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星降る夜のクリスマス

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星降る夜のクリスマス
星降る夜のクリスマス 星降る夜のクリスマス

リアクション


●Prologue

 窓を風が撫でている。冷たい冬の風が。
 ただ、その冷たさをフィリス・ボネット(ふぃりす・ぼねっと)が実際に味わうことはない。
 なぜってフィリスはベッドに伏せり、石を詰められたような重い頭で、室内からこれを見上げるだけだから。
「うぅ……気持ち悪ぃ……」
 絞り出す声はひび割れていて、高速道路のトンネル内で聞くラジオのようだ。普段ならこれも「なんだこの声!?」と苦笑いする余裕もあったろうが、あいにくと今日のフィリスにそんな活力はなかった。
 多少安定してきたが、それでも全然笑えない高熱、手足の痺れと喉の痛み、異様な寒気に多少の吐き気、おまけに不定期な咳……本日のフィリスは、絵に描いたようなインフルエンザなのだった。なんと不幸なことだろう。一年に一回しかないクリスマスイブに。
 フィリスの頭の下から氷枕を引っ張り出し、新しいものと取り替えながら霧丘 陽(きりおか・よう)は胸を痛めていた。今夜のパーティ、フィリスには約束していた人がいたというのに……。
「本当に行っていいの? 僕、残ったって……」
「いいって。行ってこいよ。オレだって自分の面倒くらい見れる」
「一人で寝てなきゃならないんだよ。心細くない?」
「馬鹿にするなよ。ただ寝てるだけなのに心細いもなにもあるわけないだろ……さっさと行ってこいよ……」
 フィリスのツンツン口調は相変わらずだが、その言い方に勢いがないのは致し方ないところだ。
「でも……」
「デモもゲバもないってんだ。ほら行け。こんな問答やってる暇はないんだ……オレは寝るのに忙しい」
 さっさと治したいからなと言い捨て、目を閉じごろんと寝返りを打つとフィリスは陽に背を向けた。
 ぎゅっと目を閉じるフィリスだ。かっかとした熱でどうしても涙目になるので、瞼を下ろすと目の端から熱いものがこぼれた。
 まったく、とフィリスは思った。
 ――サンタはプレゼントはくれても、幸せはくれない……ってか。
 本日、会場で落ち合う予定だった彼のことを考える。彼は元気だろうか……パーティ、楽しんでいるだろうか……?
 フィリスとしては、彼さえ元気で楽しんできてくれれば別にかまわない。かまわないのだが……胸がちくちくと痛んだ。
 それもこれもインフルエンザのせいだ。
 ――うつすわけにいかねぇから、ちょっときつく『見舞いには来るな』と言ったけど……とにかく、早く直して顔を見せてやる。
 それが一番だ。
 ゴホゴホと咳するフィリスに、もう言葉を紡ぐ気はないと見て取り、
「じゃあ、行ってくるから」
 と短めに告げて、陽は音を立てないよう気を遣いながら部屋を後にした。
「天使も風邪、ひくんだね……」
 そんなことを呟きながらコートを着てマフラーを巻いて、白い息を吐きながら外に出る。
 思った以上に、寒かった。
 冬の夜は早い。感覚的にはまだ夕方の時間帯なのに、もう昏がりが訪れていた。濃い群青色の空に、すっぽりと黒のヴェールが降りるまでそう時間はかからないだろう。
「……あれ?」
 玄関先に置かれているもの気づき、陽は足を止めた。こんなプレゼント、用意した覚えはなかった。
 雪の結晶だった。
 ただ、普通の結晶とは違うようで、手袋をはめない手で触れてみても、結晶に溶ける様子はない。
「メッセージカード付か、これは小さなサンタさんが届けてくれたのかな?」
 贈り主が誰かは、容易に想像がついた。
「うつる可能性があるから直るまでお見舞いにきちゃだめだよ、って言っておいたのに……」
 といっても戸口にこれを置き、引き返したのだろうから、フィリスも怒りはしないだろう。
 忍び足で陽はフィリスの病床まで戻った。眠っているのを確認し、フィリスの枕元にプレゼントを置いて戻る。
 目が覚めたとき、フィリスはどんな顔をするだろうか。楽しみだ。
「フィリス、メリークリスマス……来年はきっといいクリスマスになるよ」
 そのフィリスは夢うつつの状態だった。目は閉じているが、瞼の裏側に赤や緑の電飾が躍っているように感じてどうしても睡眠は途切れがちだ。
 頭が風船になったかのような気がする。燃えるように熱い風船だ。
 そういえばさっき、出ていったはずの陽が戻ってきたような気がしたが、気のせいかもしれない。
 今は……眠るしかできないか……。
 ともかく眠らなくては。そうでないと治らない。アイツに逢えない。
 ――頼めるなら、サンタにアイツの家族との楽しいクリスマスを届けてもらおうかな。
 そんな思考が、瞬時フィリスの脳に浮かんで消えた。
 歌うように唇を動かす。
「皆……メリークリスマス、いい聖夜を……」
 掠れ声でも、声に出してみると心地良い響きだった。
 メリー、クリスマス。

