イルミンスール魔法学校へ

シャンバラ教導団

校長室

百合園女学院へ

月夜に咲くは赤い花!?

リアクション公開中!

月夜に咲くは赤い花!?
月夜に咲くは赤い花!? 月夜に咲くは赤い花!?

リアクション


『真実・下』

 遠野 歌菜が中央階段を下りて行くと、ロビーにはもう、ガラスケースを中心にした黒山の人だかりができていた。
「宿泊客だけじゃなく、生徒たちも結構集まってるな」
 歌菜の隣を歩く月崎 羽純が、どこか緊張した声で言う。
 はかなげな黒い眼差しは、ひとだかりの向こうにある防弾ガラスケース、その中に納まった、血色のルビーに注がれている。
「まあ、当然っちゃ当然か……あれが、今回の事件の中心なんだものな」
「そ……だね」
 階段を降り切り、羽純と共に人だかりに混ざりながら、歌菜はぼんやりと頷いた。
「……どうした? 気分でも悪いのか?」
「……ううん、そうじゃないの。ただ……指輪、取り返されちゃったかぁ、って思って」
 ため息ひとつついてから、歌菜は言葉を続けた。
「見届けたかったんだ、私。……大切な人を永久に失ったミラさんがさ、あの指輪で何をするのか。あの指輪で……どんな答えを出すのか。ちゃんと……見届けてみたかったんだ……」
 羽純は、まるで巣から落ちたひな鳥を見るような、優しく、けれど痛みをはらんだ眼差しで、歌菜を見た。うつむき気味の歌菜の頭に、羽純はそっと触れる。
「……そんなもん見届けなくたって、歌菜は歌菜の力で答えを出せるさ」
「ん……ありがと」
 沈んだ声はそのままに、歌菜は一度だけ頷いた。
『――お集まりの皆様、お待たせいたしました。これより、赤い糸の契りを行います』
 拡声器越しに、オーナーの割れた声が響き渡った。
 ロビーに集まった宿泊客が、一斉に拍手する。対照的に、集まった生徒たちからの拍手はまばらだった。
 オーナーは、拍手が鳴りやむまで待って、言葉を続けた。
『ですが、その儀式の前に……ひとつ、心に留めておいていただきたい話があるのです』
「――さあて、吉と出るか、凶と出るか」
 歌菜のすぐ近くで、千代が面白そうにつぶやいた。
『正直に申し上げますと、このブラッドルビーのピンキーリングは、本日、一度盗まれました』
 ロビーがざわめいた。
 ざわめいていないのは、事件にかかわっていた生徒たちだけだ。
『犯人は、ミラ・カーミラという女性です。彼女は、私の義理の姉……つまり、前のオーナーの妻でした』
「おいおい、ンなこと話していいのかぁ? あんた悪役だろ、オーナー」
 歌菜の正面、ひとだかりの中で、霞憐がどこか愉快そうに言う。
『このブラッドルビーはもともと、前のオーナーがミラのために作り上げたものでした。「私はいつでも君を見守っているよ」という、死してなおミラを愛するための、前のオーナーのメッセージでした』
「ふんだ。お涙ちょうだいしようったってそうはいかないよ!」
 歌菜の左隣で、ミルディアが腕を組み、憤然と言った。
『ではなぜ、この指輪を私が保管しているのかと、皆さんは御思いでしょう。その疑問を、今宵は解決させようと思います。あの忌まわしい事件からちょうど一年。今宵こそ、この指輪のすべての謎を、白日ならぬ月光の下にさらす時なのです』
「カップルをイチャイチャさせるだけのイベントに見えても、実は深い逸話があるのかぁ……。一人者としては、なんだか無意味に救われた気分」
 正悟が、どこかむなしげにため息をついた。
『……ミラを愛し、ミラのためにブラッドルビーを作り上げ、そして早すぎた死を迎えた前オーナー……。そんな前オーナーは、ミラのことを誰より愛していたけれど、ミラのことを完全に理解しきれてはいなかったんです。なぜなら前オーナーは、ミラがどれほど前オーナーを愛していたか、わかっていなかった』
