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第十七章 だいすきなひとといっしょ。そのなな。


「はあ……」
 ベッドの上で、神楽坂 翡翠(かぐらざか・ひすい)はぽつり、呟く。
「暇ですねえ……」
 けほ、と咳をしながら。
 風邪をこじらせて肺炎にかかり、入院が必要となってからというもの、とても暇である。
 とはいえ、高熱がやっと下がってきたばかりの身。まだしばらく安静にしていないといけないのだが、
「よいしょ」
 気分転換にと、ベッドから出て窓辺に寄った。
 瞬間、「あらら?」眩暈がして、ふらつく。そういえば貧血とも言われたんだった。気付くのが遅かったが。
 世界が斜めになっていく。足に力が入らないから、ふんばろうにもふんばれず。
 倒れる。
 頭を打ったりはしたくないなあと思いながら重力に任せると、
「こら」
 山南 桂(やまなみ・けい)に腕を掴まれ、世界は斜めのまま固定された。そこからまっすぐに戻される。
「主殿、倒れるまで無茶した癖にもう起きあがろうとは……無謀ですよ」
 やや咎めるような口調で言う桂に、「申し訳御座いません」と苦笑。
「休んでいないと」
「そうですね。ベッド、戻ります」
 頷いて踏み出した一歩目。ぐらり、また身体がかしぐ。
 それを見た桂が嘆息し、「主殿、失礼します」ひょいと抱えあげられた。浮遊感。
「え、桂。歩けますよ?」
「歩けていないでしょう。ベッドまで数歩、我慢してください」
 お姫様抱っこで、すたすたとベッドまで運ばれた。……そう、あっさり抱きあげられたり、進まれたりすると、男としてのプライドとかが。ああ。
 おまけに桂は、「主殿、軽いです」とまで言ってきた。
「そうですかねえ。普通ですよ」
「ですか?」
 ベッドに寝かされた。寝ているのは随分と楽なのだな、とこの一分二分の間に学ばせてもらった。休もう、退屈だけど。暇だけど。
「まだ、顔が赤いですね」
 そっと頬に触れながら、桂が言う。その声が、遠く感じた。
 疑問に思う間もなく、視界が暗くなっていく。夜になるのだろうか。
「主殿? 主……」
 声が、少し焦っていた。その時になって気付く。意識が遠のいていっているのだと。
 また、無理、しすぎましたねぇ……。
 後でまた、怒られそうだ。

 花瓶に花を活けようと、水を汲みに行っていた柊 美鈴(ひいらぎ・みすず)が戻ってきた時、翡翠はすでに意識をなくした後で。
「あら……折角、お見舞いに来て下さったのに」
 隣を点滴の台を引きながら歩いていた、病院着のリンス・レイスに目をやった。
「いいよ別に。休んでるならそれで」
 からから、台を引いて翡翠の顔を見て。
 調子悪そうだなあとリンスが呟いた。額には、冷やしたタオル。桂が乗せてくれたのだろう。
「マスターは弱っていてもそれを隠す方ですから……注意していないと、気付けないんですよねぇ」
「ああ、困るねそれは」
「リンス君も、似たタイプでしょう」
 美鈴の言葉に頷いたリンスへと、桂が苦笑した。確かに、リンスもそういうタイプに思える。
 ことり、花瓶をサイドテーブルに乗せる間に。
「倒れたんですって?」
「あー、ごめんなさい。怒られるのはもう、しばらくおなかいっぱい。こうして病院内を歩き回れる程度には快復したし許して」
「怒られたんですか?」
「怒られたよ。そりゃもうたんまりと」
「それは、心配してくれている人が居るということですね。幸せなことですよ」
 そんなやり取りが隣で交わされて。
「マスターも、リンス様も。早く元気になってもらわないと、駄目ですね」
「そうです。早く元気になってください」
 美鈴と桂と、二人で念を押す。
 降参したように、両手を顔の高さまで上げて、「はい」素直にリンスが頷いた。それを見て、美鈴と桂は同時に顔を見合わせて噴き出す。
 なんだよ、と苦い顔をするリンスへと、桂が「手土産です」栗のムースケーキを切り分けたものを渡して。
「栄養失調なんでしょう? きちんと食べて、治してください」
 さらに念を押すように、そう笑った。


