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リアクション
ドーバー海峡横断部の挑戦〜旅立ち〜
ドーバー海峡。イギリスとフランスを隔てる海峡のことで、フランス側ではカレー海峡と呼ばれている。
今、この海峡を泳いで……ではなく走って渡ろうとしている者がいた!
その者の名は如月 正悟(きさらぎ・しょうご)。
足の屈伸など、入念に準備運動を行っている。
その表情からは「冗談」などひとかけらも感じられない。
……マジなのだ。
「はぁ。ま、サポートはしますけどね……」
ため息をつきながらも、エミリア・パージカル(えみりあ・ぱーじかる)は、飲み物やタオルなどのチェックを行っている。
走って渡る、というのは、普通に考えたら不可能なことである。
そこで正悟は、氷術を使って足場を作りながら進む、という方法を考えついたのだ。
「どうしても、行くというのだな……」
見送りに来た金 鋭峰(じん・るいふぉん)が、最終の意思確認をする。
「はい。いろいろとありがとうございました」
正悟は鋭峰に頭を下げた。
この挑戦に先立ち、出発地フランスの引率である鋭峰は、イギリスとフランス両国に許可をとるなど、様々な手を尽くして準備を整えてくれたのだ。
鋭峰としては、礼儀正しく相談してきた正悟に、できる限りのことをしてやろうと思ったのである。
それに、こういう熱い人種は嫌いではないようだ。
……いよいよ、挑戦の火ぶたが切って落とされる時が来た!
「行きます!」
ゴールは海峡を隔てたイギリスである。「行ってきます」ではなく「行きます」は、この場合適切な言葉だといえるだろう。
ビキッ!
氷術は、長距離を走るために小出しにしなくてはならない。
凍るのはあくまで海面のみだ。
すぐに次の足を出さなければ、割れて沈んでしまう。
ビキッ、ビキッ、ビキッ!
危うい音を立てながらも、正悟はドーバー海峡を走り出した!
それに併走するかたちで、エミリアも小型飛空挺を出発させた。
「ムリをするんじゃないぞ!」
鋭峰は、大きく手を振って見送った。
長い、長い旅がいま始まった。
●
正悟が出発したカレーの岬よりも南西。
ここにも、イギリス方面からの海風を全身で感じている者たちがいた。
「ここがオマハ・ビーチ……」
海風を頬に受け、ハインリヒ・ヴェーゼル(はいんりひ・う゛ぇーぜる)がつぶやいた。
「何か、ここに思い出でもあるのかしら?」
ハインリヒの隣には、栗色の髪の毛を風になびかせている一人の女性がいた。
彼女は、ハインリヒが観光案内のために雇ったガイドだ。
だが、とうの昔にガイドと客というハードルは乗り越えてしまっているようだ。
端から見たら、恋人同士にしか見えないような距離で、二人は海をながめていた。
「ここでアメリカ兵を迎え撃ったと、死んだ祖父が言っていたのですよ」
思い出すように目を細めるハインリヒ。
「ふふ。不思議ね。私には、まるであなた自身がここでアメリカ兵を迎え撃ったことを思い出しているように見えるわ」
女性が髪をかき上げる。
その髪からふわりと漂う香りは、シードルのような淡いリンゴの香りによく似ていた。
「この海のどこかで、まだ祖父が船を走らせているような気がしてしまいます」
いま、海を走っているのはハインリヒの祖父ではなく、正悟である。文字通り。
「わたくしも、不思議に思っていることがあります。あなたと、初めてお会いしたような気がしません」
「それは奇遇ね。私もよ」
「……これから、どこへ行きますか?」
「あなたが行きたいところ、どこでもいいわよ。ふふ、どこでも……ね」
女性の唇が、濡れたような輝きを放つ。
「どこでもいいというのなら……わたくしの観光はここで終わってしまいます」
「あら、どういうことかしら」
「……そういうことですよ」
溶かしたチョコレートのような、甘く濃厚な時が流れる。
「げ、げふんげふんっ!」
わざとらしい咳払い。
ハインリヒが振り返ると、小脇に紙袋を抱えたクリストバル ヴァリア(くりすとばる・う゛ぁりあ)が、肩で息をしていた。
「……もう戻ってきたのですか」
「ぜえ、ぜえ……」
ヴァリアは、海岸に到着するなり「喉が渇いたから」と、かなり遠くにある売店までシードルの小瓶を買いに行かされていたのだ。
危険な予感を感じたヴァリアは、全力疾走でシードルを買って、戻ってきたところだった。
(あ、危なかった。この女たらしっ!)
