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曲水とひいなの宴

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曲水とひいなの宴
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 第5章 上巳の賑わい
 
 
 ホテルの客たちは、曲水の宴や流し雛の様子を眺め、あるいは付近を散策し。そして雛祭りらしい料理の置かれたテーブルにも結構な人数が集まっていた。
 小袖に襷掛けした北都は、ホテルの厨房で作られた料理を運び、長机に並べる。
 そのパートナーのクナイ・アヤシ(くない・あやし)も、北都に着付けてもらった着物姿で料理の運搬を手伝っていた。クナイは珍しい料理に興味があるから厨房の手伝いでも、と言ったのだが、即座に北都に却下されてしまった。客が食べるものだから、いくら見た目が良くとも壊滅的な味の料理を出すわけにはいかない、というのがその理由だ。
 温かい料理がさめないように、冷たい料理は温くならないうちにと、大急ぎで運んでは並べる。
 ユーリ・ウィルトゥス(ゆーり・うぃるとぅす)は厨房の手伝い。といっても料理自体はホテルの料理人が連携をとって作っていっているから、ユーリがしているのは料理の減り具合をチェックして厨房内に伝えたり、運搬する者に料理人からの指示を伝えたり、といった仕事だ。
「何か運ぶものはありますか?」
 大きな盆を手に戻ってきたクリスにも、ユーリは指示を出す。
「……取り皿が減ってきているようだから、そちらに積んであるものを持っていってくれ。箸は十分あるようだが、フォークは補充を頼む」
「はい、分かりましたっ」
「……あ、それから」
 これも、とユーリは台拭きをクリスに渡した。普段家事を任されているだけあって、細かなチェックも行き届いている。
 ホテルの客は運ばれてきた料理を食べるだけでなく、興味津々といった様子で写真を撮ったり、料理について質問したりもしてくる。
「これも食べ物なの?」
「え、あ、はい」
 菱餅を指さして尋ねる客に、片づけ物をとりまとめていた琴子が慌てて振り返る。やりかけの仕事をどうしようかと迷う様子で見回す琴子の代わりに、神和 綺人(かんなぎ・あやと)が説明した。
「はい、このままでは無理ですけれど、元は餅なので煮たり焼いたりすれば食べられます。食べ方には特に決まりはないのですが、角の処からちぎって食べると、角が立たないように丸く生きるという意味になるんだそうですよ。といっても、雛祭りの間は食べる為というより、飾られることが多いですけれど」
「飾り……だからカラフルなのね」
 客は納得したように肯き、琴子はありがとうと口の形で綺人に伝えると、まとめ終えた片づけ物を持ってホテルの方へて歩いてゆく。主催はやはり忙しそうだと思いながら、綺人は客への説明を続けた。
 綺人には姉がいるから、日本の実家でも雛人形を飾ったりして桃の節句を祝っている。女傑の姉には可愛い行事なんて似合わない、なんて綺人は思っているけれど、家でやっていた行事の知識は身に付いている。
「この色にも意味があるんですよ。下から、緑、白、ピンク、になっているでしょう。これは諸説あるんですけれど、春近い季節を表していると言われてます。緑は草萌える大地の色、白は冬の間に積もった雪、そしてピンクはその上に咲き初めた桃の花。そう思ってみると、お餅の飾り1つにも風情がありますよね」
 伝統行事に作られる料理や飾りは、それぞれ意味を持つものが多い。見ているだけでも目を楽しませてくれるけれど、意味合いを知ればもっと興味深い。
