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リアクション
4/奪われた者たち、追う者たち
手にした紙コップのコーヒーに、波紋が広がっていく。
どうぞ、って渡されて。もうすっかりぬるくなってしまったけれど、まだひと口も口をつけていない。
「……香菜、泣いてた」
病室の前の廊下に置かれた、長椅子に腰かけてぽつり、言う。
彼女に飲み物を渡した、ルカルカ・ルー(るかるか・るー)が悲しげに、けれど無言に見守る中で。
「バイクの上で、ずっと。なにやってるんだろう、なにやってるんだろうって。……悔しそうで、辛そうだったわ」
うわ言みたいに、繰り返していた。
医師のもとに着くまでの間、ずっと。ルシアは煉とともに、その声を聞いていた。聞かなければならなかった。
その、彼女の声が耳に。彼女の身体を濡らしていた血の跡が、着衣に今も残っている。
無事、香菜が見つかったことを知って。駆けつけてくれたルカルカと、その相棒、ダリル・ガイザック(だりる・がいざっく)が労わってくれていなければ、ルシアも参ってしまっていたかもしれない。
「どうしよう。……私も、あの子たちをあんなにした奴ら、許せないかもしれない」
すごく、感情が濁ってる。それが自分でもわかるんだ。どす黒くって、ぐるぐる渦を巻いてて。すごく、嫌な感じ。
「ルシア」
ルカルカが、なにか言おうとした。具体的に、なにを言おうとしていたのかは、彼女自身明瞭化できていたとはいい難い。
それをダリルが制し、首を左右させる。
「……今は?」
そして彼女に代わり、ダリルは問う。
彼からの質問に少しの間、ルシアはコーヒーに視線を落として。
「今は、ベッドの上。柚たちがついてくれてるわ」
「そうか」
なら、目覚めたら伝えてくれ。言って、ダリルは踵を返す。
「『彩夜のために戦いたいなら、今は回復に専念すべきだ』と。──ここは。あとのことは我々で引き受ける」
「ダリル」
ふたりを残し、ダリルは靴音とともに歩き出す。
思わず上げたルシアの視線が、ルカルカのそれと絡み合って。
「……ルシア。あなたも、傍にいてあげて」
こっちは、ダリルの言うとおりなんとかするから。
「みんなで一緒に、みんなを救けにいこうね、って。伝えてくれる?」
「──ルカ」
ルカルカが、右手を差し出す。軽い、握り拳をつくって。
「……ええ。いってらっしゃい」
ルシアもその意図を察し、同じように拳をつくる。
両者の拳が軽く、打ち合わせられる。
ルカルカもまた、踵を返した。ルシアに香菜のことを任せ、パートナーの後を追った。
*
はじめ、誰かが自身の肩を叩いたことに気付くまで、数秒のタイムラグがあった。いや──それ以上に、ノックの音にさえまるで聴覚が働かないくらい、沈思黙考に落ちている自分がいた。考えることも思うことも、多すぎた。
「──あ」
「ごめんなさい。ノックはしたんですけど」
志願して、彼女たちと付き添いを代わったのは自分だというのに。
こちらを、柚と、三月とルシアが見下ろしている。
「どうですか? 香菜ちゃんの様子は」
「……よく、眠ってますよ。それに、彩夜さんも」
香菜が運び込まれたのは、彩夜やセレンフィリティの眠り続ける病室の、残されたベッドのひとつ。
