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南よりいずる緑

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序章 問いかけなる灯火

 筆を走らせていた腕が、最後の一筆を終えたところでようやく止まった。
 仕事に一区切りがついたところで、ニヌア家の執事――ロベルダはようやく身体の力を抜いて壁に掛けられている時計に目をやった。時刻はすでにお昼を回ろうとしている。そろそろ、彼女たちも最初の町へと着いた頃合いだろうか?
 そんなことを考えていたとき、扉をノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
「失礼します」
 礼儀正しくも堂々とした立ち振る舞いで入って来たのは、ニヌアに残ってロベルダの仕事の手伝いをこなしている沙 鈴(しゃ・りん)だった。彼女は何やら資料を持って、ロベルダの座る執務席にやってくる。
「こちら、頼まれていたものですわ。一応、シャンバラの方面でも当たってみたのですけれども、なかなかどうして……時間がかかりそうですわね」
「それは……致し方ありませんね。隣国とはいえ、向こうも費用を考えればそうそう簡単には結論を出せないでしょう。うちも、財政が豊かなわけではありませんし」
「資材不足は否めませんね」
 肩をすくめる鈴。
 隣国の商人ルートを辿ってみたはいいものの、向こうも商売であって慈善事業ではない。前向きに検討してくれているのはありがたいが、どれだけのものが確保できるかもハッキリとはしないのだろう。
 なんにせよ、彼女はとりあえずの資料をロベルダに手渡した。現状を把握しておくことも必要というわけだ。しかしながら、事案書や議会答申、果ては住民の苦情問題などという目安箱的書類まで……執務机の横に積まれるそれを見て、鈴は感嘆が絶えなかった。
「ほんとに……執事の仕事ですか? これ」
「普段はシャムス様ご自身でやられていることや、議員たちがそれぞれに担っていることも多いのですがね。なにせようやく戦争が終結したものでしょう? 復興にかかっては、通常の数倍の量になってしまって……」
「心労、お察しいたしますわ」
「そのために、鈴さんたちがいるのですがね?」
「……ですわね」
 鈴はあどけなく苦笑してみせた。
 ふと、彼女は窓の外に目をやる。そこにいたのは、自身のパートナーである綺羅 瑠璃(きら・るー)秦 良玉(しん・りょうぎょく)だった。
 良玉は、晴天の広場で真鍮色の鎧を身にまとった歩兵たちに軍事訓練を行っていた。目配せして許可を得て、鈴は窓を開ける。
「ほれ、そんなへっぴり腰でどうするね。軸をブレさせないように、ちゃんと足を踏ん張るんじゃよ!」
「はっ!」
 腰を掴んで直に指導する良玉と、軽快な返事を発する兵士たち。
 その近くで、瑠璃は南カナン軍の僧侶たちとともに救護訓練を行っていた。仮の被災者として用意した人型を利用し、迅速かつ丁寧に安全な場所へ運んで魔法治療と直接治療を行う。なんでも、この救護訓練は各地の療養所にレポートとして配布されるらしい。実験的研究の意味も兼ねているのだろうと、鈴は静かに思った。
 これもまた、戦争の後の姿だ。平和は徐々に戻りつつある。そして、元の姿を取り戻そうと、各地の復興もまた進んでいる。だが――。
「心配されているのですか?」
 鈴の心を察したように、ロベルダが声をかけた。特に驚くこともなく、彼女は答えた。
「……言うまでもないと思うが、戦時に自前で揃えられない兵力を友好国に頼るのと、平時に治安や政治を異邦人に頼るのは別のこと。徐々に線を引かないといけないだろうし、我々シャンバラ国の者も分をわきまえないといけないですわ」
 鈴はロベルダを見やった。彼は、ほんのわずかに頷いて応じる。
「国の運営はその国民で行わなければ、将来的に衛星国や植民地になってしまう危険性がある。本当の意味で復興というのなら、南カナンの領民を主軸にした体制を作り、次の世代でもそれを確かなものにするための再生がこれからの課題でしょう。契約者が全員いなくなっても立ち行くシステムを……」
「そのために、シャムス様がどう生きていくべきか。シャムス様へ問いかけなされたのは、そのためで?」
「これからのシャムス様に、興味もありますから」
 ロベルダの懸念に、彼女はいたずらっぽく笑ってみせた。
 “女性領主として、どのように南カナンを治める所存か?”