*...***...*


「暇ですね……」
 志位 大地(しい・だいち)は、天井に向けて呟いた。
 骨折で入院し、二人部屋に運ばれて早三日。
 入院初日にはおじいちゃんが入院していたのだが、二日目には退院していって。
 それ以降丸一日と数時間、回診の看護師さんと見舞いに来てくれるシーラ・カンス(しーら・かんす)以外とは誰とも口を利いていない状態が続いていた。
「たまにはゆっくりしないと。休むことも大切なんだからねぇ?」
 そうシーラは微笑むけれど。
「何もなさすぎるのも考えものですよ?」
 苦笑して、大地は返す。
 事実、寝る以外のことが出来ないこの状態は、健全なる十八歳の青少年には辛いものがあるわけで。
 一方、「はぁ」とあまりピンときていないらしいシーラは首を傾げ、
「私なら窓の外の景色を見てのんびりさせてもらいますけどねぇ……あら? なんだか、外が騒がしい……」
 言いながら病室のドアを開けると、寝台を押す看護師さんにばったり。
 どうやらこの部屋に入院患者が増えるらしいのだけれど、
「「……え!?」」
 その患者の顔を見て、驚く。
 だってそれは、
「ティエルさん!?」
「ティエルちゃん?」
 大地の恋人である、ティエリーティア・シュルツ(てぃえりーてぃあ・しゅるつ)だったから。
 蒼い顔をしたティエリーティアは、目をつむっていてぴくりとも動かない。いっそ、うなされでもしてくれれば息をしていることがわかるのに。
 不安だけが増す中、看護師と医師は病室を出て行って。
 しん、と静まり返る病室。
「…………」
「…………」
「…………」
 大地も、シーラも、寝ているティエリーティアも、誰も音を発することなく。
 ただ、カチ……カチ……、と、アナログ時計の秒針が時を刻む音だけを響かせていた。

 ふ、っと意識が戻った。
「…………」
 覚醒しきらない頭は、ここがどこなのかもすぐに認識してくれない。
 僕の部屋? ううん、違う。
 保健室? ううん、違う。
 知らない天井。
 ここは何処?
 目を開けて、ゆるゆると視線を彷徨わせていたら。
「ティティ!」
 焦りと安堵の混ざった声に名前を呼ばれた。
 そちらに目を向けると、パートナーで保護者のスヴェン・ミュラー(すう゛ぇん・みゅらー)が居て。
「意識が戻ったんですね、良かった……!」
 ともすれば泣き出しそうなほどのうろたえっぷり。
「私の顔はわかりますか!? 1+3はいくつですか?」
「よん。……じゃなくて。スヴェン、慌てすぎです。僕は大丈夫ですー」
「だってティティ……!」
「それよりここは何処でしょうか?」
 スヴェンが慌てる理由よりも、ここが何処なのか、その方が気になる。
 清潔感しかない、白い壁。そわそわして落ち着かない。
「ここは病院だぞ」
 聞き覚えのある声が飛んできた。
「病院……? ほえ、僕、何かありました?」
 身体を起こしながら、声に問う。誰だろう。幼馴染の声に似ているけれど。
「……? あれー? ウィルのお兄さんですかー?」
 そして、認識した相手――ウィルネスト著 『学期末レポート』(うぃるねすとちょ・がっきまつれぽーと)に、そう言葉を投げかけた。嘆息するレポートに、「?」疑問符。
「ティー、アレには上の兄弟はいねーぞ。弟だけだ」
「え、じゃあ弟さんですかー? ウィルよりも大人っぽいですねー」
「ついでに俺はアレの副産物だし、おまえのパートナーだけど?」
「パートナー……?」
 なんのことだろう。副産物? パートナー?
 わからない。
「……おまえもしかして、記憶が混乱してんのか?」
「??」
 そう言われても。
 きちんとスヴェンのことを覚えているし、自分のことも覚えているし。
 ああでも、最近の出来事はなんだか曖昧かもしれない。
「ティティ、大丈夫ですか? お水買ってきましたよ、飲めますか? 落ち着いてくださいね?」
「ありがとう、スヴェン」
 ミネラルウォーターを受け取って、一口。冷たくて、すっきりして、頭の中がクリアになる感覚。
 寝ぼけていたような状態でなくなったとはいえ。
 やはりレポートのことは思い出せないし、だけどスヴェンとのことは覚えているし――。
 僕、どうしたのかなぁ。
 首を傾げると、隣のベッドに上半身を起こし、茫然とした顔でティエルを見ていた大地と目が合った。
「……ティエルさん……」
「? はい?」
 愛称で呼ばれて、あれ僕この人とこんなに親しかったっけ? そんな疑問で埋め尽くされる。
 ウィルのお友達。その程度でしか思い出せない。だからきっと、その程度。
 だけど向こうは、ティエリーティアの入院にショックを受けたような顔だし、心配そうにしているし。
 そんな表情を見て、ちょっとだけ、ずきんとした。
「??」
 僕、お腹悪いのかな。
 自身の腹部を見つめて、思う。
 答えは出なかった。