 夕陽を浴びてメアリー・ノイジー(めありー・のいじー)の黒い影が、長く長く伸びていた。
 その顔には満面の笑みがたたえられている。もう、げっぷが出るくらい満面の。
 メアリーは両の腕にたっぷりの、買い物袋を提げていた。乱雑に突っ込んでいるから商品がこぼれ落ちそう。いや実際、メアリーが大腕を振るたびに、食品の箱、ソーセージの包み、そういったものが落ちている。
 構いやしない、落ちたって。
 だっていずれもタダ同然、ちょっとした詐欺で一儲けして、そのあぶく銭で買ったものだから。
 そういうわけなので、ごっちゃり買ったこの食料品、元々はないところから出てきたものだからさして大切ではない。そも、二人暮らしで消費しきれる量でもない。このまま持って帰っても、腐らせるのがオチなのだ。
 いつの間にメアリーはこんなに悪い子になったのだろう。
 実は、とあらたまって書くが、いまのメアリーはメアリーであってメアリーではない。
 呼ぶならグレゴリーと呼んでほしい。先日、ある事件があって、本来のメアリーはメアリーの体の主導権を、このグレゴリ−に奪われたのだ。この呪いのような現象が、いつ終わるのかは誰にも判らない。ただ、本当の『メアリー』のマスターたるニケ・ファインタック(にけ・ふぁいんたっく)が、これを終わらせる方法を探している事だけは確かだ。
 さてそれはそれとして、頬に浮かんだ狼の笑みを、うんと和らげてメアリー……いや、グレゴリーは、現在根城としている宿の戸を開けた。
「ただいま、マイシカ! 遅くなってごめんね」
 さっきまでギラギラしていた眼の光は穏やかなものに取って代わり、牙を剥いていた口から優しい言葉が漏れる。
 つい二秒前まで部屋の中央、ぺたんとお尻をつけて床に座っていた少女が、弾かれたように飛び上がった。
「おにいちゃん……! お、おかえりなさいっ」
 ほっとした。少女、つまりマイシカ・ヤーデルード(まいしか・やーでるーど)は本当に安堵した。三日三晩餌抜きにされていた番犬が、骨付き肉を与えられたようにグレゴリーにむしゃぶりついて抱きついた。
 マイシカは不安だったのだ。帰りの遅いグレゴリーのことが。誰よりも優しい兄の不在が。
 繰り返しになるかもしれないが、マイシカのことについても少々説明しておきたい。
 マイシカは行き倒れだった。グレゴリーの前に落ちていたオモチャ……まあ、血も肉も骨もある強化人間だが、グレゴリーにとっては同じようなものだ。彼女は貧家に生まれ、口減らしのため富豪に売られ、強化人間手術を施された上で言葉にできない、いや、したくないほどのあらゆる意味での虐待を受けて育った。そこから必死で逃げ出したはいいが、衰弱激しく倒れ、命の炎燃え尽きようとしていたところをグレゴリーに拾われたのだ。
 マイシカはグレゴリーを『兄』として慕っている。これは本当。
 グレゴリーはマイシカを『妹』として可愛がっている。これは、嘘。
