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THE Boiled Void Heart

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2.蠅の王と虫愛でる姫君


 どれほど歩き続けただろう。
 葛葉 明(くずのは・めい)は、いつの間にか迷宮の中で方向を見失い、二度と地上に戻れなくなったのでは、という疑念に捕われ始めていた。
 時計代わりの携帯電話はうっかり充電を切らせてしまったのだ。
「やー、最後にはおっぱいの上で眠りにつきたかったよね……」
 明は今までであった数々の乳に思いをはせた。一つとして同じ乳はなかった。すべての乳はナンバーワンよりオンリーワンであることの大切さを明に教えてくれた。
「いい話だね……」
 この角を曲がったら、倒れてしまおう。乳の走馬燈を見ながら永久の眠りにつくのだ。
 そう覚悟して角を曲がると、ほこりっぽい遺跡には不釣り合いな銀色のドアが視界一杯に広がった。銀色とはいっても、ごくチープな輝きであとから増設されたものであることは一目でわかる。
「お……ぉ」
 明はよろよろとドアに手を伸ばす。鍵はかかっていないようで、銀色のドアは簡単に開いた。
「桃源郷かここは!」
 明は一瞬前の披露も忘れて叫んでいた。
 裸の上に白いワイシャツだけを羽織った女性が立っていたのだ。洗いざらしのワイシャツを白い双丘が押し上げている。白いワイシャツの下にかすかに透けて見える桜色が、明の理性を揺さぶる。
(これは……今までであった中でも五本の指に入るナイスおっぱい!)
 大きさ、形、ともに素晴らしい。あとは、実際に触ってその質感を確かめるだけだ。
「こんにちは。さようなら?」
 明の眉間に、銃が突きつけられていた。なにも持っていなかったはずの女性の手に、黒い拳銃が握られている。
 眉間に感じる冷たさに、明は凍り付く。硝煙と、オイルの匂いが人生の最後に嗅ぐ匂いなのか。
(ああ、もうちょっと前にかがんでくれれば、いいかんじなのになー)
 明が現実逃避気味にそんなことを考えていると、女性の背後から声がかかった。
「黒蠅くん、銃をしまいたまえ」
 先ほどまで寝ていたらしく、寝癖だらけの金髪を手櫛で整えながら男が女性の横に立つ。
 男性もまた、シワだらけのコットンパンツに上半身裸だ。
「初めまして、僕はジョシュア クロール。パラ実で教諭をやっていた」
 ジョシュアは右手を差し出す。明はそれを無視して女の方を見る。少し癖のある長い黒髪の女性は、小さく会釈する。
「私たちの名は黒蠅と申します」
 小さく会釈した調子に、黒蠅の羽織るワイシャツが揺れる。その危うい動きに、明の目は釘付けになる。
「私、たち? あなたたちは黒蠅と名乗っているのか?」
「いや、黒蠅というのはこの子の名前だよ。その子は自分のことを私たちと呼ぶんだ。まぁ、あまり気にしないでやってくれ」
 ジョシュアは明を室内に招き入れる。部屋は先ほどまでの通路と違ってきれいに掃除が行き届いている。室内には小型の冷蔵庫が四個。ぼろぼろのアップライトピアノと、傷だらけのチェロが置かれている。さらに、黒檀で作られた棺桶と、ベージュ色のロッカーが置かれている。
 折りたたみ式のベッドのシーツはしわくちゃになっている。
「まちたまえ。コーヒーとオレンジジュースどちらがいいかな」
 ジョシュアはあくびをしながら、冷蔵庫を開く。冷蔵庫の中は、まるで内部で何かの生き物を解体したかのように血液でどろどろに汚れている。「や、間違えた」などと言いながらジョシュアは別の冷蔵庫を開こうとする。
「いや、いらない!」
 本当は喉も渇いているし、空腹でもあるが、明は反射的にジョシュアの動きを制した。ジョシュアは小さく頷くと、別の冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出す。
 明は、ようやく部屋の隅に立っている男に気がついた。あまりに存在感がなかったので、ロッカーか何かのように見えていたのだ。
「東の空から棺桶が登りました。いいえ、それはミルフィーユでありました。スウィーツは末期の石油資源にとどめを刺しましょうなりや?」
 男の口からは、意味不明の呟きがとどめもなく、あふれてくる。
「あぁ、彼は感覚強化したらなぜか、ああなってしまってね。たぶん、世界の真実の姿を見て精神が耐えられなくなったのかも知れないね」
 ロッカーのように存在感に乏しいその男は、妙に時代がかったハンチング帽を被っている。
桜田門 凱(さくらだもん・がい)、とか言ったかな……確か、そんな名前だった気がするな。善意の協力者だよ」
 ジョシュアは一瞬だけ凱に視線を移すと、一人頷く。
「きみも僕たちの研究に協力しに来たのかな?」
 ジョシュアは紙コップに水を入れて、いくつかのカプセルを一息に飲み干す。
 明の一色は隅の方で着替えをしている黒蠅に釘付けにされている。
 意味のわからないことを呟き続けるハンチング帽の男。
 寝癖だらけの金髪の男。
 なにやら複雑な構造の服を着用している黒蠅。
 そんな黒蠅の一挙一動を見逃すまいと刮目する葛葉 明。
 中が血まみれの冷蔵庫。
 なぜか金物くさい部屋だった。
「ちょっとキメラに興味があってね。みせてもらえないかなーって」
「ん? ああ、いいよ」
 明の言葉に、ジョシュアはあっさりと頷く。
「黒蠅、彼女にキメラを見せてやってくれ。あと彼女にティッシュを」
「……わかりました、私たちの領主」
「んあ?」
 明は黒蠅の差し出すティッシュペーパーを受け取って首を傾げる。
「鼻血が出ています」
「……」
 黒蠅の着替えに興奮してしまったのだろうか。明はティッシュペーパーの鼻栓を装着する。部屋が妙に鉄くさいと思ったのは、自分自身の鼻血のせいだったらしい。
「あぁ。孵化がまだだろうからそのファイルを持って行って」
 ジョシュアはピアノ椅子に腰掛けると、二人に向かって手を振って見せた。