 鈴がシャムスへと投じた問いかけは、そんなものだった。別段、答えを求めているわけではなかった。ただ、考えることは重要だ。今と昔、過去と未来。絶えず変化するその中に、シャムスはいる。そして彼女自身もまた、『女性領主』となった今はもう一度――己を見つめ直す必要がある。
 少なくとも、鈴はそう思っていた。
 と――ふと彼女は、耳を澄ませる。
「しかし……あれだけ賑やかだったのが、今度は静かなものですわね」
 聞こえてくるのがパートナーたちと南カナン兵の声だけということに、なぜか鈴は少しだけ笑ってしまった。



 人数分の紅茶とティーカップを載せたトレーを片手に、ロベルダはシャムスのいる私室へと足を運んでいた。なんでも、視察の旅へ旅立たれる前の準備をしているそうだ。となれば、執事としてはそれにお茶をご用意しないわけにもいくまい。
 しかし、ロベルダがシャムスの部屋へと辿りついたとき、そこにいたのは何やら扉の前に座る二人の男性陣だった。
「おや……? 朝斗様に鴉様……そのようなところで何をなされているのですか?」
「あはは……」
 榊 朝斗(さかき・あさと)夜月 鴉(やづき・からす)。二人の若者はお互いに全く同じ苦い笑みを浮かべて、ロベルダを見上げた。
 何やら、シャムスの部屋からは騒がしい声が聞こえてくる。しかし、どうしてその中にこの二人が混じっていないのか? ロベルダは一瞬怪訝に思うも、何やら思い至ったように軽くうなずいた。そして……
「ロ、ロベルダさん……!? まずいですって!」
 朝斗たちの制止の声も意に介さず、彼は扉を開けた。
 そこにいたのは、鏡の前でわーわーきゃーきゃーと桃色混じりの甲高い声を発する女性陣であった。中心にいるのは――はからずもニヌア家の当主にあらせられるシャムス・ニヌア。そして、それを取り囲むのは朝斗や鴉のパートナーであるルシェン・グライシス(るしぇん・ぐらいしす)伊達 正宗(だて・まさむね)……それにシャムスの双子の妹君たるエンヘドゥ・ニヌアだった。
 それだけなら、何ということもない。
 だが、何より驚きというか……見る者の目を見張らせたのは、シャムスが鏡の前に立ち、エンヘドゥたちのオススメするいかにも女性らしい服をサイズ合わせしている様だった。
「シャムスさん、次、次これ着てみましょう!」
「な、なんだその肩とか太ももとか露出しまくりの服は……!? ひ、卑猥だろそんなのっ!」
「あーら、お姉さま。そんなことありません。ルシェンさんのご用意した服はまさしく紳士淑女の嗜みとも言うべき手本たる服。さあ、お姉さま……これから真の意味でお兄さまからお姉さまへと変貌を遂げるときです!」
 よく分からない理屈を勢いで言い放つやいなや、すぐにエンヘドゥとルシェンはシャムスへと飛びかかった。
「お、おい、エンヘ……ルシェ……あっ……だ、だめ……そこ……くすぐった……っ! ま、正宗……たすけ……!」
 シャムスの目は助けを求めて泳ぎだすが、肝心の正宗はシャムスの肌に触れて感嘆している。
「うむ、これはなかなか良い肌だ」
「そ、そんなとこ触……ひゃあぁっ!?」
「さあ、大人しくしてくださいませ、お姉さま!」
「や、やめ……のあああぁぁっ!」
 半ば無理やりに、押さえ込まれる形で服を引っぺがされるシャムス。彼女の悲鳴を聞きながら、平然としてロベルダはテーブルの上に紅茶のトレーを置いた。
 テーブルの傍には、一人――エンヘドゥたちの衣装合わせを冷静に傍観しているアイビス・エメラルド(あいびす・えめらるど)がいる。彼女の横で、ロベルダはカップに紅茶を注いでいった。
「いやはや、皆さんとても楽しそうですねぇ」
「そうですね。ルシェンも、いつもより活き活きとしているように思えます」
「アイビスさんは、ご参加されないので?」
「私は……ファッションというものはよく分かりませんから」
 淡々と答えるアイビスの目の前で、抵抗するシャムスと服を脱がそうと手伝う女性陣――いや、群がる狼たち。どことなく、変態的な荒い息づかいが聞こえてくるのは気のせいか?