 こつん、とオーナーがガラスケースを小突いた音が、拡声器に拾われ、ロビーに響いた。
『ミラと前オーナーは、契約を交わしていました。皆さんも御存じの通り、契約者の片割れが死ねば、もう片割れは心身にダメージを受ける。……けれど、前オーナーを失った時のミラの苦しみ様は、尋常ではありませんでした。この世の終わりのように泣き、両眼からは涙の代わりに血が流れていました。艶やかな黒髪は真っ白く変わり、食べものどころか水も受け付けない状態でした。……もし、ミラがもっと生命力の弱い種族であったなら、きっと私が駆け付ける前に命を落としていたでしょう』
 ロビーのざわめきの中に、すすり泣きが混じり始めていた。
 歌菜はただ、まっすぐに、拡声器を持ったオーナーを見据えていた。
『何日経っても、ミラは回復しませんでした。それどころか、まるで自ら死を選ぼうとするように、水一滴血液一滴すら口にはしませんでした。……それを見かねた私は、ミラに一つの嘘をつきました。本来、決してついてはいけない嘘です。もしかしたら、ミラはあのまま死んでいた方が幸せだったのかも知れません。……けれど私はどうしても、彼女に死んでほしくなかった。苦しみの中にでも、生きていてほしいと願ってしまった』
「オーナーめが。つまらぬことを抜かしおって」
 歌菜の後方、中央階段の上からロビーを睥睨しつつ、アンドラスが地獄の底から響くような唸り声で言った。
「真実を知らせずにおれば、無償の善意でもってミラを殺す、滑稽な生徒たちの姿が見られたものを!」
『私はミラに嘘をつきました。「前オーナーはまだ生きている。今は、ちょっと長い旅に出ているだけだ。きっと帰って来る」と。それから、ミラは驚くほどの回復を見せ始めました。その嘘をついて一週間後には「夫がいつ帰ってきてもいいように」と言って、止めるのも聞かずに玄関の掃き掃除を始めるほどに』
「ねえコハク。もし、もしだよ? もし私がコハクの知らないところで死んだりしたら……」
「そんなもしもの話、考えたくない」
 コハクは、美羽のスカートのすそを力いっぱい握りしめた。
『私は、ミラのそんな様子に、安堵と共に恐れを感じていました。もし、ミラが何らかの方法で前オーナーの死を確信したら……その時こそ、ミラは死んでしまうのではないだろうか……と。そして、ミラが前オーナーの死を確信するために機能する道具は、あつらえたようにミラのすぐ近くに存在していました。ブラッドルビーです』
「因果だの……。失えば狂ってしまうほどに、誰かを必要とする気持ち……。わかるからこそ、なお辛いわ」
 玉藻が、血を吐くように呟く。
 刀真は、小さくかぶりを振った。
「もし万が一俺が死んでも、玉藻は狂わないで下さいよ。俺の死で玉藻が狂うなら、忘れてもらった方が、ずっといい」
「……そんな万が一、考えさせるでない。馬鹿者……」
『前オーナーがミラのことを想って作り上げたブラッドルビーは、皮肉にも、ミラを死に導く毒となってしまったのです。私は、ミラから必死に指輪を隠しました。指輪を商売道具にしたのもそのためです。この指輪が有名になれば「人々の目」が、ミラの手から指輪を守護する役割を果たすだろうと踏んでのことでした』
「だれ一人として、悪意で動いてはいない……か。こんな事情の前では、善悪の談議などむなしいばかりだ」
 朔が呟いた。
「……問題は、正しいか間違ってるかじゃない。それをした結果、どのくらいの人が幸せになれるかだよ」
 カリンは、オーナーを見据えたまま言った。
「……カリンは、なんというか、視野が広いな」
