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魂の研究者・序章~それぞれの岐路~

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魂の研究者・序章~それぞれの岐路~

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 第36章 うさぎを前に

「えっ、うさぎ……?」
 掴んだカラーボールに書かれた、『うさぎ&ももいろわたげうさぎ』という文字にピノは驚かずにいられなかった。驚く、というより、動揺する、と言った方が近いだろうか。自覚できるレベルで、心臓が強く跳ねた。
「うさぎですか……」
 顔を強張らせたピノを見て、ザカコ・グーメル(ざかこ・ぐーめる)はこれからの試験に懸念を抱いた。いつもだったら、試験云々に関係なく、彼女はうさぎと触れ合えることを喜ぶだろう。だが、今日は彼女の周囲の空気までが一瞬固まったかのようだった。
「どうかしたのかの?」
「ああ、ええ……。アーデルさんは先日、空京で起きた事件を知っていますか? 自分もあの場に居合わせたのですが……」
 ピノからは会話が聞こえないであろう場所まで移動して、ザカコはアーデルハイト・ワルプルギス(あーでるはいと・わるぷるぎす)にデパート地下で起きた兎事件での出来事を説明した。犯人に対してピノが何をしてどんな感情を抱いたのか、兎達の死に、彼女がどれだけショックを受けていたのか。
 アーデルハイトは事件のあらましだけは報道を通して知っていた。その為、比較的短時間で話を終える。
「なるほどのお……。それで、『うさぎ』に過剰反応したのじゃな」
「あれからまだ数日しか経っていませんし、無理もないですが……うさぎを見ても平常心で居られるのか、その辺りが気掛かりですね」
 ピノからボールを受け取ったスタッフが、記録用のカメラを持って彼女達を案内する中をついていく。彼等が録画した映像――室内施設なら監視カメラに映った映像――の全てがエイダーに届き、最終的な合否が決められると聞いている。カメラはまだ回っていなかったが、スタッフも彼女の様子には気付いているだろう。それが今後の評価に影響する可能性も――
 否、そういう問題ではなく。
(ドルイドとなるからには、動物が怖がったり不安がったりするオーラを出してはいけませんよね……)
 本来、試験の場で非積極的な発言をするのは良いことではない。だが、やはり心配なのか事情を知るファーシーは「大丈夫?」と声を掛けずにはいられないようだし、ラスは「帰るか?」とピノの心情最優先の発言をしている。後から事件について聞いたのかフィアレフトも心配そうで、アクアと、そしてピノと一緒にいる日下部 千尋(くさかべ・ちひろ)だけが疑問符を頭に浮かべていた。
「どうしたのー? ピノちゃん!」
「ピノは、兎が嫌いなのですか?」
「ううん、好きだよ! 大好きだけど……大好きだから……」
 その後を続けられず、ピノは元気なく俯いてしまう。勿論、彼女は動物そのものを――うさぎを好んでいるだろうし、嫌ってはいないだろう。だが――
「ピノさん、あの時のことを忘れるのは難しいと思います。ですが、ここではあまり立ち返り過ぎないようにしてくださいね」
「……うん……」
 彼女に追いついてザカコが言うと、ピノは目線を下げたまま頷いた。消えた笑顔の代わりに見えるのは哀しみと不安、先ほどまでは感じていなかったであろう少しの緊張だった。『うさぎ』の文字を見て初めて、彼女は事件を思い出したわけではないだろう。それが頭の片隅に残っていても、今まではその時々を楽しめていた。表情が曇ってしまったのは、彼女自身、実際に兎に対した時にどんな状態になるのか想像できていないからだろう。
 素直に兎と1日を過ごせるのか、抵抗を覚えてしまうのか。
 そう考えているのが見て取れる。
 抵抗だけならまだしも、彼女の中にもし、犯人に向けた殺意のような物が残っているとしたら――本能的にうさぎはそれを察知し、逃げてしまうだろう。
「……ドルイドは、動物達が落ち着ける存在でいなければいけません。しっかりと、気持ちをコントロール出来そうですか?」
「わかんないけど……うさぎさんとは楽しく過ごしたいな」
 そう言うピノの顔に、やはり笑顔は戻らなかった。犯人に対して彼女が今どう思っているのか、推し測ることは出来ない。それでも、少なくとも害意のようなものは感じられなかった。杞憂だったかとザカコは少し安心する。
 前方で、白と薄桃色の丸っこい生物達が寛いでいるのが見えてきた。スタッフが立ち止まると共にピノも歩みを止める。少女はまだ、笑わなかった。

