リアクション
すべては、ネルガルが東カナン巡察にやってきたことから狂いは生じたのだ―― アガデの都、東カナン領主の居城にあるアバドンの部屋―― 夜半。アバドンの出した使いの手によってひそかに集められたロイ・グラード(ろい・ぐらーど)、東園寺 雄軒(とうえんじ・ゆうけん)、そして使者に自らを売り込み、志願してきたジャジラッド・ボゴル(じゃじらっど・ぼごる)が、アバドンの眼前に立っていた。 ネルガルとの謁見は認められなかったが、アバドンはネルガルの片腕ともいうべき信任厚い女神官である。煌々たるクリスタル・シャンデリアの輝きの下、フードの下からあらわとなった匂いたつような美貌もさることながら、無感情な瞳から放たれる怜悧な視線の威力が彼らに膝を折らせた。 距離は、わずか数メートル。神官服以外まとっていないように見える無防備な姿。神官兵たちは壁際まで退いている。だがその柔肌にかすり傷を負わせるよりも早く、彼らの首が落ちるのはあきらかに思えた。 殊勝に頭を垂れている、そんな彼らの胸中すら見抜いたように、ふっとアバドンの口元が緩む。 「あなたたちは反乱軍に味方するシャンバラ人でありながら、ネルガル様に仕官したいということでしたね。他国の者でありながら、わが王の偉大さに感服し、仕えたいとは見上げたものです。ですが言葉など浮薄なもの。口の先から泡沫と化して消えゆくものに、何の価値もありません。 あなたたちには、パートナーを人質として差し出してもらいます」 「おそれながらアバドン様」 東園寺 雄軒(とうえんじ・ゆうけん)が面を上げた。 いつの間に距離を縮められていたのか……すぐ前に立って見下ろしているアバドンの気配を全く感じ取れなかったことに内心衝撃を受けつつも、雄軒は平素を装って告げた。 「先日メラムにて私たちの覚悟はすでにご覧になっているはず。私たちは心からネルガル殿とアバドン殿に忠誠を――」 「何のために?」 それは、雄軒がメラムで使った言葉だった。 相手の思惑を知りたければ、そう問うべきだと。 「知識です。私はこの世のありとあらゆる知識がほしいのです。カナンにある知識を得るためには、ネルガル殿にお仕えするのが一番と考えました」 「カナンの知識が得たいのであれば、ネルガル殿のそばでなくても事足ります。そんな弱い動機では、あなたの忠誠など知れたもの」 「得ることはできるでょう。ですが、知識とは川、流れる水のようなもの。勢いを失えばすぐに澱んで臭気を放つ…。 そうすることなくより強い流れへと進化させ、昇華させるためには、常に力を加えて流動させ続けなければなりません」 それが戦争だと信じて疑わない雄軒に、アバドンはおもむろに袖口から黒水晶を出すや、彼の後ろで控えていたバルト・ロドリクス(ばると・ろどりくす)を石化した。 「騒乱を求めるあなたが重視するのは、それを為す力。ゆえに彼を代償として差し出してもらいましょう」 一瞬で石像と化したバルトの姿に言葉を失った雄軒。並んで立っていたドゥムカ・ウェムカ(どぅむか・うぇむか)が、さーっと血の気の引いた面で雄軒を見返す。 次にアバドンはジャジラッドが差し出したザルク・エルダストリア(ざるく・えるだすとりあ)、ロイ・グラードのアイアン さち子(あいあん・さちこ)を見た。 さち子はロイに久々に連れ出してもらったと思えば、石化して人質になるという役目だったために、かなりむくれきっている。手に持っているのはカラになったヘアスプレー。それで「さち子参上!」というラクガキをしていたという報告は、アバドンも受けていた。 従順さに欠ける礼儀知らず。そして自身のパートナーの不始末に対する謝罪もなく、隠して庇おうともしないロイ。 ジャジラッドとザルクといい、それぞれの関係があまりにも希薄であるのは傍目にもあきらかだった。 「話になりません。自己犠牲があってこそ、同胞でもないあなたたちの用いる忠誠という言葉ははじめて私たちの信を得ることができるのです。 さっさと連れて帰りなさい、そのおそまつなお人形たちを」 「なんだと!?」 アバドンの言葉に、ジャジラッドが気色ばんで立ち上がる。 アバドンの優雅な手のひと振りで、壁に控えていた神官兵たちが4人を取り囲んだ。 ジャジラッドは納得がいかず、ネルガルに会わせろ、ちゃんと人質を差し出したじゃないかと訴えていたが、兵たちは有無を言わさず4人を扉へと追い立てた。 アバドンのまばたきもしない目が、再び雄軒とドゥムカに向く。 