「朔ッチは視野が狭いよ、……時々、見ていて泣きたくなっちゃうくらいに」
「……そうだな。そうかも知れない」
『私の狙い通り指輪は有名になり、たくさんのお金が手に入りました。私はそのお金を使って、特注の防弾ガラスケースに指輪を収め、過剰なほどの人数の、腕に覚えのあるスタッフたちを、警備員として雇い入れました』
「……好奇心を満たすために」
 ハーレックは、じっとオーナーの言葉に耳を傾けつつ、傍らの千代に向かって言った。
「好奇心を満たすために、この事件にかかわった私を、あなたは軽率だと思いますか?」
 千代は「ふふ」と鼻で笑って、かぶりを振った。
「いいや。たとえば戦場のようなどうしようもない地獄の釜底で、本当に誰かを救えるのは……聖人や勇者や悪人じゃない、君みたいなヤツだ。……私は、そう思うね」
「そうですか」
『ミラを指輪に触れさせないようにし、ミラがオーナーの死を確信しないようにして、ゆっくりと、ゆっくりと、ミラの心を癒していこうと私は考えていました。そして、本当の意味でミラが回復した時に、指輪をミラに渡し、すべての嘘を詫びようと。……ですが、ミラは真の意味での回復を待たずして、姿を消しました』
「……リカ、どうした。さっきから黙っているが」
 キューが、腕を組んで目を閉じたリカインの方を横目で覗いながら言った。
「……リカ。どんな理由があろうと、ミラは指輪を盗んだ。その行為は止められるべきものだ。それに、言い訳じみているが、リカはこの事情を知らなかった。……だから、リカがミラを止めようとしたことに、間違いは……」
「黙ってよ、キュー」
 リカインは、鋭い流し目でキューを睨んだ。
「言われなくたってね、私は自分で選んだ行動に、後悔なんか絶対しないわ」
 キューは一瞬キョトンとしたが、すぐに、娘を見る父親のような笑顔を浮かべた。
「……ああ、そうだな。すまない。すこしばかり、リカを侮っていたようだ」
「全くよ」
『それから一年後の今日、ミラはこの館に帰ってきました。以前よりもずっと、心の傷を深くして、指輪の噂を聞きつけ、ただそれだけにすがって。……今のミラがあの指輪を使ったら、今のミラが、前オーナーの死を確信したならば、ミラは今度こそ死ぬでしょう』
「オーナーさんに協力していた人たちが言ってたのって……このこと、なんですね」
 みらびが呟くように言った。
『運よく、私はミラの手から指輪を取り返すことができました。ですが、今のミラの前には、防弾ガラスも警備員も無意味です。ですから、私はあえて皆さんに、このお話をしました。皆さん、どうかお願いです。もし、ミラが今再びこの指輪を取り返しにやってきたときは……皆さんにも、彼女を止めるための力を貸してほしいのです』
 ロビーがざわめきに包まれた。
 困惑したようなそのざわめきのほとんどは、集まった生徒たちによるものだった。
「……羽純くん」
 ぽつりと、歌菜がつぶやくように言った。
「……大切な人がいなくなったことから目を背けて、そうやって生きていくのは、幸せなことなのかな?」
 問われて、羽純はうつむいた。
「……そうすることで、傷つかないで済むことも、あるかも知れないな」
「……私は、それを正解だとは……思いたくないな」
『長々とお話に付き合っていただき、ありがとうございました。今の言葉は、私の懺悔でもあります。この指輪を、作り手の意図とも、真の持ち主の意図とも違う用途に用いて、数限りない人を欺いてきた私の』
 オーナーは、深く一礼した。
『そろそろ、満月の光が満ちてくる頃です。……今宵の赤い糸の契りを最後に、私は、この指輪を封印してしまうつもりです。月楼館最後の赤い糸の契りを、どうか、心行くまでお楽しみください』

