人を解雇せざるを得なくなるかもしれない。あるいは、なけなしの株券やクラブの会員権を売るか…。
「いくらで売れるかな。それで借金が返せて、僕が卒業するまでの生活費が出たらいいんだけど」
 今夜計算してみるか。そんなことを思いつつ、アパートの階段を駆け下りる。すると、ミシェル・シェーンバーグ(みしぇる・しぇーんばーぐ)が外階段の所で立っていた。
「ごめん。待った?」
「ううん。ボクも今来たとこだから」
「そう? じゃあ行こうか」
 手を差し出すと、ミシェルは少しためらってからそっと握ってきた。ほんのりと赤くなったほおがたまらなくかわいい。
 ミシェルは2カ月ほど前にフランスから越してきた一家の1人娘で、佑一が家具を部屋へ運び入れるのを手伝った縁で知り合った。その後、彼女がこちらになじむ手助けをするという理由で一緒にすごすうちにいつの間にかそれが当たり前となって、自然と一緒にいる時間が増えている。
「佑一さん、週末のレポートのことなんだけど……もう書き終わった?」
「あと少しかな。明日、図書館で少し確認してから仕上げるつもり。どうかしたの?」
「ちょっと……うまくまとめきれなくて…」
「じゃああとで見せて。一緒に考えよう」
 そんなことを話しながら歩いていると、不意にクラブでのことを思い出して、佑一は、やっぱりみんなは大変だな、とあらためて思った。なまじ財なんかあるから、あんなふうに縛られて。
 彼らは学友だし、ああして集まって酒を飲みながら屈託なく話すのも楽しい。けれどやっぱりこうしてミシェルと大学の講座のことや日常のことを話していると、自分とは違う世界だと思わずにいられなかった。
 大学を卒業して、働きに出て、いつか時期を見て小さな家を買って、家庭を持つ。裕福でなくても、そばに愛する妻や子どもたちがいて、いつも笑い声の絶えない家庭…。
「どうかしたの? 佑一さん」
 つい想像してしまった光景に我ながら気恥ずかしくなって、佑一は思わず顔に手をあててしまった。ちょっと熱い。きっと赤くなっているに違いない。
「ごめん。なんでもないから」
「そう?」
 小首を傾げたものの、ミシェルは深く問い詰めようとはしなかった。
 彼女と手をつなぎ、並んで歩きながら佑一は思った。
 それが自分には合っている。
 


 夕刻、買い出しで市場を歩いていた佑一はばったり遊離 イリヤ(ゆうり・いりや)と出くわした。
「よお佑一」
 ポケットに手を突っ込み、慣れた足取りでひとを巧みに避けながら近付いてくるイリヤは、服装がシャツにズボンとカジュアルなせいか周囲にすっかり溶け込んで見えた。
 しかしこう見えて彼はアルフォード公爵位を持つ、イギリスでも有数の名門貴族の青年である。
「めずらしいね。きみがこんな所にいるなんて」
「あー、まあな」
 それた視線に、彼がそのことを追求されたがっていないことが分かった。
「おまえは? 買い物か? ――って愚問だったな」
「まあこまごまとした物をひととおりね」
「ふぅん。
 あ、そういや今朝の新聞見たか? コハクのこと」
 並んで歩きながら、イリヤはクラブでもした、あの「爵位を欲しがる強欲どもの手管に引っかかった」論と似たようなことを話した。あのときも思ったが、不思議だった。そんなことを口にしながら、その実貴族をきらい、さげすみ、憎んでいるような口ぶりをする。
 イリヤも貴族なのに。
(それとも……違うのかな?)