戻ってきたばかりの三人がそのまま付き添っていたところに、ベアトリーチェも合流し加わった。香菜が小康状態となるまで病室や、その扉の前から動こうとしなかった彼女たちに、血に汚れてしまった着衣を着替えて休んでくるよう促し、送り出してから、いつの間にか気付けば一時間以上経っていたということになる。涼司のもとに報告に行っている美羽と唯斗も、もうじき戻ってくるだろうか。
「ありがとう。ベアトリーチェは、他の皆のことも見てくれてるんだよね? ごめん、大変なのに」
「いえ。私にとっても香菜さんは……大切な友達ですから」
ベッドに横たえられた、香菜のことを見る。
今は、安らかな寝息を立てて点滴を受けながら、薬で寝入っている。少し、出血が多すぎたけれど、もう大丈夫。命の心配はない。
でも。その頬には彼女が流した涙がまだ微かに乾いて、張りついている。
こまめに、拭き取ってあげたはずなのに。それでも消えきれないその涙の足跡は彼女の顔に残っていた。
結局。肉体の状態は違うとしても、彩夜の隣に彼女を眠らせてしまった、な。
「少し、休んでください。私たちもですけど、それ以上にずっと看病と見回りとで昨日から休んでないって聞きました」
重ねて、柚が言う。
大丈夫、と返そうとして、ベアトリーチェは思いとどまる。
ノックすら気付かないくせに、大丈夫もなにもないだろう。そう思い、考えを変えて。
「……そう、ですね。それじゃあ、少しだけ」
サイドテーブルの水差しを手に取り、立ち上がる。
中身ももうすっかりぬるくなっているはずだ。換えてこなければ。ついでに何か、胃に入れておいた方がいいかもしれない。
「ゆっくりしてきて下さい」
気持ちはありがたかったけれど、そうもいかない。
なんてことを思いつつ、ドアノブをまわす。柚たちの言うとおり、ここはひとまず彼女たちに任せよう。
後ろ手に、扉を閉めて。小さく息を吐く。
「──?」
と。外に出た途端、どこかから潜めた小さな話し声が漏れ聞こえてくる。
どこから? 辺りを見回し、その流れてくる方向に向かう。声の主は、ひとり、ふたり──三人。
「あっ」
白衣を羽織った医師団の医師と、セレアナを連れた涼司が話し込んでいた。
「あら」
セレアナがこちらに気付き、涼司と医師もまた、ベアトリーチェを見つける。腕組みをした涼司は、医師の見せるカルテを除きながら、眉の間に深い皺を刻んでいた。
「えっと。お邪魔でしたか」
「いや。問題ない」
涼司が否定し、セレアナがベアトリーチェを手招きする。それに誘われるように近付いていくと、ちょうどそれらのカルテが誰のものであるのか、見える。ひとつは、セレアナのパートナーであるセレンフィリティのもの。
残る三つは、彩夜と、綾耶と──某と、連れ戻す際に香菜の間でひと悶着あったようだが──、そして、もう一枚にはウィルヘルミーナ・アイヴァンホー(うぃるへるみーな・あいばんほー)の名が見てとれた。
「どうしたんですか? まさか、目覚める方法が?」
「……残念ながら」
今度はセレアナが頭を振る番だった。
「やはり、根本的な解決には生命を奪っていったふたつの装置を破壊するしかない。つまり──……」
「『吸命の琥珀』と、それから」
「ああ」
──大元の、演算装置。『魂の牢獄』を。
「彼女たちを目覚めさせるにはやはり、それしかない」
*
それにしても、特定の一手を常に警戒をしながらというのはなかなかにやりにくいもんだな。──いくら、連中の実力がひとりひとりは、大したことはないとはいえ!