 ※

 もはや吹き抜けになった天窓から、硝子色の月光が柱のように降る。
 月の光を受けた血色のルビーは、みるみるその赤色を増し、周囲に光を拡散させていく。
 ガラスケースの中を真っ赤に染め上げ、やがて洪水のように光がケースの外へとあふれだした。
 硝子色の光の柱を押し返して。血色の輝きが、ロビーいっぱいに充ち溢れる。
 ロビーにいた人々が、赤い光に包まれる。すると、じわじわと左手の小指から、細い光の糸があぶり出しのように浮かび上がってくるのだった。
「……っ」
 歌菜は小さくうめいて、ギュッと左手を握りしめ、さらに右手で包み込んだ。
 赤い光を恐れるように、きつくきつく、目を閉じる。
「……」
 羽純は、右手で歌菜の頭に優しく触れた。
「おお……これは……!」
 真っ赤な光に満たされたロビーで、宿泊客たちが感嘆の声を上げはじめる。
 ――その時だった。
「理由は子細、聴き届けさせてもろうた!」
 朗々とした声が、赤い光の満ちるロビーに響き渡った。
 ロビーにいた人々が、声のしたほうを振り返る。
 中央階段の一番上、二階のダンスホール前に、白い影が立っていた。
 狐を模した白い仮面で顔を隠し、白装束を身にまとったその人物は、まるで炎を背負っているかのように、目の覚めるような赤髪を夜風になびかせていた。
「オーナー、お主の理由も理解はできる。だが、それではあまりに独りよがりではないか! 亡くした夫の幻影を追うも追わぬも、自ら死を選ぶか否かも、すべてはミラがミラの意思で決め、立ち向かうのが筋と言うもの!」
「――とうっ!」
 三階の天窓からもうひとり、炎のように赤いマントをなびかせて、くろがねの鎧に身を包んだ人物が飛び降りてきた。
 くろがねの鎧の男は、白狐面の女の隣に着地すると、すっくと背筋を伸ばして立ち上がった。
「俺たちは、生きる気持ちの強さを信じている!」
 男が朗々と張り上げた声に、女が続く。
「わらわたちは、誰かを想う気持ちの強さを信じている!」
 男と女は、鮮やかにシンクロしながら、同時に階下のオーナーを指さした。
『たとえ優しさから出た行為でも、人の生き筋を横から妨げると言うのなら』
「この、白狐面イナリと!」
「ケンリュウガーが!」
『全力をもって阻止させてもらう!』
 だんっ、と同時に踏み切って、イナリこと迦具土 赫乃(かぐつち・あかの)とケンリュウガーこと武神 牙竜(たけがみ・がりゅう)は、赤い光の満ちるロビーへ飛び込んだ。

 ※

「あっちゃあ……完全に先越されたよ、これ……」
 夜空の下の屋上、割れた天窓の淵に立ち、茅野 菫(ちの・すみれ)はロビーを見下ろしていた。
 冷たい夜風に、夜闇に紛れるゴシックロリータの衣装が揺れている。
「いまさらこれ投げても、絶対気付かれないね……」
 菫は、トランプに書かれた予告状【今宵、片思いのブラッドルビーを頂戴します。怪盗イエロースマイル】を、そっと懐にしまった。
 代わりに、光精の指輪をきゅっと指にはめる。
「まあ、いいや。オトリにしちゃあ、あの二人、トランプよりは優秀だろうし」
 無垢な童顔に似合わぬ、計算高い笑顔を浮かべて、菫は眼鏡越しの冷たい微笑をロビーに落とした。
「せいぜい踊ってくれよ。ふふ」

 ※

 イナリとケンリュウガーの突撃により、ロビーには悲鳴が上がり始めた。
 逃げ惑う宿泊客たちと、それぞれの行動に出る生徒たち。
 うねる人の波に押され、流されもみくちゃにされ、
「きゃわっ!?」
 志方 綾乃(しかた・あやの)は、溺れた人のようにガラスケースにしがみついた。
 頑丈なガラスケースの上によじ登って、周囲を流れていく人々の濁流をやりすごす。
「やれやれ、とんだ騒ぎになってしまいましたね」
 ガラスケースの上で長身を縮こまらせながら、綾乃はふと頭上を仰いだ。
 天窓の淵に見える黒い影が、身ぶりで綾乃に意志を伝えてくる。
「はあなるほど、ふむふむ」
 こくこくと一人頷く綾乃を、濁流と化した人々は誰ひとり気にも留めなかった。
「うーん、わかりました。作戦にアクシデントは付き物ですもんね……」
 綾乃は天窓に向かって大きく手を振った。
 今度は視線を下へ、自分のお尻の下で輝く、ブラッドルビーに目をやる。
「だいぶミッション難易度が上がりましたけど……まあ、志方ないですね」

