校長室
リアクション
* * * 「クク……イナンナにバァル、マルドゥーク、それにシャンバラ人どもか」 午後の日差しが差し込む室内で女神官アバドンがつぶやいた。窓の向こうからは、ぶつかり合う大勢の人間の怒声と剣げきが風に乗ってかすかにしている。小刻みに石床を震わせる深刻な破壊音と振動も届いていたが、彼女が危機感を感じている様子はまるで見えない。肘かけで頬杖をつき、神殿内に侵入した彼らの姿をめまぐるしく映す卓上の黒水晶を見やりながら、くつくつ笑っている。ゆるりとかざした手の下で応じるように黒水晶は輝き、映像をバァルたちのグループに固定すると、より鮮明に彼らの姿を映し出した。 彼らはイナンナとバァルを先頭に、イナンナの神殿である奥神殿目指して薄暗い回廊を走っている。 「ふん。思ったとおりだ。やはりマルドゥークがネルガル、そしてイナンナがきさまというわけだな、バァル」 とん、と爪で黒水晶の中のバァルを打ったとき。 ――ヤメテ、ヤメテ。 小さな赤い火花が頭の中で散った。 楽しい気分に水を差された気がして笑みが消える。 ――コレ以上バァル様ヲ、傷ツケナイデ…。 「ニンフ、またおまえか」 ぽつっとつぶやいたその声は、呆れを多大に含んでいた。 「こりもせず、うっとうしいやつだ。おとなしくひっこんでいろ」 ――アア…。 ため息のような悲鳴とともに、闇の中をまっさかさまに落ちていく意識が感じられた。 闇の深遠、暗い暗い淵。一片の光もぬくもりもない闇の牢獄。そこがおまえの居場所だ、ニンフ。そこにいて、もう二度と這い上がってこようなどと思うな。 アバドンはさっと黒水晶の上で手を振り、次に魔女モレクを映した。 どこともしれないレンガ製の床と壁。薄暗いそこに座を構えて、あいかわらず退屈そうに座っている。そしてその傍らにはセテカ・タイフォン――バァルの側近であり、互いを半身と呼ぶ男が立っていた。 「いまいましいバァルめ。ナハルのやつに追われるか、堕落していればよかったものを。ことごとく邪魔してくれたきさまのために、わざわざこの趣向をこらしてやったのだ。来るならさっさと来い」 まるで彼女が見ているのが分かったかのように、セテカがこちらを振り仰ぐ。バァルと同じ青灰色の瞳――しかしそれは冷たく無感動で、闇の気配を濃くまとわらせていた――それを見て、アバドンは込み上げる嗤いを抑えることができなかった。 そして今、この部屋には彼女のほかに3人の人間がいた。 1人はメニエス・レイン(めにえす・れいん)。その傍らには「東・西・南が総力を結して最終決戦に臨んできた今、戦力を自ら封じるのは得策ではない」という進言から、石化刑を一時的に解かれたミストラル・フォーセット(みすとらる・ふぉーせっと)が立っている。 はっきり言えば、意外だった。たしかに3国の襲撃は厄介だが、まだ追い詰められたというわけでもない。2つの巨大戦艦はモンスター軍団や闇の力によってその力を半ば以上失い、侵入されたとはいえ戦力はこちらが上だ。たとえ向こうに勢いがあろうとも、この程度であれば、指揮官であるバァルやマルドゥークを討ちさえすればいくらでもひっくり返すことはできる。 劣勢であるならともかく、そんな状態のときにまさかアバドンが応じるとは思ってもいなかったのだ。しかし彼女はふたつ返事でミストラルや九段 沙酉(くだん・さとり)たちを黒水晶を用いて解除した。まるで、どうでもいいことだと言わんばかりに。 そしてそれきり、彼女たちの存在すら忘れてしまったかのようだった。 黒水晶の上で振られるアバドンの手に、目を眇める。――気に入らない。何もかも。 「――ここで待機っていうのもそろそろ飽きてきたわね」 組んでいた腕をほどき、メニエスは壁から離れた。 「どこへ行くんです?」 ミストラルを伴い、扉に歩み寄る彼女に、ガーゴイルの上で片胡坐を組んだ東園寺 雄軒(とうえんじ・ゆうけん)が問うた。立てた足の方には痛々しく白布が巻かれている。 「退屈しなくてすむ場所へ。どうせあの女は、あたしたちがどこにいようと気にもかけないでしょうしね。それこそ何かの拍子にでも思い出さない限りは」 その思い出すときというのも、どうせ彼女の邪魔をしたときだけに違いない。 「あなたは?」 部屋を出る間際、ちらと肩越しに振り返る。雄軒は肩をすくめた。 「私はこの足ですから。おとなしくここで待機していますよ。彼女が思い出すまでね」 * * * 「あー、ヤダヤダ。ほんと、ひどい湿気ー」 じたばたじたばた。足を振り上げる。 地下水路、源泉へと続くトンネルの設けられたフロアで、モレクはすっかりくさっていた。 神殿内のあらゆる場所へ豊かな水を送り込むこの場所は、絶えず大量の水が流れている。汚染を防ぐため、窓のようなものはなく、せいぜい小さな通気口が天井近くに数箇所あるのみだ。同じく採光用の窓も、あることはあるが小さくて、壁に電灯が設置されていなければ真っ暗だっただろう。その電灯をつけた今ですら、どことなく薄暗いのだから。 「辛気臭いったらありゃしない。なーんで僕がこんな所で待機してなくちゃいけないのサ。アバドン様のご命令でもなきゃ、やってられないよ。まったく」 ずるずると背凭れに沿って背中をすべらせる。肘かけに胸を押しつけ、だらーんとさせた両手をぶらぶらしていたら、視界にセテカの姿が入った。 