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リアクション
第4章 流したいもの託したいもの
曲水の宴が終わると、すぐに今度は流し雛の準備。毛氈は片づけられ、流し雛に使われるものが大急ぎで運ばれる。
「形代はここに置いておけばよろしいですか?」
「ええ。その中から少し出して、そちらにある箱に入れ替えていただけるかしら。風がありますから気をつけて下さいね」
形代の入った箱を抱えてきたフィリッパ・アヴェーヌ(ふぃりっぱ・あべーぬ)に、琴子が白布をかけたテーブルを指した。隣の赤い布をかけた方のテーブルには、願いを書き込む和紙人形が置いてある。こちらは願いを書く為のペンも添えてあった。
「この形代は空京神社からいただいてきたのですねぇ」
フィリッパが形代を出すのを手伝いながら、メイベルは空京神社の布紅のことを思い出す。無事福の神に戻ってからも、カビにまみれてしまったりと事件はつきないようだが、今は元気でいてくれるだろうか。
「琴子センセー、これってどうやればいいんだ?」
エルには日本人の友だちも多いので雛祭りという行事は耳にしたことがあったが、流し雛というのははじめて聞いた。2種類の人形をどうすればいいのか分からず、琴子に聞いてみる。イルミンスールと蒼空学園は校長たちの関係から、決して仲がよいとは言えない為に、蒼空学園の先生に話しかけていいものかどうか、と躊躇う気持ちもあったが……琴子はまったく気にしていないように答えた。
「こちらの形代、白いシンプルな紙でできた人形は、自分の穢れを移して流してしまう為のもの。流したいことを思い浮かべながら形代を身体に触れさせて、遣り水に流すのですわ。こちらの和紙でできた人形は、顔にあたる部分に願い事を書いた紙を挿して、願いが叶うようにと桃舟に乗せるのですわ。穢れを流すか、願いを掛けるか、選んで下さいましね」
「穢れか願いか……じゃ、願い事にするぜ」
「ではこちらですわね。どうか願いが叶いますように」
琴子から渡して貰った和紙に、エルはぐっとペンを握って願い事を書いた。
『好きな女の子や他の人を守れるようもっと強くなりたい』
気合いが入りすぎて文字は紙からはみ出してしまったけれど、ぎりぎり読めるだろう。願いを叶える為に精進することを誓いながら、その紙を和紙人形の胴体に差し込む。
「出来上がった和紙人形は、こちらの桃舟に乗せてくださいませ。皆様のを乗せ終わりましたら遣り水に流しますので」
「ありがとうございましたっ」
エルが丁寧に礼を言って去って行くと、入れ替わりに久途 侘助(くず・わびすけ)と芥 未実(あくた・みみ)がやってくる。未実は十二単姿だ。
「曲水の宴がやりたかったんじゃないか」
「うん。風流でいいかなと思ってさ。でも侘助が苦手ならいいんだよ」
無理して合わせて知恵熱でも出されたら困るし、と未実は笑う。
「それってすげー貶されてる気がするんだが……まぁいいか」
侘助はそう言って未実の姿を見直した。
「美人な未実の姿を見られたしな。馬子にも衣装だ」
「まごにもいしょう? それってどんな意味なんだい?」
「そ、それはだな……」
未実が嬉しそうなので意味を口にするのは憚られ、侘助は話を変える。
「こっちは流し雛か。やったことないな……。どんなものなんだ?」
やや警戒して尋ねたが、琴子の説明を聞いている限り難しいものではないらしい、と侘助は安心する。未実もやってみたいというので、さてどちらにしようかと形代と和紙人形を見比べる。
「罪穢れ……罪か」
侘助は自分の罪を思い起こす。自分は家族を守れずに……。
そこまで考えると、侘助は強く首を振る。
(だめだだめだ! こりゃ俺のキャラじゃねぇ!)