(うさぎさん……)
 ――ふわふわのうさぎ達が、陽光の下でのんびりと日向ぼっこをしている。真っ白くてすべすべで温かそうなうさぎの姿と、その毛を赤く汚して動かなくなった兎の姿が重なった。フロアのあちこちに倒れた兎達、足の裏の感触、耳障りな笑い声――あの時、1200と聞いた時の気持ちを思い出す。目の前のうさぎの耳が、ぴくりと動いた。視線が合うと同時、込み上げるものと共に目頭が熱くなる。
「…………施設から出ない範囲であれば、移動も可です。1日一緒に過ごす、というのが課題ですから。普段は施設内のうさぎ小屋で寝泊りしているので、小屋の掃除も……」
 薄い膜の向こうから話しているかのように、スタッフの説明がぼんやりと聞こえる。あの時、ファーシーから話を聞いて、それだけ人に被害を与えたのならやむを得ないのだと納得しかけていた。悲しいけど、仕方が無いのだと。それが、1200という数を聞いた瞬間に納得しきれないものになった。数の問題ではない筈なのに、感情は数に左右された。
 あの事件は、無駄な事件だった。1人の人間の個人事情に巻き込まれ、多くの人が傷つき、沢山の兎が死んでいった。それは、意味の無い負傷であり意味の無い死だ。その先に何の価値も見出せない、虚無の中の犠牲と恐怖だ。動物達がこれ以上“無意味な”死を迎えないように、ピノはこの試験に必ず通るのだと決意した。その為なら、何でもやる、と。
(何でも、やる……)
 先程のザカコの言葉を思い出す。それから、カメラを持ったスタッフを初めてまともに見上げた。カメラはもう回っている。今は、試験中だ。感情に引きずられてもいい時間ではない。感情に因って、もし、ドルイドの資格を得られなかったら。
 ビーストマスターになれたのだからそれで良い。その先に――更にその先にも、拘る必要なんてない。あの事件の後だったのだから、しょうがない。
 ――そう、自分を納得させられるのか。それで、折り合いをつけてしまえるのか。
(……そんなの、やだ)
 目に力を入れて、涙を引っ込める。足元に何か感触があって下を見ると、1羽のうさぎがピノのつま先に半身を乗せ、ブーツの紐をがじがじと齧っていた。
「わっ……、わあっ!?」
 慌ててしゃがみ、うさぎに両手をかける。前足の腋に付けた親指に力を入れて引き剥がそうとするもうさぎは離れず、ピノはバランスを崩して尻餅をついた。びっくり顔でつま先を見ると、うさぎはまだ紐を齧り続けていた。そのまま「…………」と見つめていると、ももいろわたげうさぎが近付いてきて目が合った。つぶらすぎる瞳がなんとなく「どうしたの?」と言っているように見えて、何をしたいわけでもなく手を伸ばす。触れた体は温かくて、柔らかくて、ずっと見ていると、おなかの部分がとくとくと規則的に動いているのが分かる。
 ……生きて、いる。
「かわいいだろ」
 それを見ていたカルキノスの声が、頭上から聞こえた。振り仰がなくても彼が笑っているのが分かって、そう思ったら、またちょっと涙が出た。
「うん……うん、かわいい。かわいいよ……!」
 伸ばした足を伝って、紐を齧っていたうさぎが胸元まで歩いてくる。わたげうさぎも、ピノに体をくっつけてくる。なぐさめてくれているのかもしれないし、甘えてくれているのかもしれないし、ただ単に寒くなって、体をあっためるのに手近な存在だったからかもしれない。
 その2羽を、力を入れすぎないようにしながら抱きしめる。同時に、脳裏にたくさんの白兎の姿が浮かんだ。それが何故か、狂い、命を失った後の兎達のような気がして、ピノは彼等に語りかけた。
 ――ごめんね、忘れたわけじゃないよ。悲しくなくなったわけじゃないよ。もう笑うの? 笑えるの? って思ったかな。でもあたしはもう、うさぎに嫌な思いはさせたくないから。
 幸せを感じてもらいたいから。
 この子達の前では、笑っていたいんだよ。
「今日はいっぱい遊ぼうね! うさぎさん!」

「……どうやら、答えが出たようじゃの」
 後方で見守っていたアーデルハイトが、安心したように頬を緩めた。ザカコも、うさぎが怯えるような事態にならずにほっとする。
「アーデルさんはこういった場合、どう判断しますか?」
「そうじゃな……一時的とはいえ元気がなかったのは気になるじゃろうが、それだけでマイナス評価はせんよ。今日のような試験の場合は、最終的に動物達とどのような関係を築けるかが鍵じゃからな」
 流石に、ずっと落ち込んだままだと問題じゃがな、と彼女は言った。今回はたまたま事情を知ることができたが、普通は何が原因かなど分かるわけもない。実際、後で映像を見る管理人はピノと先日の事件の繋がりには気付かないだろう。カメラスタッフに先程の話が聞こえていたとしたら伝えるかもしれないが、それが斟酌されるかといえば――
「また違うとも思うのう」
「そうですか……そうですよね。他には、どんな点に気をつけて見ていきますか?」
 ザカコがパラミタに来て、それなりに長い時間が経過した。そろそろ将来の事も考えていかないといけない時期であり、自分としては、イルミンスールにこのまま関わっていきたいとも思っている。だが、いつまでも依頼を受けて暮らすだけではいけないだろう。
 一応ドルイドの経験もあるし、とピノの手伝いをしに来たザカコだが、試験の場というのが今後の勉強になると思ったのも確かだ。彼は、イルミンスールで新しい生徒を育てていく、教師のような方面を目指そうかと少し思い始めていた。それも、ひとつの道かもしれないと。
 試験官側からの視点を教えて貰えれば、というのもアーデルハイトを誘った理由の1つだった。彼女だったら、どのように採点していくのだろうか。
「他には……ただ遊ぶだけではなく、世話というものを理解しているのか、世話が出来ても心を通じ合わせることが出来るか、など総合的に見る必要はあると思うのお。仲良くなれても世話が出来なければ難しいじゃろうな。その逆はもっと評価が難しいかもしれんが……あの子は、動物から好かれやすいタイプのようじゃな」
 2人の視線の先では、ピノと千尋がうさぎ達に朝ごはんをあげているところだった。ペレットの他、2人が出した新鮮なキャベツをうさぎは美味しそうに食べている。それを見ながら、アーデルハイトは冗談めかして最後に言った。
「まあ、起源について――ミスティルテイン騎士団やパラミタでドルイドと呼ばれていた者達についてやケルト神話について調べてくれば私が褒美をやってもいいがの。……あの子は、そういうのは苦手そうじゃのう……」