 客たちは料理の謂われを聞いたり、味を楽しんだりと日本の伝統行事の雰囲気を満喫してくれているようだ。
 黒崎 天音(くろさき・あまね)は今日は客としてホテルを訪れていた。
 天音に催し物に誘われた時は、曲水の宴も流し雛も、そして天音が着てみるかと言った十二単が何なのかもすべて『?』マークだったブルーズ・アッシュワース(ぶるーず・あっしゅわーす)も、実際に来て見物してみればこれがそうかと理解出来た。非能率的な部分もあるが、それが伝統というものなのだろうと納得もした。
 けれど……まさに今、ブルーズはその伝統の前で躓いている。
「ふむ……これはあれか、『箸』というもので食べるものか」
「日本の伝統的な食べ物だからね。この春めいた彩り、実に綺麗だ」
 いただきます、と手を合わせると天音は箸袋から箸を取り出した。
 昆布締めにした平目から下の木の芽が透けてみえる手鞠寿司を口にすれば、シャリに混ぜ込んだ梅ゴマの風味がすっきりと。炒り卵をはさんだ車エビの手鞠寿司は、ぷりぷりした食感がたまらない。
「味も格別だよ。ブルーズも食べ……られそうもないかな」
 勧めかけた天音は、箸と奮闘するブルーズの姿に苦笑すると、手を取って箸の持ち方を教えた。
「まずはこう……そのまま薬指と親指の付け根辺りで支えて」
「こう……だな」
「そう。そしてもう1本をこうやって上の3本の指で挟んで動かして」
「……こうか?」
 ブルーズは天音に言われた通りに箸を操ろうとするが、慣れない手には箸使いは難しい。
「何故捻り箸になってしまうのかな。もう1度やってみようか。こうして……」
 天音は丁寧に教えたけれど、ブルーズの箸先はてんでばらばらに動いてしまい、何かを挟めるような状態にはならない。
「ブルーズ、本当に下手だね」
「この箸という道具自体に構造上の問題があるのではないか? 先がこのように尖っているなら、刺して使っても良さそうなものだが」
「残念だけど、刺して使うのはマナー違反ということになっているんだよ」
「……むぅ」
 天音が使えば箸は実に優雅に料理をつまみ、軽やかに口に運ぶのに、ブルーズが使えば途端に手から逃れようと反乱を起こす。
「良かったら食べ物をひとつひとつあーんとしてあげようか?」
「ひな鳥ではあるまいし、人前でそんな事をされるのは御免被るぞ」
「……人前じゃなければ良いのか聞きたい所だけど、仕方ないね。フォークを頼もうか」
 ホテルの客にはシャンバラ人も多い。彼らは箸を使ってみはするけれど、それで料理を食べようという努力を続ける者はおらず、すぐに慣れたカトラリーに持ち替えている。だからそうした処でこの場では自然なのだけれど。
「いや、せっかくの機会だ。今日こそはこの箸を使いこなして見せる」
 真剣に箸に挑み続けるブルーズに、それなら頑張るしかないねと笑いかけると、天音は皆が散らかしたテーブルを片づけている桃子に、今日の料理と同じものをお重に詰めてもらえないかと注文した。
「ええと、お重に、ですか?」
「ああ。今日来られなくなってしまった友人に差し入れたいんだ。もちろん代金は払わせてもらうよ」
「あの、えっと……すぐに聞いてきますから」
 桃子はわたわたと厨房に聞きに行った後、すぐに用意するというホテル側からの伝言を持って戻ってきた。
「ありがとう。でもそんなに急がなくても良いよ」
 まだ時間はかかりそうだからね、と天音は箸で曲芸をしているかのようなブルーズに目をやって微笑んだ。
 
「壮太、厨房が忙しそうだけど料理するの手伝わなくていいのかな」
 料理や菓子を運びながら、ミミ・マリー(みみ・まりー)は気になる様子で瀬島 壮太(せじま・そうた)に尋ねた。
