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そんな、一日。~二月、某日。~

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そんな、一日。~二月、某日。~

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16


 いつもなら、黒之衣 音穏(くろのい・ねおん)が工房へ行くときの足取りは七刀 切(しちとう・きり)が呆れ返るほど軽い。
 それなのに、今日はとても重かった。
 踏み出す一歩が一々重い。鉛にでもなったのではないかと音穏は思う。
 足取りと同じように気分も重く、数歩ごとにため息が出るのもいただけない。別に、吐きたいわけではないのだ。けれども勝手に出てくるのだ。すると余計に気が重くなる。まったく見事な悪循環だ。
「音穏さんさあ。そんなに嫌?」
「嫌と言うか……」
 ここでまた、ため息。駄目だ。今日の数時間ですっかり癖になっている。
 決して、工房に行きたくないわけではない。クロエには会いたいし、話もしたい。
 だから、工房に行くのは全然構わない。
 問題は、今音穏が着ている服にあった。
「わざわざ服のお披露目なんてそんなことしなくても……」
 そう。
 音穏は先日デパートへ行った。切が、音穏に服を買ってあげたいという妙な気を起こしたせいだ。
 デパートには偶然にもクロエたちがいて、切から事情を聞いたクロエは目を輝かせて音穏に似合う格好をコーディネートしてくれた。
 そして今、音穏はあの日買った服を着ている。
「もっとこう自然に、偶然会った時我がこの格好をしていて『あ!』って言われるくらいがいいのではないか。なあ」
「あっ音穏さん工房見えてきたよ」
「聞け。話を聞け」
 気持ちが入っていないせいか、ツッコミもいつもより弱い気がした。そこにつけこんで切がほらほらと音穏の背中を押す。
 ああ、工房のドアが目の前に。
 後ろから伸びてきた切の手が、ドアノブを握った。軽く回して、押す。
「ようさー、デパートぶりー」
 よく通る切の声が工房に響き、クロエがこちらを向いた。


「括目せよクロエ! あとリンスとついでに紺侍も!」
 と切が言うので、リンスは作業を止めて顔を上げた。
「あ」
 思わず声が出た。音穏の格好が普段と違ったからだ。
 上は、白い透け感のある柔らかな素材のシャツと、明るいグレーのカーディガン。シャツには黒のリボンタイが付いており、女の子らしさの演出になっている。とはいえシンプルなアクセントなので、音穏の持つクールな雰囲気は壊していない。
 下は黒のぴったりとしたパンツで、明るい茶色のベルトがいい差し色になっていた。
「似合ってるね、その格好」
 思ったままを素直に言うと、音穏の顔色が変わった。赤い。赤くなって下を向いてしまった。勿体ないと思う。背筋を伸ばして立っていれば、すごく綺麗なのに。
「なンで顔伏せるんスか。せっかく綺麗なのにィ」
 同じことを思ったらしい紺侍が音穏に言うと、さらに音穏は顔を背けてしまった。
 ふたりの反応にテンションが上がったのはむしろ切の方で、紺侍に寄って行って耳打ちを始めた。
「ほら、紺侍は写真を撮るんだ。今撮らなきゃいつ撮るの! 今でしょ!」
「そっスね!」
 なにやらノリノリのようだ。見守っていると、紺侍がカメラを構えた。
 しかしシャッターに指をかけた途端、音穏が猫のような俊敏な動きで紺侍に手を伸ばした。あ、これは殴られるな、とリンスでさえ思った。が、そうはならなかった。
「ねおんおねぇちゃん、きれい!」
 と、クロエが言ったからだった。
 音穏の動きが全て止まった。全て止まって、赤かった顔がさらに赤く染まった。
「かわいい」
 さらに、クロエは賞賛する。素直な言葉に、音穏の頬が緩んだ。はにかんだ顔が、可愛い。
「隙アリ」
 見逃さず、紺侍がカメラのシャッターを切った。それに気付かない程度に、音穏はクロエとの時間を大切にしていた。
「クロエが選んでくれたおかげだ。有難う」
「ふふー。よろこんでもらえたなら、よかった!」
「恥ずかしいけどな……」
「そうなの?」
「いつもと違うとな。なんとなく、な」
「でも、きてきてくれたのね。うれしい」
「クロエがそう言うと思ったから」
「ふふー」
 聞いている方もほっこりするようなやり取りを見守ってから、リンスは作業に戻った。