 グレゴリーは、アカデミー賞級の演技で優しさを演じているだけだ。本心は、『懐かせて信頼させた後で裏切って捨てる』という、残酷な悦びを求めるために彼女を連れ歩いているにすぎない。いつか飽きたとき、さもなくば大切な記念日か何かに、これを実行するつもりだ。
 羊の皮をかぶったまま、グレゴリーはマイシカの髪をなでた。
 ――マイシカの涙には、気付かないふりをしておこう。
 この涙が、いつか自分に置いていかれるのでは……という不安、そして、また誰かに捕まって、奴隷のように扱われるのではないか……という恐怖に絞られて零したものだということを推測して、今、グレゴリーはゾクゾクするほどの快感を覚えているわけだが、もちろんそれは丁寧に隠している。
「待たせてしまったのには理由があるんだ。ほら、あれをごらん」
 窓の外、イルミンスールを見るようにグレゴリーは促した。
「あれって……?」
 素直に外を見る『妹』の横顔に『兄』は語りかける。
「マイシカ。あれが山じゃなくって、大きな木なんだって、ここに着いたときに教えたでしょう? あそこで、今日はパーティをやるんだって」
「ぱ、ぱーてぃ……?」
「そう。今から行くのさ。そのパーティに!」
 だからね、プレゼントだよ、とグレゴリーは買い物袋の中から、洋服の包みを引っ張り出した。言うまでもないことだけど、これも詐欺で得たお金で買ったもの。
 包みを受け取ったもののおどおどと上目遣いするマイシカを、安心させるべく柔らかく告げる。
「さあ、開けて開けて」
「うん……」
 まるでそこからナイフでも飛び出してくるかのように、おどおどしながらマイシカは袋を開けた。
 とても可愛らしい、赤と緑のワンピースがそこにあった。
「い、いいの?」
 もちろん、とグレゴリーは言った。
「マイシカの初めてのクリスマスだものね。とびっきり素敵にしなくっちゃ」
「さあさあさあ」
 グレゴリーは妹を、部屋に押し戻して笑った。
「僕は外にいるからさ。着替えて見せてよ。その服で着飾ったところを」
「ありがとうおにいちゃん……! ありがとう……!」
 マイシカは服を抱きしめた。
 ずしん。立て付けの悪いドアが閉まるとマイシカの眼からぽろぽろと、真珠のような涙がこぼれ落ちた。
 これは恥ずかしさと喜びの涙だ。さっきまでの、不安と恐怖からの涙とは違う。
 どうして兄を疑ってしまったりしたのか、それが恥ずかしい。
 そしてこの服……! なんて優しい『おにいちゃん』!
 痩せぎすの体だが、グレゴリーと放浪するようになってからマイシカは肉がついてきた。以前だったら、ワンピースの肩は両方ともずり落ちていただろう。
 一変したマイシカの姿に、グレゴリーは満足そうに頷いて手を差しだした。
「思った以上に似合うよ! 本当、可愛いな、僕のマイシカ。よし、出かけよう。聖なる夜を楽しみに」
 涙の跡をごまかすように、一生懸命マイシカは笑った。そして、兄の手を取った。
 マイシカは気づかなかった。このとき、グレゴリーの眼に一瞬だけ、ニタリとしたものが浮かんだことに。
 ――幸せだった方が、裏切られた時の落胆って大きいだろ?
 グレゴリーの心の声は、マイシカには当然、聞こえない。
 