 ※

「まったく……おちおち休憩もしてらんないか」
 荒れ狂う人の濁流を潜り抜け、ガラスケースへと駆け寄るイナリとケンリュウガーを見据えながら、千代は立ち上がった。
「怪我は平気なんですか?」
 平然と聞くハーレックに、千代はかぶりを振った。
「いいや。利き手は使えそうにないね。……でもま、一度引き受けた仕事だ、手ぇ抜くわけにもいかないだろ?」
「そうですか」
 拳を固め、走り出そうとした千代を、
「手負いだろ? 休んでいろよ。ここは俺たちが止める!」
 優と零が制した。
「今のオーナーの話を聞いてなお敵に回るって言うなら、もう容赦するつもりはないわ!」
 零は叫ぶように言って、ホーリーメイスを抜き放つ。
「誰かを求めてさ迷ったことも、やっと探していた人に出会えた喜びも、よく知らないくせに……何が、自ら死を選ぶのも選択よ!」
 駆けてきたイナリめがけて、零はホーリーメイスを一閃させた。
 イナリはその一撃を飛び退って避け、エンシャントワンドを構える。
「真に大切な人と巡り会うた経験なら、わらわにもあるわ! じゃからこそ、人を好きになるのも嫌うのも、追いかけるのも諦めるのも、自らの意志で選ぶべきじゃろうが!」
「その結果、自分の命を諦めるのも選択ってわけ!? それこそ、その人を想っているすべての他人に対する不義理じゃない!」
「ミラは死など選ばん! おぬしらは他人の意志を軽く見過ぎじゃ!」
 イナリのエンシャントワンドから炎が迸る。
 零はメイスの一閃で紅蓮の炎を吹き散らし、イナリの懐へと飛び込んだ。

 ※

 月のように澄み切った軌跡を残し、優の刀が一閃した。
「ぬおっ!?」
 ケンリュウガーは鋭い一撃を、太刀筋を逸らして何とか受け止め、優から大きく距離を取る。
「やるじゃねえか、てめェ。何もんだ?」
「神薙流現継承者、神崎優」
 鞘に戻した刀の柄に手を添えながら、優が静かに言った。
「神薙流か。おもしれぇ。正義の味方ケンリュウガーの相手にとって、不足なしだ!」
「……この場に、正義の味方なぞいない」
「あん?」
 構えを作ったケンリュウガーを冷ややかに見据え、優は静かな声でつづけた。
「俺はミラを追いながら、いろいろな生徒達の行動を目にしてきた。ミラを想い、捕えようとする者。ミラを想い、守る者。ミラ以外の誰かを想い、行動する者。自らの使命感のために、行動する者。誰ひとり、間違っていると言える者などいなかった」
 きんっ、と音を立てて、優は刀に手をかけた。
「世の中は、人間は、善悪の表裏などでは測れない。正義の味方も、悪の軍団も、それはだれかの視点から見た決めつけでしかない」
「……ハッ」
 ケンリュウガーは構えを崩し、鋭く笑った。
「イデオロギーの話なんざァ聞き飽きた。正義の味方が矛盾だらけなのも重々承知の上だ。だがな、たとえ矛盾だらけでも、誰かが「正義の味方だ」と吠えなけりゃ……」
 再び拳をきつく固め、ケンリュウガーは全身に力をみなぎらせて、
「戦う力を持たねえ連中が、すがりつくもんがなくなっちまうだろうがッ!」
 優に向かって突撃した。

 ※

「してこの騒ぎ、いかにして過ごすつもりかの。刀真」
 もみ合う人々の渦から外れた、ロビーの壁際で、玉藻がどこか楽しげに言った。
 刀真は壁に背を預け、じっと、赤い瞳で人々の流れを見据えている。
「刀真、お主は最初に言うたであろ? 指輪の示す光によって、ミラに前オーナーの死を認識させると。その推論は図らずも大当たりしていたというわけよの。ただ、その結果ミラが死ぬかも知れんと言う一点をのぞいては」
 夜色の瞳を細めて、どこか加虐的な笑みを浮かべながら、玉藻が静かに言う。
「その事実を知ったうえで、お主はどうする。我は刀真の決めた方に従おうではないか」
 刀真は人のうねりから目を離し、わずかにうつむいた。
「……ずいぶんと、責めるようなことを言うのですね」
 どこか悲しげに、刀真は言った。
 玉藻の鋭い瞳に、ふと、柔らかさが戻る。
「……刀真。人を救うということは、責任を負うということと同義よ。剣を振るうてその場だけ命を救うのは、打ち捨てられた子猫に一度きりミルクをやるようなものよ。その後に責任は持てぬ、一種身勝手ともいえよう」
 玉藻はくるりと身をひるがえして、刀真の前に立った。
「刀真よ、よいか。オーナーから真実を知ったとて、それを知る前と今と、状況は何も変わっておらぬ。その場限り人を救うということは、それだけの責任が生ずると言うことよ。オーナーの言葉は、ただその責任を「ミラの死」と言う形で明確化させたに過ぎぬ」
 夜色の瞳が、刀真の真紅の瞳を、まっすぐに覗きこむ。
「刀真よ。人のために剣を振るう覚悟があるならば、たとえその帰結に危機が見えたとて、容易に一度決めたことを覆したりなどできぬはずよ。でなければ、人のために剣を振るう資格などありはせん。……のう、刀真よ。我は契約者として、お主の器を問うておるのだ」
 どこか力を失っていた刀真の瞳に、真剣な光がさした。
 俯き気味の顔を上げ、刀真も真摯に玉藻を見つめ返す。
「……指輪を取り返し、ミラに渡します。ミラが自分の全霊を賭けて、指輪にすがった末の結末を求めているのなら……一度この刃を貸した以上、最後まで付き合う義務がある!」
「よう言うた! それでこそ、我の刀真と言うものよ!」
 玉藻はばさりと金色の九尾を出現させ、尾先に青白い炎を灯した。
「玉藻の俺……ですか……?」
「ああ。当たり前であろ?」
 玉藻はくるりと刀真に向きなおり、背伸びして、その耳元に口を寄せた。
「偶然とは言え我の封印を解いたことにも、相応の責任が生じておると言うことよ。……ゆめ、裏切るでないぞ? 我の刀真よ」
 囁くように言って、玉藻はクスリと妖艶に笑った。