 イリヤの場合、そのへんが実はあいまいだった。娘夫婦を事故で失った老公爵夫人が失意のあまり1年ほど旅に出て、戻ってきたとき少年のイリヤを連れていたのだ。
 公爵夫人には娘のほかにもう1人息子がいた。これができの悪いばか息子の典型で、彼のスキャンダルを聞かない日はないほどだった。あげく、賭博の元締めの情婦に手を出して彼女とともに出奔してしまった。亡くなった老公爵は腹を立て、彼を勘当し、ついにその勘当は解かないまま亡くなった。
「イリヤは息子の子どもです。息子夫婦ははやり病で亡くなっていましたが、孫はこうして生きて、ホテルにいた私を訪ねてきてくれたのです」
 息子のメダルを持っていたため、公爵夫人は彼を孫と認めて後継者に据えた。その公爵夫人も数年前に亡くなり、たとえその出自がどうであれ、今は彼が名実ともにアルフォード公である。切れ者と評判の公爵を敵に回すような者はいないため、今ではイリヤの過去について口にする者はだれもいなかった。
「――どうせコハクのやつもアインのやつも、すぐ正気に返って戻ってくるさ」
「かもしれないね」
 適当にあいづちを打つ。そのとき、イリヤの顔が目に見えてこわばった。何を見つけたのか――視線を追ってみたが、市場の雑踏があるだけで特にこれといって目を引くようなものはなさそうに見える。しかし佑一には見つけられない何かをイリヤが見つけたのはたしかだった。一点を凝視し続けるイリヤの表情はみるみるうちに剣呑となっていく。
「イリヤ?」
「……あ? ああ、悪い。ちょっと用事ができた」
「僕にできることは?」
「ない」
 即答し、イリヤはあっという間に人混みのなかへまぎれて見えなくなった。



「お帰りなさい」
 帰宅した佑一をケイツ夫人が出迎えた。
「ただいま帰りました。――だれか来ているんですか?」
 居間の方からひとの気配がした。ドアが閉じられているので何を話しているかまでは分からないが、複数の人間の声が聞こえる。
 ケイツ夫人は少し表情を曇らせ、ひそひそ声で答えた。
「銀行家のシュヴァルツ・ヴァルト(しゅう゛ぁるつ・う゛ぁると)氏がお見えです」
 ああついに、と思った。
 覚悟はしていたから驚きはしなかったが。
「分かりました」
「とにかく、私はこれで帰らせていただきますので…。お夕飯のポットローストはいつものように戸棚へ入れてあります」
「あ、はい。ありがとうございます。お疲れさまでした」
 どこか急いでいるふうのケイツ夫人がパタパタ靴音をたてていなくなると同時に、居間から父親の呼ぶ声が聞こえてきた。
 銀行家が来るということは借金の返済についてだろう。
 クラブの会員権を売る覚悟は決めている。足りなければ父にも爵位を手放すよう提案しよう。ヴァルト氏からも説得してもらえるかもしれない。
 覚悟を決めて話し合いの場についた佑一が聞かされたのは、しかし全く寝耳に水の、驚くべき内容だった。



「佑一さん」
 アパートの外階段に座り込み、深く考え込んでいる様子の佑一を見つけてぱたぱたとミシェルは走り寄った。
 ズボンについた汚れを払って佑一は立ち上がる。
「遅かったね」
「図書館で調べものしてたらこんな時刻になっちゃって……でも佑一さんこそ。こんな所に座って、どうかしたの?」
「きみの帰りを待ってたんだ」
 佑一の返答に、ミシェルはいやな予感を感じた。
 瞳は暗く陰って、いつになく表情が冴えない。佑一がこんなになるなんてよっぽどのことがあったに違いなかった。
「佑一さん、何があったの!?」
「――婚約した。明日新聞社へ行って、結婚の告示広告を出してもらう。結婚式はひと月以内にする予定だ。急ぎ新居を探すことになったから、レポートの手伝いはできなくなった。……ごめんね」
 それを聞かされたミシェルを襲った衝撃は、並大抵のものではなかった。心臓を直接ハンマーで打たれたような痛みに息ができなくなる。それどころか、心臓がそこにあるのかどうかさえ分からなかった。
 砕け散ってぽっかり穴があいているような気がしてならず、無意識のうち、手をあてる。その指先もしびれていて何の感触も伝わってこなかった。
「……そん……そんなこと、言ってなかったじゃない…」
「うん。ごめん」
 顔を見なくても、佑一が本当にすまなさそうな表情を浮かべているのは分かった。
 うつむいたミシェルの目にじんわりと涙がにじむ。
「そ、そっか…。あ、相手の人……ボクの知ってる人…?」