 そのうち、シャムスはついに下着姿にまで露わになってしまった。そこはそれなりにこだわっているのか、純白の精緻な刺繍が施された高級そうな下着だ。羞恥に晒されて顔を真っ赤にするシャムスの姿を見て、うんうんとロベルダはうなった。
「ところで、ロベルダ様?」
「はい」
「いつまでこの部屋にいらっしゃるおつもりで?」
「え……?」
 アイビスの質問に間の抜けた声を発したのは、ロベルダ本人ではなかった。彼が部屋にいることを初めて知った女性陣が、一斉に振り向いたのだ。
 そして――
「きゃああああああぁぁぁ!!」
 扉を前にして座り込んでいた朝斗たちの目の前に、悲鳴とともにボコボコにされたロベルダが吹っ飛んできた。床にズザザッと転がったロベルダは、倒れ伏したまま、なぜかなにかを成し遂げた顔でぐっと親指を立てる。
「お嬢様……お、お綺麗でした」
 最後のその言葉は、きっと彼が亡くなったときに刻まれることだろう。
 朝斗と鴉はそんな勇者にも似たロベルダの雄姿に呆れにも似たなんともいえない表情を浮かべる。が、突然、その肩が背後からがしっと掴まれた。
「ふふふ……ちょーどよかったです、朝斗」
「鴉、ちょっとこっちに来い」
 嫌な予感はぬぐえない。ギリリ……ときしんだ音を発して振り向くと、不気味な笑顔のルシェンと正宗が、何やらメイド服だのフリフリスカートだのを、もう片方の手に持っていた。
 呆然と、二人の若者は顔を見合わせた。
「嘘で、しょ……」
「あなた方にも、萌え萌え計画を手伝っていただきます!」
「いやだあああぁぁぁ!」
 いつの間にか計画名さえ変わっているエンヘドゥの謀略。朝斗と鴉は同時に逃げ出そうとした。が、アイビスが放ったワイヤークローが、瞬時に二人を後ろから捕まえた。
「朝斗、残念ですが諦めてください」
「ア、アイビス……な、なんでええぇぇ」
「それは……読者や作者としてはそっちの方が面白いからです」
 なぜかキッパリと自信ありげに言い放ったアイビスの魔の手は、もはや止められない。まるで魔物の巣にでも引っ張られるように、朝斗と鴉は断末魔とともにシャムスの部屋へと引っ張り込まれた。
「あ、や……そこ、らめえええぇぇ!」
「お、お嫁にいけないいいぃぃ!」
「いや……鴉、そこはお婿だ」



 くすっと、ロベルダが笑った。
「どうしたんですか?」
「いえ……視察に行かれる前のシャムス様たちを思い出しましてね」
「ああ……ロベルダさんが廊下で幸せそうな顔で倒れていたときですわね」
 そのときのことを思い出して、鈴も楽しげにほほ笑む。結局、あの後気絶していた彼を介抱してくれたのは彼女だった。
 ロベルダは今ごろ彼女たちがどのあたりに着いているだろうかと考えた。
「少しは……骨休めにもなるかもしれませんね」
 そんなことをぽつりと呟く。すると、扉をノックする音が響いた。
「開いていますよ」
「失礼します」
 部屋へと入って来たのは、鈴と同様にロベルダの手伝いをするためニヌアへ残ったローザマリア・クライツァール(ろーざまりあ・くらいつぁーる)だった。彼女は部屋の中心までやってくると、軍人らしい毅然とした態度で報告した。
「エリシュ・エヌマの整備は終わりました。いつでも発進準備に取り掛かれます」
「分かりました――こちらもまた、長い仕事をしなくてはなりませんね」
 ロベルダの瞳が細くなり、それまでとは違った光を灯した。
 シャムス様たちが自分の役割をこなしているように、自分たちにも、与えられた仕事というものがある。それを再確認するように、ロベルダは机の上に大量に積まれた書類を見つめた。