「侘助……? どうした? 寂しそうな顔をしてるよ」
「いや、何でもねぇ。そうだな、願い事を書くか」
心配そうな未実の顔は見ないようにして、侘助は和紙人形を取った。そこにしたためる願いは『大切な人を守れますように』。
「何て書いたんだい?」
「もちろん、お前らが大好きだったことだよ。だって俺たちはもう家族だろう?」
侘助の答えに、未実はじゃあ、と願いを『家内安全』と書き。何だそれはと聞いてくる侘助に笑顔を向けた。だって家族の中に2人も暴れん坊がいるんだからねぇ、と。
右手に大きな市松人形風の操り人形を持ってやってきた橘 カナ(たちばな・かな)は、集まっている人々の間を覗き込んだ。どうやらここでは、人形の顔の部分に願い事を書いているらしい。
「ナガシビナ……? ふーん、これに願い事をして舟に乗せるのね」
そういう行事なんだと納得するカナに、手にした操り人形『福ちゃん』がカクカクと口を開く。
『アタシ達モヤッテミマショウ!』
腹話術で声を出しているのはカナだけれど、まるで別人でもあるかのように2人……1人と1体は会話しながら願い事をしたためてゆく。福を右手に持っている為、カナがペンを持つのは左手だ。
『オコヅカイガあっぷシマスヨウニ』
「みんなが笑顔でいられますように」
『ぱーとなーノ小言ガ減リマスヨウニ』
「争いのない世界になりますように」
1枚では書ききれないので、何枚もの紙に書く。
「……福ちゃんってば、身近なことばっかりお願いするわね」
『かなハ逆ニ、随分ト大キナ願イ事ネ』
顔を見合わせてくすくすと笑うと、書き上がった紙を和紙人形にぐいぐいと差し込んだ。何とか全部を差し込んだけれど、かなりパンパンに膨れあがっている。
『……随分ト頭デッカチニナッチャッタワネ』
不格好になった人形を見て福が言えば、カナもそうねと笑う。
「福ちゃんが書いた『小顔美人』は叶わないかもね……」
2人分の願いごとはぎっしりと。そのうちどのくらいが叶ってくれるのかは分からないけれど。
『願イ事、叶ウトイイワネ』
「うん。……じゃ、ちらし寿司とかいただきにいきましょ!」
『アタシハ雛アラレガイイワ』
たくさんの願いを託した和紙人形を桃舟に乗せると、カナは料理のテーブルへと駆けていった。
「甘い物好きなリアさんですから、てっきり食事会目当てかと思いましたが……」
流し雛に参加とは、と言う明智 珠輝(あけち・たまき)にリア・ヴェリー(りあ・べりー)はまだ心残りがある様子で料理のテーブルを振り返る。珠輝の言う通り、確かに食べ物は気になる。凄く気になるけれど。
「うぅ……やっぱりこっちでいい」
流し雛はこんな機会でもなければ体験できないだろうからと、リアは雛菓子への未練を振り払った。曲水の宴には参加しないけれど、折角だからと束帯も着せてもらったことだから、ここは食べ物よりも風情を取ろう。
「そんな悩める瞳は、食べ物ではなく私に向けていただきたいものですね」
「というよりあんたたち、何であたしに聞かないのよ。今日は女の子の日、あたしだって参加するものを選ぶ権利があるはずよ」
選べるというならば、こんな行事ではなく顔よし金あり公家的坊ちゃん捜しを極めたい、と目にも艶やかな赤の唐衣を纏った藤咲 ハニー(ふじさき・はにー)が言えば、珠輝はゆったりと微笑む。
「4月4日に祭りがありましたら、ハニーさんの選択をお聞きしましょう。そして5月5日はすべて私の思いのままに……ふふ」
「珠輝、あんた何が言いたいのよ」
「いいえ何も。ささ、リアさんが和紙人形を取ってきてくれたようですよ。あれに思いの限りの妄想……いえ、願い事を書くとしましょう」
束帯の冠を揺らしながら走り戻ってきたリアは、和紙人形を1つずつ皆に手渡してゆく。
「はい、ポポガ」
「これ、願いごと書く。そうすると、叶う?」
先ほど受けた説明を確認するように繰り返すポポガ・バビ(ぽぽが・ばび)も、皆と同じく束帯姿だが……がっちりとした体格の所為でまるで別の衣装を着ているかのように見える。
「うん、そうだよ。――はい、藤咲さん」
「リアリア、ありがとう。気が利くじゃなぁい」
ハニーは受け取った人形にすぐさま願いを書き込んだ。
『金持ちのイケメンがあたしをくれますようにー!』
願いごとといえばこれに尽きる。
「頑張ってね、和紙人形ちゃん。期待してるわよぉ」
ちゅ、と和紙人形に紅のキスマークをつけて、ハニーは人形を桃舟の目立つ処に乗せた。
「はい、珠輝はこっち」