 キメラはジョシュアの居室からさらに奥に進んだところにある小部屋にいるという。
 黒蠅によれば、さらにその奥にオークの子供達のための部屋があるのだという。
 ジョシュアの部屋にあったアップライトピアノは、オークの子供達が狭い遺跡の通路を運ぶ際に傷だらけになってしまったのだという。
 初対面の印象とは違って、黒蠅はよく話す人物だった。一人称が「私たち」であるためにその内容が時々わかりにくくなるが慣れれば微妙なイントネーションの差でわかるようになってきた。
「こちらです」
 さすがにキメラのいる部屋へと続くドアには鍵が掛けられていた。
 ドアの向こうは、ジョシュアの居室よりかなり広い。なぜか壁の一面が鏡張りになっていて、ダンス教室を彷彿とさせる。
「なにこれ?」
 部屋の中央には、ちょうど米俵の立てたような大きさと形のものが鎮座していた。あるいは、巨大なカマキリのタマゴのようにも見える。
「キメラのタマゴです」
「キメラって卵生なの?」
「色々ですね。私たちの領主は、卵の状態からアプローチしたキメラの改良を研究しております。コチラはほんの余技ですが」
 黒蠅は小脇に抱えていたファイルを開いてみせる。
「このタマゴの前の世代のキメラです。かわいいでしょう」
 黒蠅の差し出すファイルをのぞき込んで明はすぐに視線をそらした。
 キメラといえば、ライオン、山羊、蛇それらの生物の部分を併せ持っている生物として知られている。しかし、ファイルの中の写真に写されているのは、『巨大毒虫』としか呼びようのない存在だった。
「なぁ、黒蠅さん。ここを抜け出して別の研究所に行かないか? もっとかわいいキメラ……パンダとツキノワグマとグリズリーのキメラを研究しているところの噂を聞いたんだけど」
「この子もこんなにかわいいのに」
 黒蠅は眉尻を下げて自分の持っていたファイルを抱きしめる。ファイルが彼女の豊かな胸に埋まる。
「せっかくのお誘いですが、お断り致します。私たちの領主の実験が終わるまでここを離れるわけには、いかないのです」
「あぁ、そのファイルになりたいなぁ……じゃなくて残念だなぁ」
「私たちもこの子たちの魅力をわかってもらえなくて残念です」