 ※

 キラキラと光の粒子を降らせつつ、天窓から小さな妖精がおりてきた。
 綾乃はいまだ人の波に囲まれたガラスケースの上で、すっと人差し指を立てた。
 小さな妖精は、まるで枝先にとまるとんぼのように、綾乃の指に着地する。
「……あと五秒」
 綾乃は、用意してきた遮光サングラスをかけながら、呟く。
 綾乃の指の上で、妖精はみるみるとその輝きを増してゆき……、
「――ショータイム」
 綾乃の言葉を合図にするように、大量の光を放出しながら破裂した。
「何だ!?」
「きゃあっ!?」
「おい、なにも見えないぞ!?」
 瞬間的に発生した閃光が、ガラスケースの周囲にいた人々の視界を奪う。
 さらに、閃光の被害を免れた人々も、
「なんだ!? 向こうでなにかあったぞ!」
 綾乃のいるあたりに注目し始めた。
 綾乃は大きく息を吸い込み、
「――……あれっ! あれはいったい何!?」
 あらん限りの声で叫んで、天窓の方を指さした。
 ゴスロリスタイルに身を包んだ菫が、月をバックに箒にまたがり、さながら魔女のようにロビーの人々を見下ろした。
 閃光と菫効果で、人々の流れが完全に止まったすきを見計らい、綾乃がガラスケースから飛び降りる。あらかじめ上に乗りながら調べておいた鍵穴を、ピッキングでこじ開け、中から指輪を取りっ出すや、ポケットに突っ込んだ。
 そして再び息を吸い込み、
「ゆっ、指輪がなくなってる!? あの魔女の仕業ですよっ!」
 声を限りに叫んだ。
 ロビーの人々が、一斉に菫を見上げる。
「刀真! 逃がすでないぞ!」
 地上から発射された青白い炎が、菫に迫った。
 けれど菫は枝葉を避けるツバメの如く、迫りくる攻撃を巧みな箒さばきですいすいと避け、ついでに綾乃に向かってこっそりウインクまでして見せた。
 綾乃も軽くウインクを返して、そっとガラスケースから離れた。
 長身をなるたけ縮め、目立たないようにこそこそと、正面玄関を目指して人ごみを抜けていく。
「朔ッチ! 挟み撃ちするよ!」
「ああ!」
 空に向かって、二条の赤い光が閃いた。
 思わず振り返った綾乃はひやりとしたが、菫は眼鏡の奥で軽薄に笑いながら、軽々とそれらをかいくぐっていく。
 綾乃はふるふるとかぶりを振って、それきり一度も振り返らないまま、正面玄関を目指した。
「……逃げるのは、菫ちゃんが十分皆を引きつけてから」
 正面玄関に到達した綾乃は、そこでいったん足を止め、呼吸を整えながら菫を見上げた。
 ロビーの人々をからかうような低空飛行を続けていた菫は、正面玄関に到達した綾乃に目をやるや、魔法も届かないほど高くへと舞い上がり始めた。
 菫の撤退にあわせて、綾乃も、そっと正面玄関の扉を開けて……、
「――見てたよ、指輪盗むとこ」
 突如振われたハルバードの鈍く光る刃を、綾乃は転がってかわした。
「いい反応してるねっ!」
「誰です!?」
 十分距離をとってから立ちあがった綾乃の鼻先に、ハルバードの穂先が突き付けられた。
 自分の背丈をはるかに超える長柄の得物を両手で構え、ミルディアが不敵に笑う。
「ミルディアちゃんだよ。久しぶり、綾乃さん」
「……あらあら、これは、どうも」
 綾乃もぎこちなく笑い返しながら、そろりと一歩、後ずさった。
 ミルディアがすぐに一歩詰めてきて、また綾乃の鼻先に刃が突き付けられる。
「えーっと……」