「ったく!」
ベルクは黒服の斬撃を避け、身を翻しながら心中、そんなことをぼやく。
「加夜さん! シリウスさん!」
彼の相棒は──フレンディスは、二体の相手と同時に斬り結ぶ。両翼へと黒服たちを弾き、タイミングを合わせ左右から迫るその男たちの中心から跳躍して。
ワイヤーでひとつに絡め取る。力いっぱい振りかぶって、敵の密集している個所めがけ、投げ叩きつける。
「おうっ! いいタイミングだっ!!」
当然、残った連中はそれを回避しにかかる。とっさ、空へ、あるいは周囲へ。
「逃がしませんっ!!」
そこを見逃す、シリウスたちではない。
加夜の射撃が空の敵を撃ち落とし、隙だらけの地上の敵を、シリウスとリーブラがねじ伏せる。彼女たちの息は、ぴったりと合っていた。
「……これで、琥珀は三つ目」
リーブラが拾い上げ、ベルクに手渡す。
「あと、持ってるやつはひとりかふたりってとこか」
おそらく、全部がここで出てくるとは思えない。これがなくなっては、奴らも生命を集めることができなくなるのだから。
総数が四、五個しかないのならあとの連中は撤退をはじめているだろう。
まだ出てくるようなら──まだまだ、回収や破壊が必要な数は少なくないということ。
「変にいきり立って、無茶してるやつらが出てないといいんだけどな」
違いない。シリウスの呟きに、ベルク達もまた同意を示した。
*
某が殴り飛ばされたのは、戦いによるものではない。
それこそ、「無茶なこと」をやろうとしたからだ。
「……何を、する」
彼の顔に、渾身の拳を叩き込んだのは──他ならぬ、相棒。康之だった。
「そりゃあ、こっちの台詞だ。それ以上やったら、そいつ死ぬぞ。とっ捕まえて連れて帰らなきゃ意味ねーだろうが」
康之に殴られた頬を、某は拭う。
彼に殴られるまでもなく、某の身体と着衣はあちこち傷ついていた。
遭遇した敵の只中に、自らのダメージを省みぬ突撃。そして蹂躙。康之やフェイの制止など、まるで聞こうともしなかった。
「今のおまえと夏來と、一体何が違うってんだよ。たまたまおまえは大怪我しなかった、そんだけのことだろう。綾耶のことでカッとなってんのはわかるけどよ、ちっとは頭冷やせ」
敵を一方的に撃滅した某は、琥珀を踏み砕き、ローブの男を胸倉から掴みあげ、吊し上げて。
彼がやったのは、有無を言わさぬ尋問。いや、それは虐待とか、拷問と呼ぶべきものに近かったかもしれない。
「知るか。吐くまでやるだけだ。吐かなければ、こんな奴らどうなったところで」
「かまわない──か。でも、今聞いたでしょ? 死なせちゃっちゃあ意味がないのよ」
フェイが肩を竦めて、ため息を吐く。
某が殴り飛ばされると同時、地面に投げ出されたローブの男の顔を起こす。
「だからさ、素直に吐いてくれない? これ、見えるわね?」
手にした銃を、地面に向けて数発放つ。既に顔面が見るも無残に変形している罪人からも、きちんと見えるように。脅しは、相手に伝わらなくては意味がない。
「痛い思い、これ以上したくないでしょ? ましてや、死にたくはないでしょう?」
「──そうそう、素直に吐くのが一番だよ?」
ローブの男に対する、フェイの脅し。そこに三人のうちの誰でもない別の声が闖入してくる。
「誰だ」
某が、身構える。康之も、また。
「心配するな、敵ではない」
現れたのは、呼雪とヘル。彼らもここにやってくるまでの間に遭遇し、捕らえたのか、気を失った黒づくめをそれぞれ縛り上げて、肩の上に載せていた。
「そいつらも、この連中の一味か」
「そうだな。ひとまずは涼司たちのところに連れて行く」
尋問は、それからやったらどうだ。
とびきりきつく、とびきりたっぶり。全部、洗いざらい隅々まで吐き出したくなるくらいに。
「ちょうど、運ぶのを手伝ってくれそうなやつらも来たことだしな」
「……呼んだのは、あんたらだろーが」
ローグたち四人が、暗闇の中から地面に降り立つ。コアトルは、某の目の前に。
立て、とばかりに某へとその尾を差し出して。
「少なくともおぬしの相棒たちは、おぬしよりもずっと冷静だな?」
大蛇型のギフトの声は、きかんぼうを相手にするような声音で某へと向けられていた。
「……うるさい」
差し出された尾に掴まることなく、某は自分の足で静かに立ち上がった。