「ありがとうございま……って、形代ですか? 私だけ?」
「珠輝はとりあえず穢れをなくせ。願いはそこからだ……」
「嫌ですねぇ、私だってマトモな願いごとしますよ。そうですね、やはりここは……ジェイダス校長と朝まで……ふふふ」
「そんな破廉恥な願い事、言うな、書くな、馬鹿!」
「そうですか? そんなに懇願されては仕方ありませんねぇ」
リアにきっぱりと却下され、珠輝は諦めて皆が書く願い事を眺めて待つことにする。
「ポポガさんの願いは……『兄者、リア、ハニー、ポポガ、皆ずっと、仲良し』ですか。良い願いですね。リアさんのは『今年も美味しいスイーツをたくさん食べたい』……ふふっ」
「わ、笑うな! し、仕方ないだろ、好きなんだから……」
もう読まれてしまったのに、リアは隠す様にしながら願いを和紙人形に挿しこむと、ポポガの和紙人形と並べて桃舟に乗せた。
「それじゃあ、私は穢れ落としをしましょうか」
珠輝は形代を唇に当てる。
「先日リアさんの飲みかけのジュース飲みました、ごめんなさい」
「珠輝、勝手に飲んだのおまえかー!」
目を見開いたリアを横目に珠輝は、次に手を形代でこすり。
「ポポガさんの辞書の卑猥な単語の部分に赤いライン引きました、ごめんなさい」
「辞書。赤い線、あった。ポポガ、意味、わからなかった。後で、リアに、聞こう! 思ってた」
「僕に聞くなー!」
「なら、他の誰か、聞きに行く」
「それはもっとダメ!」
そんなポポガとリアのやり取りに微笑しつつ、また口元に戻してこすりこすり。
「藤咲さん、いつもニューハーフだ整形だと、真実バラしてごめんなさい」
「あたしゃニューハーフじゃねぇっっつの! 完璧に生まれてからずっと女だってぇの!」
青筋を立てて怒るハニーにも構わず、珠輝は形代を遣り水に流した。
「そんなこんなの些細な穢れも、これで綺麗さっぱり水に流してしまいましょう」
穢れは流しても、引き起こした怒りは流せない。リアとハニーは両側から珠輝に怒りの言葉をぶつけた。
けれどポポガはにこにこと嬉しそうにそんな光景を眺めるのだった。
「なんだ、かんだ、いつもの、光景、皆、楽しい」
タートルネックに春色のワンピースを重ね着して、軽いスプリングコートを羽織って。春らしくおめかししてやってきた関谷 未憂(せきや・みゆう)だったけれど、俳句は難しそうだし写真を撮られたりするのも恥ずかしい。誘った先輩の高崎 悠司(たかさき・ゆうじ)も俳句なんか面倒だと言うから、2人はただのんびりとホテルの庭を歩いていた。
「雛祭りの行事って、いろいろあるんですね。うちの実家では雛飾りを出して、ひなあられを食べるくらいでしたけど……今年も飾ってるのかな」
しまうのが遅くなると『いきおくれる』と言って、雛祭りが終わると大急ぎで雛飾りをしまっていた祖母のことを未憂が話すと、悠司は行き遅れねぇ、と繰り返した。
「んじゃ、男はひな祭りなんてやんねーから、行き遅れの心配ねーわけだ。こりゃ安心だ」
「え、そこは安心するところなんですか……?」
そもそも男性は行く立場より貰う立場になる方が多いから、行き遅れ、という言葉はあまり当てはまらないような気がする、と未憂は首を傾げた。
「早くしまわねぇと行き遅れるなら、最初から雛飾りをしねーでおく、って手もあるな。その方が楽だし」
「確かにそれは楽でしょうけれど、それも何か違うような気がします」
面倒がりな悠司の言葉に未憂はくすっと笑った。
「そういえば、ひなあられって関東と関西で違うそうですよ。関東のは甘いポン菓子で、関西のがしょっぱいあられなんですって」
「へー、ここで出してるのはどっち方面の味なんだろうな」
「全然違うパラミタ風のひなあられがあったりするんでしょうか」
どんなひなあられなのか見に行ってみようかと、歩く方向を変えた2人はちょうど流し雛をしている処に遭遇することとなった。
「紙を流せばいいのか? 楽そうだからこれやってみよーぜ」
「えっと……紙の形代を流して罪穢れを落とすのと、願い事を和紙の人形に抱かせて流すのと、2種類あるんですね。先輩はどちらにしますか?」
「願い事と穢れ落としねぇ……」
どちらにしようか、と悠司は考える。
大きい願い事を頼むなら、『今年は去年より楽しい年になってくれ』とでも書いてみようか。パラミタに来たのも面白いことがあるかと期待した為で、実際、地球では味わえないようなスリルも沢山味わった……。