 首を振ったあと、ミシェルが見ていないことに気付いて、佑一は答えた。
「知らない人だよ」
 僕も知らない人なんだけどね、と心のなかでつぶやく。
 父親のあの尋常でない憔悴ぶりから、まだ聞かされていないことが何かあるに違いないとはうすうす思っていた。しかしヴァルト氏から聞かされた借金の額は、佑一の想像をはるかに上回ったおそるべき数字だった。
 佑一は絶句し、機能停止しかけた頭を一生懸命働かせて、かき集められる金を計算した。けれど、何もかも手放して、父と自分が身ひとつになったとしても、到底返せる額ではなかった。
 父親はまさに一世一代の賭けをして、負けたのだ。
「よく……それだけのお金を、父に貸しましたね…」
「絶対確実な投資だと何度も力説されましたので。事実、オリエンタル家具はとても好評な商材です。船が港に入る前からもう買い手は決まっているのが常ですから。とある貴族の方など、1年ごしで待っておられたりもします。
 とはいえ、お父さまの情熱と弁舌にうっかりと乗ってしまった当方に全く非がないわけではありません。そこで返済方法として、個人的にひとつ有望な手立てを運よく知っておりましたので、今日はそのご提案に参りました」
 ヴァルト氏のした提案が、佑一の結婚だった。
 とある裕福な資産家が爵位を求めている。しかし売買で手に入れるには相続男子がいないため不可能。それでその母親と娘は、結婚によって手にいれることを希望しているという。
「とてもかわいらしいお嬢さんですよ。きっとあなたと並ばれると、お似合いの2人だと皆さん絶賛してくださるでしょう。うらやむ男性も1人や2人ではないかもしれません。お金持ちの美人妻。あなたにも決して悪い話ではないと思いますよ」
 ならその男たちが結婚すればいいのだ。そう思ったが、言葉にはしなかった。
 佑一に選択権はない。
 父がいる。自分だけなら何とかなるかもしれなかったが、心労に疲れ切った父親をホームレスにすることはできなかった。挫折から立ち直れるとは到底思えない。
「では先方には私の方からお伝えしておきましょう。あなたからご快諾をいただけたと知れば、大変お喜びになるでしょう。
 ああ、式や新居についての費用はご心配なく。私がすべて取り計らっておきます。ただ、場所はこのスクエアは避けてください。もっと治安の良い、上流の方が住むような……そう、キャヴェンディッシュ・スクエアのような、ね」
 最後、どこか悪魔めいた笑みを口元にうすく刷いて、ヴァルト氏は帰って行った。
 それを見送った佑一は、それからずっとここに座って、ミシェルを待っていた。どう話すのが一番いいか、何度もシュミレーションしながら。
 ミシェルは友達で。本当は、話す義務はないのかもしれない。でも話さなくてはいけないという思いが強かった。
 彼女を愛している。
 今さら気付いてもどうしようもないけれど。
「そ、そう……そう、なんだ…。あの……おめで…」
 ぐっとこみ上げた熱い塊にのどをふさがれ、ミシェルはそれ以上言葉が続かなかった。
 死にそうなくらい気分が悪くて。吐いてしまいそう。
「ミシェル? どうしたの?」
「……ごめん、佑一さん……そこ、どいてくれる…? 部屋へ……帰りたいんだ…」
「でも――」
 ミシェルは気付いていないかもしれなかったが、ふらふらと体が前後に揺れていた。今にも倒れてしまいそうなその体を支えようと伸ばした佑一の手に、そのときぽたぽたと温かな涙の滴が落ちた。
「ミシェル」
「……だって、おかしいじゃない。全然そんなそぶりなくて…。なのにいきなり…。
 もう、決めてしまったんでしょ? 佑一さんのことだもの。考えて、決めて……だから今さらボクが何言ったって…」
 ぐい、とこぶしで涙を振り払って、ミシェルはどこか怒っているような決意の表情で佑一を見上げた。
「佑一さんが好き! 初めて会ったときから好きだった! 婚約者がいるのにこんなこと言ってごめんなさい!」
 次の瞬間、ミシェルは外階段を駆け上がった。佑一が驚いているのは分かったし、こんな言い逃げはひどいと思ったけれど、今、彼のそばには1秒だっていられなかった。
(明日。明日になったら、きちんと謝ろう。そして今度こそ、おめでとうって言うんだ)
 でも今は、思いっきり泣くことしかできそうになかった。



「ミシェルが…?」
 驚きが冷めないまま、佑一は呆然と彼女が消えたアパートのドアを見上げた。