北カナンの神官戦士の武具をまとい、腰のバスタードソードに軽く手を添えた彼は、壁にたてかけられたイナンナの石版を見上げていた。 重厚な石版は、石版というよりも巨大な瓦礫に見えた。宮殿かどこかの壁飾りをくり抜き、そのまま運んできたかのようだ。中央にあるのは女性の前半身――立体的なそれは、まるで今この瞬間にも冷たい石の世界からこの現実世界へ踏み出してきそうなほど、細部まで細かく彫り出されている。これが何なのか……そして彼女が何者なのか、知らなければ、これを作り上げた者を稀代の天才と褒め称えたことだろう。 これが、この国の国家神である女神イナンナの姿とは。 石の中のイナンナはまるで世界中の男が夢に描くほど比類なき美しさの持ち主だったが、しかし同時に無残でもあった。 だれに手を入れられることもなく、長い間ここに放置されていたのだろう、石版はすっかり緑や茶色に苔むして、触れることもためらわれるほど汚れきっていた。処々のくぼみでは結露がたまり、流水路に近い下の方などは特に藻類の発生がひどい。 見る者の哀れを誘う姿だが、しかしそれを見つめるセテカの目はどこまでも冷静で、面には何の感情も浮かんではいなかった。 「――前領主夫妻を殺害したのは、やはりおまえたちだったんだな」 つぶやく。その声は平坦で、特に大きくもなかったが、しんと静まり返ったフロア内を反響し、まるですぐ隣で聞いたようにはっきりとモレクの耳へと届いた。 「なんだ、ようやく気づいたの?」 頭を上げ、視線を合わせる。 「領主夫妻を殺害したおまえたちはさらに野心家のナハル・ハダドをたきつけ、バァルに対抗させることで東カナンに内乱を起こそうとした。それに失敗すると、今度はネルガルの下につけたバァルをさらに『アバドン』で骨抜きにしようとした。 なぜ東カナンにそこまで?」 「東だけじゃない。西も南もずっとそうだった。ただ気づかなかっただけでね」 ひらひらと、まとわりつくハエでも追い払うようにモレクは手を振った。 「――南カナン前領主の早すぎる死も、あるいはおまえたちの干渉によるものだということか」 「ふふ……どうかな。僕はそのころまだ封印されていたから、詳しくは知らない。興味もないしね。 でも、なんでそんなことを?」 おまえには関係ないじゃん、と探るようなモレクの視線を拒絶するかのように、再び背を向ける。 「不明にして、自分がこうなるまで気づけなかった。 北カナンだとか、その属国だとか、おまえたちには全く関係なかったんだ。ただこのカナンの地に、より大きな混乱をもたらしたかっただけで、それが北だろうと東だろうと、南や西でも、どこでもよかった。ネルガルは、その過程で見つかった最適の道具だったというだけだ」 北カナンで神官長という権威ある立場でいながら、身からあふれそうなほどの野望と不満を抱え持っていた。イナンナの信頼を得ている存在というのも好都合だった。だからそこにつけ込み、増幅させ、たがをはずさせた。 「へーえ。ずっと黙っていたと思ったら、そんなこと考えてたの、キミ。まだ東カナンに気が残ってるんだ?」 頬杖をつき、面白そうに片眉を上げる。そんな彼をちらと肩越しに見て、セテカはふうと小さく息を吐くとそちらに向かって歩を進めた。 「当然だろう。そうでなければとうにこの胸から黒矢が出て、俺は死んでいる」 王座と言うべき豪奢な赤張りの椅子に、自堕落な格好で掛けているモレクを見下ろす。――斬ろうと思えば斬れる距離だった。モレクの怠惰な姿勢はとっさの動きに対応できるとは思えず、武具らしき物は何ひとつまとってはいない。彼を警戒している様子もない…。 セテカは腰の剣鞘に添えていた手を、だらりと下ろした。 「それに、だからこそおまえは俺をこうしてそばに置いているんだろう?」 「そうだよ。キミは自ら選んでこっちにいるんだ。闇に染まりきってもいないくせにね」 もっとも、もうほとんどその心は闇に染まってしまっているようだけど。 あらためて、横についたセテカを見上げる。完成間際の彼は本当に美しいと、つくづく思った。まるで純粋な闇の生き物が誕生する瞬間を見ているような錯覚すら起きる。羽化した瞬間、破滅する闇の獣…。 おそらくはあとひと押し。それでこいつは堕落する。 「これ、ほしい?」 ひらりと右手が空でひるがえる。開いた指の間には、透明な小瓶が挟まっていた。 「キミを以前のキミに戻す薬だよ。これがなければキミは多分、明日までも生きていられないだろうね。 ねぇ、ゲームをしようよ。このフロアに最初に踏み込んだ人間をキミが殺すことができたらこれをあげる、っていうのはどう?」 「――了解した」 応じるセテカの声も表情も、先までと変わらず平坦で、無感情だ。提案の意味が分からないはずはないのに、それをすることに対し、わずかの動揺も、ためらいも見せない。 彼が了承した瞬間、小瓶は光に包まれ、モレクの手を離れた。ふわふわと宙に浮いている。 「ルール成立。これにより、ゲームが終了するまでこの薬はもうだれにも手が触れられなくなった。僕にも、キミにも、彼らにもね。 ああ、楽しみだな」 ちゃぷちゃぷと小瓶の中で揺れている治療薬を見ながら、モレクはその瞬間の訪れを待ち侘びて、くつくつと嗤った。 |
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