(そーいや、ヴァイシャリーのマフィアに所属したなんてのもあったねぇ)
未憂に知られたら何て言われるか解らないからと、悠司は口には出さずに、この穢れを流してもらっておこうかと形代に目をやった。
それとも……やっぱり願い事にしておこうか。
悠司は和紙人形を取ると、願い事を書く紙にこう書いた。
『闇組織の手が未憂に変に飛び火しないように』
自分がドジを踏まないのが大事だけれど、神様が守ってくれるなら楽でいい。
「先輩は願い事ですか? じゃあわたしも……」
見ちゃダメですよ、と未憂が書いた願いは、
『また先輩と会う機会がありますように』
こっそり書いた願いを、こっそりと桃舟に乗せる。
「終わったか? んじゃ、ひなあられ食いに行くか」
「はい。先輩はどんなひなあられがあると思います?」
「激辛、かなー」
「……それ、小さな女の子だったら、泣いてしまいそうなあられですね」
そんなたわいもない話をしながら、2人は春の陽射しの中を歩いて行った。
雅の趣向で選んだ和服の重ね色目は白桜。地紋の折り込まれた白の表に、ほのかに透ける裏の紫が淡い彩りを重ねる。
陽射しが含む春の兆しも風がはらむ冬の名残も、どちらをも愛でながら藍澤 黎(あいざわ・れい)は流し雛に参加した。
和紙人形を手に、しばし考える。
そもそも願いは自分で叶えるもの。しかしだからといって全てが自分の努力で叶えられるなどと思うのもおこがましい。
ならば人形に託す願いは……苦しくなった時にせめて最良の選択を取れる自分であることが出来るように、と。
人事を尽くしてこそ天命を待てるというもの。人事を尽くせる己であるようにと鼓舞する決意で黎は人形を桃舟に乗せた。
願いを人形に託しその場を離れた黎は、見知った鈴倉 虚雲(すずくら・きょん)の姿を見つけた。けれど、虚雲の表情があまりに思い詰めているようで、親友に会った喜びよりも心配が先に立つ。
「虚雲殿も流し雛をしに来たのか?」
黎がそう声をかけると、虚雲は自分のいる場所にはじめて気づいたように周囲を見回した。
「流し雛? ああ、だからこんなに人がいるんだな……」
ふぅと重い吐息を吐いた虚雲に、黎はどうかしたのかと問いかけた。
「いや、な……」
けれど虚雲の口ははかばかしく言葉を紡がない。そこに、行事の裏方を手伝っていたメイベルが、2人の姿を見つけてやってきた。
「こんにちは。今日は晴れて良かったですね。戸外の行事ですから、お天気がちょっと心配だったんですぅ」
普段通りの優しい笑顔で話しかけてくるメイベル、そして不安を湛えた瞳を向けてくる黎……その2人に挟まれて会話するうち、虚雲は相談するともなく自分の心の内を口にしていた。
「最近本当に自分の気持ちが分からない……どうしたらいいのか分からない」
パートナーの射月と1人の女性が自分に心を寄せ、結果複雑な関係になってしまった。どちらかを選べれば良いのだろうけれど、両方に揺れてしまう自分がいて、心滅入ってしまう。
「2人の事を考えるとおかしくなる……胸が痛くなる。俺は両方とも大事に思っていて、同じくらい好きなのか? 同時に2人なんて……片方は男だし……くそっ」
気づいてなかった頃が懐かしい。そう思ってしまうのも逃げなのだろうか。
苦悩する虚雲にメイベルは、
「私自身そういった経験が無いのでお力になれるか分かりませんけれど……どうか元気出して下さいねぇ」
と答えは示せないけれど、励ます言葉を掛けた。悩みの中にあるのは辛いこと。少しでも解消されると良いのだが、どうすればいいのか……。
「……占いというのはどうだろう」
「占い?」
虚雲に聞き返された黎は、遣り水の流れを指した。
「遣り水の下流は流れの真ん中に飛び石が置かれ、右と左に流れが分かれている。左は荒々しく男らしい。右は緩やかで女らしい。……どちらを通るのか、または其処に至る前に何処かの澱に留まるのか……雛に問うてみるのも良いのではないか」
「流し雛か……決断出来ず両方に嫌な思いをさせてる、罪穢れのある俺らしいか……自業自得だな」
「そういう意味では……」
「ああ、分かってる。藍の助言だ、やってみる」
虚雲は形代をもらってきて、遣り水の流れを見つめた。雛が身を任せるのはどちらの流れか。そして流れに雛を浸そうとしたの時。
「そんな顔してないで元気出そうよっ」
あまりに虚雲が神妙な顔つきをしているので、叱咤激励しようとセシリア・ライト(せしりあ・らいと)が強く背を押した。普段の虚雲なら持ち堪えただろうが、流れに乗り出している体勢ではそれもならず、