 きょろきょろと、横目で退路を探りながら、綾乃が苦し紛れに声を絞り出した。
「ミルディアさんは、さっきの話を聞いても、ミラさん側についたんですね?」
「まーね」
 横に逃げようとして綾乃が足を動かすと、ハルバードの刃がそろりと動いて追いかけてきた。
「あたしは、あんまし難しい心の機微は分かんないし、大切な人を失った経験もないけどさ。……でも、指輪を手にして、前のオーナーさんが亡くなった事実を知って、そのうえでどうするかを決めるのは、ミラさんしかいないと思うから」
 綾乃から視線をそらさないまま、ミルディアは言った。
「たとえば、何かのスポーツでどこかのチームと試合をした時にさ。相手のチームがミスして、自分がミスしてたら、たとえ勝っても悔いは残るけど、自分も、相手も、全力を尽くせた試合なら、たとえ負けても悔いなんか残らないんだ」
「はあ、なるほど」
「だからあたしはミラさんにも、悔いの残らない試合をしてほしいって思うんだ。ほかの誰でもなく、自分が力を尽くした結果を受け入れてほしいんだ」
 ぎゅっと、ミルディアはハルバードを握る手に力を込めた。
「綾乃さんは? 綾乃さんは、どうして指輪を取り返そうとするの? ミラさんを死なせないため?」
 真摯に見据えてくるミルディアに、綾乃は、やわらかく微笑みかえした。
「残念ですけど……わたしのは純度百パーセントの私利私欲です」
「そう。潔いね」
「そうですか?」
「うん。そういうことなら……容赦しないけどさ」
 突如突き込まれたハルバードを、綾乃は咄嗟にしゃがんで避けた。
 そのまま前転してミルディアの足元をすり抜け、天窓を仰いで叫ぶ。
「菫ちゃん!」
 言葉など必要もなく、綾乃のひと声を聞いた菫は箒の先をロビーへ向けて、矢のように急降下してきた。
 綾乃はポケットから取り出した指輪を握りしめ、菫めがけてぶん投げる。
「お願いっ!」
「任せときな!」
 宙を舞った指輪は、狙い違わず菫の手の中に吸い込まれていって……、
 瞬間、割り込んできた白い影が、指輪を横取りしていった。
「何!?」
 とんっ、と軽い音を立てて、白い影がロビーのど真ん中、ガラスケースの上に着地する。
「――おや、こんなにたくさんの方々に注目されるとは、なかなかに快感ですね。ふふふ」
 白虎に獣化した珠輝が、純白の産毛を月光に浸しながら言った。
 珠輝の背中には、リアとミラがまたがっていた。
 リアは珠輝にしっかりとまたがり、血まみれのミラを後ろから抱きすくめるようにして、落ちないように捕まえている。
 そして、血に濡れたミラの左手には、
「確かに、返していただきました」
 血色の輝きを宿すピンキーリングが、しっかりと握られていた。
 ミラは片手で、するりと小指にリングを通すと、珠輝の肩をぎゅっと掴んだ。
 それを合図にしたように、珠輝は駆け出した。
 人でごった返すロビーを、時に他人の肩を足場にしながら駆け抜けていく。
 時折飛び込んでくる妨害者たちは、
「――邪魔をするなっ!」
 リアの光術による目くらましが、ことごとく無力化していく。
 珠輝は、二本脚の人間では到底追いつけない速度でロビーを駆け抜け、中央階段を駆け上がり、二階の廊下を抜けて、屋上へと向かう。
 リアは追手の攻撃がないか、背後をよどみなく警戒し、
 ミラは指輪をはめた左手を、きつくきつく、胸に抱いていた。