「言っただろ。おまえは料理はするな。絶対にだぞ」
 断固として言われ、ミミは素直に給仕を続ける。出来上がったものを運び、客には好きな飲み物を聞いて注いだり。壮太に着付けてもらった和モダンな女給姿は客にも好評で、給仕をしているといろいろ話しかけられたりもした。それはそれで楽しいのだけれど。
「はい、こちら蛤のお吸い物です。熱いですので気を付けて下さいね」
 盆に乗せて運ぶお吸い物からふわりと立ち上る良い匂い。目を楽しませるちらし寿司の彩り、いかにも新鮮な鯛のお造り……。美味しそうなものばかりを目の前に置いて運んでいると……。
 思わずじいっと料理に見入ってしまったミミは、慌てて目を逸らした。壮太にダメと言われているのは料理することだけだけど、つまみ食いはもっと厳禁だろうから。
 その壮太の方は白のワイシャツの袖を肘までまくり上げ、黒いソムリエエプロンをした姿で、食器を下げたり洗い物をしたりという裏方作業をしていた。
 空いた器、使った取り皿やカップ、カトラリー、多くの人が飲食すれば比例して食器の洗い物は多くなる。地味な作業だけれど、誰かがやり続けなければ食器は溜まり、使う分さえ足りなくなってしまう。
 けれど、女性が洗い物をしようとしているのを見つけると、壮太はその食器を自分が引き受け、女性を会場へと返した。
「今日は桃の節句なんだから、洗いモンなんか男にやらせて楽しんで来いよ」
 食器洗いはバイトの基本。自分は慣れっこだからと壮太は手早く食器を洗い、拭きあげてゆく。
「ほら、その食器もここに置いていきな」
 壮太は隼が運んできた食器を持とうとするかなたにも声をかけたが、男性が苦手なかなたはちょっと身を引き気味に、大丈夫ですわと首を振った。
「食器洗い乾燥機を持参しておりますので、こちらはお任せ下さいませ」
「そっか? んじゃあ俺も食器集めに行ってくるかな」
 濡れた手を拭き拭き壮太が庭に向かえば、
「あ、壮太さんっ」
 会場を見て回っていた真希が気づいて駆け寄ってくる。
「壮太さんも来てたんだ。今日は料理のお手伝いしてるのかな」
「ただの下働きだよ。真希は……って何だその荷物? クロークにでも預けたらどうだ?」
「え? あっ、これはいいの」
 壮太の目から隠すように真希は包みを身体の後ろに回すと、荷物から話を逸らす。
「壮太さんは忙しそうだね。良かったらあたしも手伝おうか?」
「いいっていいって。せっかくの女の子の祭りなんだから、真希は楽しんでこいよ。料理も結構いけるらしいぜ」
「うん。じゃあまた後で」
 楽しそうに走ってゆく真希の後ろ姿に、やっぱり女の子が楽しそうにしている祭りはいいななどと思いつつ、壮太は仕事に戻った。
 
「それはお茶? 綺麗なセンセーが入れてくれるんだから、きっと美味しいんだろうな〜」
 料理を食べに来ていたエルが、茶を点てる琴子の手元を興味ありげに覗き込む。
「美味しい……かどうかは、飲んでのお楽しみ、ですわね」
 抹茶茶碗をどうぞエルに手渡すと、琴子は点て終えた茶碗を盆に乗せて、客の処へと運んでゆく。
 その盆を轟 雷蔵(とどろき・らいぞう)の手がひょいと取り上げた。
「琴子、だっけ? ずっと裏方やってるけど、琴子は祭り、参加しねぇの?」
「わたくしは……」
 と普通に答えかけた琴子は途中できゅっと口を閉ざし、いたずらっぽく笑った。
「だ、め。蒼空学園の子には、先生って呼ばないとお返事してあげません」
「げ、面倒なこと言うなよな」
 差別だ、とも思ったが、琴子はそっぽを向いて笑っている。仕方なく雷蔵は言い直した。