「ぅあ、っ……」
まだ冷たい遣り水へと落ちた。
「こ、ごめんっ! 僕、そこまで強く押したつもりはないんだけど」
押した方のセシリアの方が焦ってしまう。
「タ、タオル。タオルを借りてくる!」
「後は何か着替えを……私も一緒に行ってきますねぇ」
慌てているセシリアに任せておくのも心配だからと、メイベルもセシリアを追ってホテルの方へと走っていった。
「早く上がらねば風邪を引く」
黎は呆然としている虚雲に手を貸して、遣り水から上がらせた。深い流れではないが、春浅いこの時季に入りたい水ではない。
虚雲の落ちた勢いに、形代は遣り水の流れも見失って、ただくるくると翻弄されていた。けれど、落下によって舞い上がった濁りが上流からの水に澄まされていくのに従って、少しずつ形代の動きは落ち着いてゆく。
髪を滴る雫も顎を伝う水も気にせず、虚雲は雛の流れを見守り続けた。
一度は濁りに沈んだ雛だけれど、流れに乗ってしまえば進みは早い。そして飛び石にぶつかって一旦戸惑ったものの、片方の流れを選んで遣り水を進んでゆく。
「……結果はどうあれ……自分の心に嘘をつく事は、自身だけでなくそれを見る周囲をも辛くさせるものであろう」
「そう、だな……」
「お待たせしましたぁ」
息を切らせて駆け戻ってくるメイベルとセシリアを迎えた頃には雛は既に流れ去り。
雛占いの答えは虚雲と黎の中だけにしまわれたのだった――。
日本庭園となっている荷葉ホテルの庭を歩きながら、カレン・クレスティア(かれん・くれすてぃあ)はその妙に心奪われていた。
木や池や石……それ1つでは何ということもないものが、見事に配置されることによって得も言われぬ美しさを作り出している。それもわざとらしさを極限まで廃したさりげなさの中に。
「これが日本文化かぁ……いいな、こういうの」
西洋の美とは違う静の美に感動するカレンとは対照的な意味で、八坂 トメ(やさか・とめ)も大いに庭園を満喫していた。
「うわぁ、なにここ、遊園地? 遊ぶトコどこ〜?」
庭に置いてある岩によじ登り、ししおどしを手で動かして鳴らし、と一瞬たりとも大人しくしていない。
「それは飲んじゃダメ」
「えー、どうして? 喉乾いたからお茶飲みたいんだもん」
「それはお茶じゃなくてお酒」
曲水の宴で残った白酒を注いでいるトメから、カレンはコップを取り上げた。
「あたし、お酒でもいいんだけど〜」
「こんな処で酔っぱらわれたらボクが困るんだよ。それより、せっかく日本の行事をやってるんだから、トメさんも一緒に参加してみようよ」
「うん、やるやる! でも、参加って何に?」
「う〜ん、どれも興味あるけど……流し雛にしようか。紙に自分の罪や願いを移して、この水に流すんだって。東洋魔術の一種なのかな〜。面白そうだよね」
穢れを流す方にするか、願い事にするか。カレンは2つの人形を見比べて和紙人形の方を手に取った。
「罪や穢れは自分でどうにかするもんだし、そもそもボクは悪い事とかやましい事は一切してないしね〜」
「あたしも願い事書く〜」
「トメさんは、こっち。最近やっちゃった悪いコトを思い出して、この紙をこすりつけなさい!」
カレンはトメには形代を渡すと、遣り水のほとりをわびさびを感じながら散策し、願い事を考えた。トメも、うーんと唸りながら考えていたけれど。
「あ〜、そういえば!」
「何かあった?」
「この間絵本のお家に行った時、棚の上の方にある本が読みたいのに手が届かなくて、他の本を積んで踏み台にしちゃった」
「トメさんそんなことしてたのっ?」
「……やっぱりアレはまずかったかなぁ」
本は友だち、大切に。そんな風に言われていたのに踏んづけてしまったことを反省して、トメは足に形代をこすりつけた。
「ごめんなさい」
謝りながら手を放すと、形代は遣り水に乗って流れていった。
カレンの方は、バレンタインの日にデートした子のことを思い出していた。あの子は今何をしてるだろう。その子の明るい笑顔を見られることが、今のカレンの幸せ。ならば、和紙人形に抱かせる願いはあの子のことしかない。
願い事を書き終えると、カレンは人形を胸に当て、その子の笑顔を思い浮かべた。どうか……元気で明るく笑っていて欲しい。
そんな願いと気持ちを人形に抱かせ、カレンはそっと桃舟に乗せるのだった。
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