「なんですって?」
 声をひそめたスヴェンの言葉に、大地は目を丸くする。
「ですから――あなたが入院したと聞いて、ティティはお見舞いに行こうと手土産のゼリーを作ったんです。
 そのゼリーを味見して、倒れました。その上、倒れた際に頭をぶつけて記憶の混乱を起こしているようです」
 さて、どこに何を思おうか。
 お見舞いに来ようとしてくれたことに、ティエリーティアの優しさを感じるか。
 それとも、散々悲惨な舞台を作り上げている料理を作ったことに嘆くべきか。
 はたまた、今まで自作のものを食べてもピンピンしていた彼女が倒れるほどのゼリーに畏敬を感じるべきか。
 あるいは、倒れたまではいざ知らず、頭を打ってしまった彼女の運の悪さか。
 けれど、
「……俺のこと、忘れてしまったんですかね……」
 それが一番強かった。
「…………」
 スヴェンが思わず言葉を無くしてしまうくらい、落ち込んだ。
 好きって言ったことも?
 手を繋いだことも?
 一緒に夏祭りに行ったことも?
 何もかも、全部?
「……そんな顔しないでください、気持ち悪いですね」
「傷心の俺に随分な言い草ですね……」
「事実でしょう? こんなあなたには釘をさすまでもないですね。レポート、帰りますよ」
 スヴェンの呼びかけに、レポートが「おー」と気のない声を出す。
「帰るんですか」
「帰りますよ、今のあなたはただの腑抜けのようですし、心配することもないでしょう。
 私達は、ティティが倒れたままの状態で飛び出してきましたからね。片付けや洗濯が待っているのですよ」
 それでは、と一礼して病室を出て行くスヴェンと。
「あー、これ見舞い品。置いとくなー」
 紙袋を、何の気なしに置いていくレポート。
 二人が部屋から出て行って、大地と、ティエルと、シーラだけになった病室。
「…………」
「…………」
「…………」
 あまり、居心地のよくない、沈黙。

 スヴェンと大地のツーショットという、世にも珍しいウフフなブツをデジカメに記録することに成功したので。
 次はメインに移りたいと、シーラは思う。
 メイン、それは、大地とティエリーティアのいちゃいちゃである。
 しかし、今日の様子を見る限り難しい。
 盗撮する際、聞こえてしまった今回の原因。
 ティエリーティアの記憶障害は、頭をぶつけたせい。
 そういえば、後頭部に大きなこぶがあるではないか。
 これだねぇ。
 シーラは確信する。
「ティエルちゃん」
「はい? ええと……」
「ごめんね〜」
 呼びかけ、この人誰だっけ……的な目をしているティエリーティアに対して。
 ごつん。
 花瓶の一撃。
「シ、シーラさん!?」
「大丈夫、手加減したからねぇ」
「そういう問題じゃないでしょう!?」
「だって、頭をぶつけて入院したなら同じ衝撃が加われば戻るかなーってぇ……」
「またベタなことを! ティエルさん!」
 慌てる大地。ベッドの上、気絶したティエリーティア。その横に立つシーラは、そろそろと脇に避けた。デジカメ起動、完了。動画撮影準備、OK。大地はティエリーティアを心配するあまり視野狭窄に陥っているから、バレることはないだろう。
 撮影開始。
 思惑通り、それに気付くことなく大地はベッドを降りてきた。

「ティエルさん!」
 折れた足も厭わずに、這うようにティエリーティアに近付いて。
「ティエルさん、大丈夫ですか。ティエルさんっ!」
 必死の呼びかけ。
「……、ん……?」
 薄く眼を開いたティエリーティアを見て、本当に安心した。一日に二度も、なんというものを見せるのだ。
 もしもこのまま目覚めなかったら。
 そう思うと、怖い。
 それに比べれば。
「俺のこと、忘れていてもいいですから……」
 壊れものを扱うように、そっとティエルの手を取って。
 独り言の延長のように、呟く。
「忘れてもいいですから。思い出はまた作れますから。
 だから、無茶はしないでください」
 切に願う声に。
「え、大地、さん? 忘れるって?」
 きょとんとした目で問い返す、ティエリーティア。
「……え?」
 今、俺のこと、名前で。
「……? どうしたんですか? 驚いた顔をして」
「俺のこと、わかります?」
「わかりますよ? 志位大地さん」
「俺とティエルさんの関係は?」
「え、えっ? や、やだなあ何かの罰ゲームですか? ……言わせたいんですか?」
 上目遣いに見てくる彼女の反応は、『ウィルネストの友達』に対するようなものではない。
 まさか、本当にあんなベタな行動で?
 ……ああもう、ベタでもなんでもいい。
「良かった……!」
 思わず抱きしめる。
 良かった。本当に。
 彼女が無事で。
 それから、あと、忘れてもいいなんて言っても、思い出してもらえて、嬉しい。嬉しい。
 本当に、良かった。

 一方、スヴェンとレポートの帰り道で。
「ところで何を置いてきたんです?」
「あー、ティーの作ったゼリー」
「……は!? 私が全て廃棄したはず……!」
「だってぜんぶ捨てちまったら頑張ったティーがかわいそーだろ?」
「それが原因で、ティティは倒れたというのに……全くあなたという人は」
「ま、いーじゃん。あいつらならアイノチカラで乗り越えられるってー」
「棒読みにもほどがある声で言わないでください」
 波乱はまだ、続く?