 さて、困った。
 イルミンスールでのクリスマスパーティの招待状が届いたので、カレンダーの『24日』のところに大きく赤丸をつけて、どんな服を着ていくべきか、恋人と二人、頭を悩ませた。
 かくて当日、準備は昼から行った。二人とも、上品なパーティドレスに身を包み、薄化粧して互いをチェックし合う。
「本当によく似合ってる。百合園のご令嬢みたいよ……」
 うっとりとした口調でアデリーヌ・シャントルイユ(あでりーぬ・しゃんとるいゆ)が言えば、
「アディだって素敵よ。羨ましいくらい。肌は白いし、その服も可愛いし……」
 綾原 さゆみ(あやはら・さゆみ)もくすくすと微笑した。
 ここまで、二人が困ったのは当夜の服装のことだった。その問題は解決した。さゆみは白、アデリーヌはブルーのイブニングドレス。花飾りも完璧だ。
 ところが数十分後、二人はまた困ることになる。
 絶望的といっていいほどの方向音痴、それがさゆみだ。それが本日、いかんなく発揮された。
 アデリーヌも別に、道に詳しいわけではない。
 二人はイルミンスール付近で……遭難した。

「良かった。ご在宅でしたね」
 ドアを半ばまで開けたカーネリアン・パークス(かーねりあん・ぱーくす)は、緋桜 遙遠(ひざくら・ようえん)の姿を見て手を止めた。
 閉めたりはしないが、かといってさらに開けるということもない。
 いわば、野生動物が人間の姿を認めた瞬間に等しい。逃げるなら、いつでも逃げられるという構え。その上で、相手の出方を見るというポーズだ。
「行きませんか」
「断る」
「いやせめて、『何に』くらい聞いて下さいよ」
「クリスマスイブくらい知っている。今夜、イルミンスールでそのパーティがあるのも知っている。その荷物、パーティグッズの類であるのは想像がつく。その上ではっきり言うが、興味はない」
 押し入ってきたらいつでもドアを閉じる、とカーネは眼で語っていた。
 ところが遙遠も慣れたものだ。ドアに触れることすらせず返事した。
「ご名答。でも、今日お誘いに上がったのは、一緒にクリスマスを祝いたいからじゃないんです。そもそも、『クリスマス』っていうのが前面に出るとカーネは嫌がるだろうな……とは思っていました」
 するとカーネは、いくらか警戒を解いたような顔をした。
「だからたとえば、一緒に行くのが嫌なら、この部屋で夕食を共にしませんか? という話です。
 この荷物、カーネの予想は半分だけ正解ですね。グッズ的なものはあまりありませんよ。パーティセット的な惣菜、七面鳥、クリスマスケーキがメインです。つまり、お出かけが没なら、こちらでご飯を食べて話でもしようかと思った次第で」
「……先に言うが、別に自分は、『クリスマス』に嫌な思い出があるわけではない」
「えっ!? そうなんですか」
 にこにこしていれば相当な美人なのに、カーネはじろりと冷たい眼をした。
「人をトラウマの塊みたいに思ってないか? 特に好むではないが、嫌う理由もないだろう。興味がないだけだ」
「じゃあどうして、パーティ会場に行くのが嫌なんですか」
「あそこ(イルミンスール)には、いい思い出がない」
「あ……」
 遅まきながら遙遠も気づいた。そういえばカーネ、すなわちクランジΚ(カッパ)にとっては、イルミンスールは死闘の末に危うく死にかけただけの場所であって、楽しい場所でもなんでもないのだ。
「それでも……ほら、あれは図書室での話ですし、あの日があったから今があるわけで……。
 それに、正直に言いますと、やっぱり一緒に行きたいっていう気持ちはあります。願わくば……カーネにもこういうお祭り的な空気にも心地よさを感じられるようになってほしいというのがあるというか……まぁ……それは個人の感性ですし……過ぎた願いですね、そういうことはカーネ自身が感じて決めることですし」
「どっちなんだ貴様は。来てほしいのか、どうでもいいのか」
「それは……カーネに自分で決めてほしいと思います」
 カーネリアン・パークスは無言でドアを閉じてしまった。
 ふぅ、と遙遠は肩を落とした。
 仕方がない。食料品は、ここに置いて帰るとしよう。書き置きくらい残しておこうか。
 ところが、
「ほら」
 きっちり二分後、ドアが開いてカーネが出てきたのである。百合園女学院(そういえば、カーネはどういう手段を使ったのかここに潜り込んだのだ)の制服の上に、安っぽいノーブランドの黒いダウンコートを羽織っている。
「貴様の言うことも一理ある。浮かれはせんが人間観察でもするとしよう」
「……え?」
「行くと言ったのは貴様だろう」
「で、でも、イルミンにはいい思い出がない、って……」
「だが、あのとき貴様に借りができたのを思い出した」
 というそばからもうカーネは、つかつかと歩み始めている。脚の具合はもう、完治したようだ。
 どこまで天の邪鬼なのやら……という気もしないではないが、遙遠は微笑した。
「まぁ……カーネと一緒に過ごして楽しめればなによりです」