 自分の想いに気付いたのだって間がないのに、とても彼女の想いまで処理しきれない。
「あなたがクロフォード伯爵?」
 狼狽した佑一の耳に、背後から呼びかける声が聞こえた。
 少し平坦な、感情の起伏に欠ける女性の声。
「いいえ。それは父です。ただし――」ゆっくり振り返る間に、平常心の仮面を貼りつける。「あなたと結婚するまでには、僕が継ぐことになっています」
「そう」
 と、リボンのついたつば広の帽子をかぶった黒髪の少女は答えた。この地区にはふさわしくない、見るからに高級そうなエメラルドグリーンのドレスを着て、同布で作られた幅広のリボンを腰に巻いている。
「あなたがプリムラ嬢ですね」
 佑一の会釈にプリムラ・モデスタ(ぷりむら・もですた)はうなずきで応じた。
 ぴんと伸びた背筋と相手の目をまっすぐ見つめる金色の目に、彼女がひと筋縄ではいかない女性であることがうかがえる。
 ヴァルト氏の言ったとおり、彼女はきれいだ。美術館の絵画のように。佑一の好みではないけれど。
「僕に何かご用でしょうか」
「あなたを見に来たのよ。かりにも夫になる相手だし。年寄りではないとヴァルトは言っていたけど、あれの言うことはときどき……というか、ほとんどの場合で信用がならないから」
「そうですか。僕は及第点がいただけますか」
「そうね。でも女の子を泣かせたままにするのはいただけないわ。追わなくていいの?」
「……僕はあなたの婚約者ですから」
 佑一は愛想のいい笑顔を浮かべたまま、にこやかに応じる。
 これがこの男の仮面なのね、とプリムラは思った。さっきの少女のときはあんなにも豊かな表情を浮かべていたのに。
 あの少女を心から大切に思っているのなんか、バレバレじゃないの。
「じゃあこう言ってあげる。あなたの爵位を私が買うわ。あなたが必要としている額でね」
「え? でもそれは…」
「私が必要としているのはあなたの爵位だけなの」
「ええ。知っています」
「だから夫が愛人を何人持とうがとやかく言うつもりはないわ。節操なしは困るけど。でも、さすがに本気の相手は困るのよ。私はほかの女の子を泣かせてまであなたをほしいと思ってるわけじゃないんだもの」
「…………」
「あなたの爵位をあなたの提示したあの額で購入するわ。私との結婚は条件からはずす。二言はないわ。さあ、あなたはどうしたい?」
 頭はまだこの申し出に混乱していた。何か裏があるのではないか、あまりに条件が良すぎると。だが心は決まっていた。
 自縛の鎖が解けた身軽さで佑一は身をひるがえし、階段を駆け上がる。一刻も早くミシェルに会いたくて、プリムラの存在は完全に頭から抜けていた。
「やれやれ。あなたにぴったりのお相手を見つけたと思ったんですけどね」
 建物の影から現れたシュヴァルツが、見かけだけの愛想のよさで帽子を持ち上げ軽く会釈をする。
「まさかあなた自身がだいなしにするとは」
「好きあっている者同士を裂けとは言ってないわよ。そんなことをしてまで結婚するほど落ちちゃいないわ」
「ええ、そうです。あなたにはくさるほどお金があり、才能豊かで、若く、美しい。あなたを妻にしたがる男ははいて捨てるほどいるでしょう。ですがね、あなた、自分でつけた条件の厳しさ分かってるんですか? 見た目が悪くなく、年寄りすぎず、爵位は持っているけど金に困っている男。それがどれだけいると思ってるんです」
 しかもその上新たに条件が加わったといかにもな渋面をつくるシュヴァルツに、プリムラは背を向けて少し先に止めてある馬車へと向かう。
「もうそれはいいわ。さっき言ったように手続きをしてちょうだい」
「それはかまいませんが、あなたは伯爵にはなれませんよ」
「そんなことだれが決めたの。私は伯爵夫人にはならない、女伯爵になるわ。私にはくさるほどお金があるって今あなたも言ったでしょう」
 たしかに。女が伯爵位を金で買い、相続したというのはちょっとした旋風を巻き起こすだろうが、それをねじ伏せるにあまりあるほど彼女は金持ちだ。気骨もある。すぐに貴族たちは彼女を受け入れるだろう。
「クロフォード女伯爵、コンテッサ・プリムラ・モデスタ、ね。ま、それも面白いか」
 そっと帽子の下から覗くようにアパートを振り返る。とある部屋の窓のカーテンに、抱き合う2人の影が映っているのを見て片頬を上げたシュヴァルツは、プリムラのあとに続いてゆっくりと歩き出した。