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リアクション
・新生活の前に
――3月某日、空京
つい数時間前まではダンボールの目立った部屋が、今はすっかり片付いて簡素になっている。私物の無くなったこの部屋を見ていると、結婚したばかりの頃を思い出す。結婚して、ティセラ・リーブラ(てぃせら・りーぶら)と一緒に選んで入居して、届いた荷物を解く前、無個性な部屋を見回してこれからの生活に胸躍らせていた頃の事を。
それからまだ、1年も経っていない。
「んー……」
廊下に立った祥子・リーブラ(さちこ・りーぶら)は、知らず声を漏らしていた。
こうなるのはわかりきっていたことだけど、いざ目前に迫ると心の中にもやが残る。ずっとここに居たい、ここで生活したいと思っているのだと自覚してしまう。
年度が変われば、祥子は百合園女学院の教員になる。ティセラと離れて暮らすことになるのだ。ティセラはロイヤルガードとして残り、自分だけがここを旅立つ。
空京とヴァイシャリー。決して近い距離ではない。
(お務めのためだし、やりたいこと、やらなくちゃいけないことのためだから仕方ないんだけど)
そう割り切っているけれど。
メールや電話ではいつでも繋がれるけれど。
やっぱり、一緒が一番良い。
自室の前を離れ、ティセラと一緒に眠る寝室に足を向ける。持って行くような私物は無いし、自分達好みにインテリアされた部屋はそのままだ。今朝起き出して、2人で整えたダブルベッドも。
毎夜をここで過ごすのも、あと少しだ。
2人で並んで、手を繋いで。
幸せを感じながら眠るのも、当たり前になりつつあった。
だけど、これから4月までは、その幸せがとても貴重なものに思えるのだろう。
勿論、予定が無い時にはすぐに戻ってくるし、会えなくなるなんてこともないわけだが。
ふわりと、キッチンの方から甘い匂いが漂ってくる。配送業者がダンボールを運び出してから、ティセラと一緒にクッキーを作った。オーブンに入れていたそれが、焼き上がったのだろう。
「祥子さん」
背中からティセラの声が掛かる。振り返ると、ピンク色のなべつかみを着けた彼女が祥子に笑顔を向けていた。
「きれいに出来ましたわ。お茶にしましょう」
天板の上に並んだクッキーを、1つ2つ摘み食いしながらお皿に移す。それをテーブルの真ん中に置いて待っていたら、ティセラがティーセットを持ってきて隣に座った。よく蒸らした彼女お気に入りの紅茶が、カップにゆっくり注がれていく。
全てがいつもと同じ、よくある休日の光景だ。
「乾杯しましょう、祥子さん」
香りを燻らすカップを持って、ティセラがそう誘ってくる。祥子もまたカップを持ち上げ、少し考えてからこう言った。
「……当たり前の日々に、乾杯」
いつもは言わない言葉に、ティセラは僅かに目を瞠った。しかし、祥子の微笑を前にして何かを感じ取ったのか、ゆっくりと笑みを返してきた。
「……はい」
陶器同士が触れ合う、微かな音がする。一口紅茶を飲んでクッキーを手に取ると、それはまだ少し温かさを残していた。
「ヴァイシャリーに赴任するまでの間は、できるだけ一緒にいるようにするわ」
「……ありがとうございます。わたくしも、お仕事のない時は祥子さんと一緒にいたいです。もう、あと1ヶ月もないですからね」
穏やかな彼女と一緒にいると、安心する。ふとした言葉の合間合間から、彼女の想いを感じられる。部屋を包む、春先の暖かさとはまた違う暖かい空気に身を委ねながら、祥子は思う。
「これから、新しい当たり前が始まるんだろうけど……」
そしてそれは、生徒達にだけではなく自分にとっても明るい未来であるのだろうしそうでなければならないのだけど。
「明るい未来、かぁ。……大人として、私は子供達に何を見せることが出来るのかしらね」
あっちこっちで先輩風とか先生風とか吹かせてきたけれど、今度はそれとはまた違う。
今までは、好きなことを好きなように言ってきただけだ。だが、これからは発言のひとつひとつに責任が付いてくる。『教師』というのはそういう職業だから。
「……うまく、出来るかしら」
自分が不安がっていてはいけない。
そう、思うのだけど。
「大丈夫ですよ。前にも言ったと思いますけれど祥子さんは素敵な教師になれますわ」
カップを静かにソーサーに置いて、ティセラは祥子の手をそっと取った。
「あまり意識しないで、祥子さんは祥子さんのままで良いんですよ。どこへ行っても、何をしていても。考えすぎて、きちんとしたことを言おうとすればする程、きっと不自然になってしまいます。だから、本当に祥子さんが思うことを、生徒さん達に伝えていけば良いんです」
「私が、思うことを……?」
「今の祥子さんを、自分を信じてください。わたくしが好きになった祥子さんを」
そうして、ティセラは目を細める。励まそうとしてくれるのが分かると同時、励ましのための言葉ではなく、それが彼女の本心だということも伝わってくる。
「ありがとう、ティセラ」
自信を持てばいい。そう彼女に言われたことで、抱いていた不安が薄れた気がする。
「……弱音は、これが最後にしたいわね」
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