「この者は先のミストラル・フォーセット(みすとらる・ふぉーせっと)とともに、明日神聖都キシュへ輸送します。ネルガル様の宮殿内にある貴婦人の間にて大切に保管されますから、余計な心配は無用です。 そうそう、あなたたちにも1年に2週間だけ、逢瀬を楽しむ時間をあげましょう。ネルガル様は、逆らう敵には厳しくあたられますが、従う者にはとても寛大な御方。自国他国の分け隔てなく、奉仕に見合うだけの報奨を惜しみなく与えてくださいます。 もう既に何人かがネルガル様に申し出て仕官しています。その者たちに負けぬよう、あなたたちも身を粉にしてお仕えなさい。その働きいかんによっては2週間を3週間に、1カ月にとしていただけるかもしれませんよ?」 アバドンの唇が薄く笑みを刷く。 その姿は天女のごとく美しかったが、猛毒の蛇もまた美しいのだ。 雄軒はそのことをよく知っていた。 翌朝、東カナン全土の巡回を終えたネルガルの一行は、城の中庭でキシュに向けて出立の準備を整えていた。 東カナンのアガデの都から北カナンの神聖都キシュまでは、ちょうど背骨のように連なっている山岳地帯を越えていかなければならないため、空路で約6日、陸路で約10日の行程となる。 長旅の準備に勤しむ兵たちで溢れる中庭に、やがて旅装束を整えたネルガルとアバドンが東カナン領主バァル・ハダドを従えて現れた。 厚いフェルト地の手袋をつけながら、ネルガルがバァルを振り返る。 「バァルよ。余はうぬを気に入っておる。将としての武勇を頼もしく思い、その忠誠心を買ってもいる。が、それも限りがないわけではない。 こたびの騒動はひとえにうぬの領主としての手腕の甘さが招いたこと。うぬはこの東カナンの治世者なのだ、刃向かう者には苛烈であれ。身の程をわきまえぬ者には寛容さなど不要、容赦なく叩きつぶせ」 「――かしこまりまして、仰せを承りました。胸中深く、決して粗略にはいたしません」 「よいな。戦勝報告以外聞く気はないぞ」 深々と頭を下げるバァルの前、ネルガルはマントを翻し、一際猛々しく威圧気なワイバーンに騎乗すると、さっと空に舞い上がった。 追うように、数十のワイバーンが次々と上昇する。 隊は、空路を行くネルガルと、陸路を行くアバドンの2つに分かれた。石化した者たちは――特にバルトが――重すぎるため、ワイバーンに乗せることも吊ることもできないからだ。2体の石像は、陸路をアバドンが運ぶ手筈になっていた。 「それではバァル様。私もこれにておいとまをさせていただきます」 横で同じくネルガルを見送っていたアバドンが、そう言ってにっこり笑った。 めずらしく陽光の下でフードを下ろしている。 まさしく花のかんばせだ。これほどの美女はカナン中を探してもそうはいない。 「東カナンはどこもとてもすばらしい所ばかりでした。ネルガル様もそうおっしゃっておりましたし、私も、こちらをとても気に入りました。もう去らなくてはならないのが、とても残念に思えてなりません」 そっとバァルに身を寄せ、腕に触れる。 「それはよかった。あなたやネルガル殿にそう思っていただけたと知って、わたしもほっとする思いです。 よければ、ぜひまたおいでください」 「ありがとうございます。ですが、今度はバァル様がキシュをお訪ねくださいませ」 「この件が片付きましたら、そうさせていただくかもしれません」 にこやかに笑いあって、バァルは胸に触れかけたアバドンの手をとり、馬車へと導いた。 ドアを閉め、鍵がかかっていることを確認すると、御者に合図を出す。 「――本当に残念だこと。あなたがもう少し……であったなら……でしょうに」 動き出した馬車の音にまぎれ、そんなささやきが途切れ途切れに聞こえた。 しかしバァルは気にしなかった。これでやっと片付いたのだ。 砂埃を蹴立てて、複数の馬車と神官兵の一群が城門をくぐって去って行く。 だが、もう1つ厄介事は残っている。 城門近くにあるアバドンの置き土産、魔封じの檻の中で退屈そうに身を丸めている巨大な人喰い竜アジ・ダハーカから目をそらし、バァルはそばに控えていた兵に命じた。 「将軍たちに召集をかけろ。20分後に会議を開く。机上にザムグ周辺の地図を用意しておけ」 「はっ」 うやうやしく頭を下げる兵たちの横を抜け、城内へと向かう。 そして翌日、バァル率いる東カナン正規軍がアガデの都を出立したのだった。 |
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