「で、センセイは祭りに参加しねぇのか? せっかくのひな祭り、女の子が裏にいるなんてもったいないぜ」
「わたくしは今日は裏方をする為に来たのですから、よろしいのですわ。――あ、そのお盆を持ってこちらに来てくださいまし」
「そうなんだろうけどさ、自分でもちっとは祭りを楽しんでもいいんじゃねぇか? ――と、ここでいいのか?」
「裏方仕事をしていても、お祭りは楽しめますもの。――ええ。わたくしが配る間、そこでお盆を支えていて下さいましね」
 雷蔵と琴子は会話しながらも仕事を続ける。
「だけどよ、女の祭りに女にずっと仕事されてんのも落ち着かねぇよ。それにこんな企画をするくらいだ。ひな祭り、嫌いじゃねぇんだろ?」
「それはもちろん好きですわ。毎年この時季になると、ひな祭りが楽しみでなりませんでしたもの」
 琴子は懐かしい情景を思い起こすように目を細めたけれど、すぐに頭を仕事に戻す。
「……ああ、でもそろそろ皆様の脱いだ衣装の片づけを手伝いにいかないといけませんわね。このお茶、任せてしまってもよろしいかしら?」
「茶は引き受けるが、衣装もやり方を教えてくれれば片づけるぜ。少しだけでも祭りに行ってきたらどうだ」
「そう、ですわね……」
 琴子は庭にちらりと視線を向けた。遣り水付近には流し雛に参加する者たちが集まっている。行きたそうな琴子のそぶりに気づいた壮太も、
「ここはオレらがやるから、参加してきていいんだぜ」
 と雷蔵の勧めを後押しした。
「それなら……少しだけ行ってきますわね。すぐに戻って参りますから……」
 衣装部屋の様子を見てきて欲しいと頼むと、琴子は急ぎ足で庭へと出て行った。
 
 庭での流し雛もあと少し。
 形代はその都度流されたけれど、願い事が書かれた和紙人形は桃舟に乗せられて、出発を待っている。
 庭に出た琴子は何を願うのか、目を伏せたまま願い事を書き付けて和紙人形に挿した。
 
「あ、琴子おねえちゃん」
 桃舟に人形を乗せている琴子に気づいて、ヴァーナー・ヴォネガット(う゛ぁーなー・う゛ぉねがっと)が走り寄って来て抱きついた。春らしいピンクの晴れ着姿がよく似合っている。
「みんなで、教えてもらったおねがいをしに来たです」
 ヴァーナーがみんな、と示したのは、青い晴れ着のセツカ・グラフトン(せつか・ぐらふとん)、赤の晴れ着を着て白いセントバーナードの上に乗っているクレシダ・ビトツェフ(くれしだ・びとつぇふ)、黄色の晴れ着のサリス・ペラレア(さりす・ぺられあ)。みんなそれぞれに似合う色の晴れ着を身につけている為、4人がそこにいるだけで場がぱっと明るくなる。
「ようこそ。これにお願いを書いてくださいましね」
 琴子は和紙人形を取ると、4人に1つずつ手渡した。
「おねがいを書いたかみを和紙人形さんにもってもらって、お舟にのってもらうんですね?」
 ヴァーナーがやり方を確認すると琴子は肯いた。
「ええ、人形がみんなのお願いを大切に抱いて船出するのですわ」
「そうしたらおねがい叶います?」
「ええきっと。だから一生懸命お願いして、お願いを叶えるようにたくさん頑張りましょうね」
 琴子はヴァーナーの頭を撫でると、では、と戻っていった。
「もう書くことは決めたの?」
「はい。みんなが幸せになれるようなおねがいを書くです。セツカちゃんもおねがい決めましたか?」
 聞き返されたセツカは、もちろんと即答する。
「考えるまでもなく、願いは決まっていますわ。クレシダはもう……あらあら、そんなに身を乗り出したら危ないですわよ」
 遣り水に興味を持ったらしくバフバフの背から乗り出して覗き込んでいるクレシダに気付き、セツカが注意する。
「セツカ、うるさいの、あっ!」