批難に満ちた視線を容赦なく投げつけるヴァリアだが、ハインリヒはその視線を見事に回避して、受け取った紙袋から3本の小瓶のシードルを取り出した。
手軽に飲める、サイダー瓶程度の大きさのシードルで、海を見つめながら乾杯をすることになった。
「わたくしとあなたとの出会いに……」
ハインリヒは、女性に向かって熱っぽい視線を向けた。
「うふふ。出会いに……」
「か、乾杯っ!」
ヴァリアは、のけ者にされそうだったので、自ら乾杯に割り込んだのだった。
さすがに二度もヴァリアを走らせるのは悪いと思ったのか、二本目のシードルは、ハインリヒが自分で買いに行った。
その隙に、ヴァリアはガイドの女性に話しかけた。
「あの……パートナーの私が言うのもなんですけど、アイツは最低の女たらしですわよ」
それを聞いた女性は、ただ笑うばかりだった。
「ふふ。心配はいらないわよ」
「でも……」
「あなたは、何に対して心配しているのかしらね」
そう言われて、女性ににっこり笑われると、もうヴァリアは何も言えなくなってしまうのだった。
●
「ところで、ここからそう遠くないところにモン・サン=ミシェルがありますよ。たまには一人でゆっくり見てきてはどうですか?」
ビーチからガイド女性の車で移動をして、シェルブームで食事をしていた時、ハインリヒがそんなことをヴァリアに提案した。
「え? ひ、一人で?」
「わたくしは興味がありませんので」
もう、そんなことを言い出すハインリヒの魂胆は見え見えである。
そこでヴァリアは、快く了承するフリをしてハインリヒのもとを離れ、手近な衣料店に飛び込んだ。
数分後。
すっかり変装を済ませたヴァリアがレストランに戻ってくると、ハインリヒは二人きりになれたのをいいことに、最後の仕上げに取りかかっていた。
「わたくしは、この修学旅行が終わったら、遠くパラミタに戻らなければなりません」
ハインリヒはささやくように言った。
「最高の思い出をくれませんか? あなたと……」
女性は、ハインリヒから目線をそらさずに、じっと見つめて言った。
「何が欲しいのかしら?」
ハインリヒは、一歩、女性に近付いて手を伸ばした。
(ああああ〜〜〜〜。ばかーーー!)
いざとなったら変装を解いて飛び出そうとかまえているヴァリア。
「それくらいにしておきましょう」
女性は、ハインリヒをすっと制した。
「どうして……?」
「私ね、ヌーボーより、長く熟成させたワインのほうが好きなの」
そう言うと女性は、自分の指先に口づけをすると、その指をハインリヒの唇に押し当てた。
「今はこれだけ。またいつか、あなたが芳醇なワインになったら……その時は素敵なところに行きましょう」
そう言うと女性は、優美な動作でテーブルを立ち、レストランの出口へと向かった。
女性は変装したヴァリアの横を通り過ぎるとき、「お元気で」とささやいたのだった。
「ふふ……。熟成……ですか」
自虐的な笑いを浮かべるハインリヒ。
ワイングラスに残っていた、ぬるい赤ワインをぐいっと飲み干した。
あっさりとしていて口当たりが良く、だがコクが足りないと感じるそのワインは、ハインリヒの生まれ年のものだった……。
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