 言い返した拍子に、バフバフの毛を掴んでいたクレシダの手が滑った。このままだと水に落ちる。
「クレシダちゃん、おちちゃダメぇ」
 サリスが全身で抱きついたけれど、それでは止まらずに一緒に滑ってしまう。そして……ぽてっ。
「……あれ?」
 2人が落ちた先は地面の上。見事に方向転換していたバフバフは自慢げに、尻尾を振って吠えた。
 さすがに懲りたのか、少し大人しくなったクレシダは、今度は素直に願い事を書いた。
『ヴァーナーやセツカやサリスとずっといっしょ』
 大好きなヴァーナー、とりあえず役に立つセツカ、歌が上手なサリス。一緒にいると楽しいからずっとこのままでいたい。
 サリスの願い事は、
『うたをいっぱいべんきょうしてじょうずになりたい』
 ヴァーナーは願い事を書く紙をじっと眺めた。
 自分の考えに囚われてまわりが見えなくなってしまった人、星剣や強い力で我が侭を遠そうとする人、心を無くした機晶姫、悪人に操られた人、助けられなかった人……ヴァーナーの中には悲しい想い出がたくさんある。これからはそんなことがあって欲しくないからと、太陽や星や花をクレヨンで描いた紙にこんな願い事をしたためた。
『みんなが笑顔になれますように』
 そして、そんなヴァーナーを見ながらセツカは願い事を和紙人形に抱かせる。
『ヴァーナーが思うままにいられること』
 これからもきっと色々なことがある。悲しいことにも出会うだろう。けれどその先に、皆の願いが叶う日がありますように――。
 
 
 雛祭りがあると聞いてやってきた鬼院 尋人(きいん・ひろと)は、流し雛をする人々の姿に足を止めた。
 尋人は男4人兄弟の上、幼少の時から男子校に通っていたので、地球にいた頃から雛祭りというのは身近な行事ではなかった。けれど、知り合いも参加するらしいし、日本の料理もふるまわれるようだから、というだけでここまでやってきたのだが。
「願いごと、か……」
 何人もの人々が、願いを和紙人形に託している。自分も参加してみようか……。
 尋人が願いたいこと……それは1つしかない。
(同じ薔薇の学舎の仲間が、誰ひとり怪我をしたり命を落とすことなどないように)
 なかなか伝えられない思いだからこそ、願いを込めて流したい。尋人は他の皆に交じって和紙人形に願いをしたためた。
 その間も脳裏には、大切な友の姿がよぎる。
 父親のような温かな深い眼差しと言葉で、いつも見守ってくれる友……。
 驚くべき行動力と知能を兼ね備え、騎士として矢面に立つことを恐れぬ芯の強い友……。
 そして、事あるごとに物事を深く洞察すること、思慮することの大切さを示し導いてくれる先輩……。
 学友の中でも特に大切な人である、代わるもののない彼らの顔を思い浮かべ、尋人はその安全をただただ祈った。
 自分も彼らにふさわしい人間になりたいと思うし、競い合って成長していきたいと心に誓う。
 和紙人形を桃舟に乗せようとして、尋人は慌てて願いを追加する。愛馬アルデバランもも無事でありますようにと。
 
 
 人形に抱かせる紙を目の前に、人は己の願いを問いかける。自分は何を願うのか、それは何を大切にしているかの裏返しでもあり。
 何を書こうかと迷うことなく、ミレイユ・グリシャム(みれいゆ・ぐりしゃむ)は願い事の紙を書いた。シェイド・クレイン(しぇいど・くれいん)もさらさらと願いを書き上げると、和紙人形に差し込んだ。
 1人、悩む様子で考え込んでいたロレッタ・グラフトン(ろれった・ぐらふとん)は左右にいるミレイユとシェイドに頼んだ。
「どう書けば良いのか分からないのだ……。2人の願い事を見せて欲しいぞ」
「でも……何だか恥ずかしいなぁ」
「書き方を参考にするだけだぞ」
「うん、それなら……」
 はい、とミレイユは願いの書いた紙が挿してある人形を渡し、シェイドも怪訝な顔をしながら和紙人形をロレッタに差し出した……その途端。2体の人形を握りしめたロレッタは、ぱっと身を翻して走り出した。
「え、ロレッタ?」
「どこに行くんですか?」
 不意をつかれたミレイユとシェイドが驚いているうちに、ロレッタは人のいない方へと走っていった。そして庭の隅でこっそりと、2人の願いを開いてみる。一体どんな願いが書いてあるのだろう。
「ふむふむ……そうか」
 肯きながら願いを読むロレッタの口元に仄かな笑みが浮かぶ。読み終わって紙を人形に戻している処に、ミレイユとシェイドが追いついてきた。
「あ、いた! よかったぁ。どこに行っちゃったかと思った」
 ロレッタを見つけたミレイユは、ほっとした様子で抱きしめる。
「あまり心配させないで下さいね」
 シェイドはそう言って優しくロレッタの頭を撫でた。
「すまなかったぞ」
 ロレッタは謝ると、2人にそれぞれ和紙人形を返した。そして桃舟の処まで戻ったのだが。いざ舟に人形を乗せようとする段になって、ロレッタは思いついたように2人を見上げる。
「人形の中身は確かめたか? 間違って乗せては叶う願いも叶わぬぞ」
「間違うも何もないと思いますが……」
 そう言いながらもロレッタの意向を受けて挿した紙を確認した、シェイドの動きがぴたりと止まった。そこに記されていたのはこんな願い。
『シェイドの身体がこれ以上悪くなりませんように』
 自分の願いではもちろん無いその願いに、シェイドはミレイユを不安な気持ちにさせてしまっていることに気づく。
 そして、
「ロレッタって案外心配性だね」
 と笑いながら紙を開いたミレイユもまた、書いた記憶のない願いを見つけていた。
『これからも彼女を守り続けていけますように』
「彼女……?」
 首を傾げるミレイユの呟きに、ロレッタはじれったさを隠せない。
「お前さんに決まっておるぞ」
 そう教えつつ、ロレッタは手元の紙に『ミレイユの鈍感が治りますように』と記して人形に挿すと、さっさと桃舟に乗せた。
「ワタシ……えっ?」
 はっとあげたミレイユの目と、シェイドの目が真っ向から合った。
「あ、の……」
 戸惑っているミレイユの手からシェイドは和紙人形を取り、ミレイユのものと交換した。そして何事もなかったかのように、人形を桃舟に乗せる。
 ミレイユはどうしようかと思ったが、せっかく書いた願いだからと、自分も人形を舟に乗せた。
 見てしまった願い事。
 知ってしまい、知られてしまった心のうちにある願い。
 どんな顔をしていればいいのか分からずにぎこちなく視線を逸らすミレイユに、シェイドはいつもと変わらぬ優しい声音で言う。
「身体なら大丈夫ですから」
「う、うん……」
 シェイドに宥められて笑顔になってゆくミレイユに、ロレッタはやれやれと一仕事終えた笑みを浮かべた。
 
 
 そして、皆の願いを抱いた和紙人形を乗せた桃舟が出発する。どの願いも大切なものばかりだ。
 流し雛に参加しつつ、輪廻は笏で口元を隠してほくそ笑んだ。
「ふっふっふ、この俺の仕掛けに慌てふためくがいい」
 何か以前にもこんなことをやったような、と思いつつ遣り水の流れに乗ってゆっくりと動き出した桃舟に視線を注ぐ。桃舟が人の手を完全に離れて進み出した……その時。
 ポン、と軽い音がして、舟から桃の花びらが吹き上がった。
 濃桃色の花びらは一度舞い上がった後、風に乗って流れながらひらひらと舞い落ちる。桃舟の上に、遣り水の上に、そしてそれを見守る人々の上に。
 桃色の祝福を降らせるかのように――。