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【3章】扉を開けて


「何じゃ、楽しそうじゃのう」
 リトが初めて飲む抹茶の苦さにも慣れ始めた頃、ハーヴィが数人の契約者たちを引き連れてその場に現れた。
 御神楽 舞花(みかぐら・まいか)とともにハーヴィのすぐ後ろに控えている青年・御神楽 陽太(みかぐら・ようた)――ハーヴィには先程、舞花経由で茶会の招待状を受け取った旨の報告と、パートナーである舞花がいつも世話になっている等の挨拶を済ませてきた――などは初顔であったが、その他の面々がほとんどよく見知った顔であることに気付いて、カイはこの後彼らがどこへ向かおうとしているのかを察した。
「……行くんですか」
「うむ。ちょっとのう」
 柔らかく微笑んだハーヴィが目的地を告げることはない。しかし、リトは幼馴染の声色に何かを感じ取ったのだろう。抹茶茶椀を緋毛氈の上に降ろすと、そのまますっくと立ち上がって言う。
「あのシスコン眼鏡の所でしょう? 私も行くわ」
「なっ――!?」
 迷いのないその言葉に、思わずカイまで腰を上げてしまう。リトの性格から考えて、言い出したらもはや止めることは出来ないだろう。それなら俺も付いていく――そう言いかけて、しかし結局カイは口を噤んだ。今のリトやハーヴィには自分より余程有能な契約者たちが付いている。それを思えば、下手に同行するよりも集落に留まっていた方が良いだろう、とカイは自分に言い聞かせた。
 「お前さんはリトを止めるかと思ったんじゃがのう?」と少し悪戯っぽい口調で問うハーヴィに肩をすくめ、彼はあらかじめ幾つかのどら焼きを包んでおいた袋を餞別代りに押しつける。
「止められたって行くわよ」
「……分かってるよ。リト、族長、皆さんも。気をつけて行って来てください」
 仕方なさそうな微笑を浮かべて、カイは静かに一行を見送った。


 封印の洞窟内に足を踏み入れたのは久しぶりだったが、相変わらずの暗く湿っぽい空間に、リトは少し陰鬱な気分になる。嫌な記憶については出来るだけ考えないようにしながら、ただ黙々と足を前に進めた。
 一行は特にこれといったアクシデントもなく洞窟の最下層へ辿り着き、扉の奥に明かりが灯っているのを目にする。そこはかつてリトが『煌めきの災禍』として自らを封じていた場所であり、その後ダリル・ガイザック(だりる・がいざっく)によって彼女を診療するための機能を与えられた部屋でもあった。リトが封じられていた時のように壁面が氷結しているわけではないものの、やはり地下ということもあってかかなり冷える。
「おや……皆さん、お揃いで」
 扉を開けて応対したソーン・レナンディは、一行の姿を見ると少し戸惑ったような愛想笑いを浮かべる。
「皆お前さんの様子を見に来てくれたんじゃ。お邪魔させてもらうよ」
「言っとくけど、私は別にあんたの様子を見に来たわけじゃないからね」
 ハーヴィとリトは、ソーンの返答を待たずにさっさと部屋の中へ入って行く。
「……ええ、分かっていますよ。今お茶でもお淹れしますね」
 全員を室内に通してから、ソーンは応接セットの傍に小型のストーブを運んできて火を入れた。テーブルやソファ、その他最小限に抑えられた家具類などは入り口から見て左側にまとめて設置されており、残りのスペースには診察台や作業用デスク、コンピュータ類等が置かれている。間仕切りなどはないが、大まかに言って室内の三分の一が居住スペースで、三分の二が診療所のような空間となっていた。
「お茶でしたら、これをお使いください」
 そう言って舞花が持参してきたハーブティーとお菓子をソーンに差し出すと、エース・ラグランツ(えーす・らぐらんつ)も手製のお茶を取り出して見せる。
「こっちがカモミールに、ローズヒップ。蜂蜜を少しだけ入れると疲れた時にとても良いんだ。研究中に気分をリセットするのに最適なペパーミントも持ってきたから、気が向いた時に飲むと良いよ」
「あ、蜂蜜ではありませんが、妖精さんから手作りのジャムを分けて貰ってきたので、これも皆でいただきませんか? たまにはロシアンティー
も良いものですよ」
 鬼龍 貴仁(きりゅう・たかひと)はベリージャムの小瓶を三つ、応接台の上に置いて見せる。
「これはこれは……皆さん、お気遣いありがとうございます」
「というか、ソーンさんちゃんと昼食食べましたか。美味しいお茶とお菓子をエースの大切な友人に楽しんでいただきたいですし、ちょっと台所お借りしますね」
 そう言って調理器具を手にしたのはエオリア・リュケイオン(えおりあ・りゅけいおん)。エースが経営している猫カフェの厨房担当としては、お茶会と聞いて黙ってはいるわけにはいかなかった。エースや同じく彼に同行してきたリリア・オーランソート(りりあ・おーらんそーと)が万全のお菓子を出せるかと言うと……――何より、お茶だけで茶会は成立しないのだ。
 それに何となくではあるが、ソーンは研究に没頭すると寝食を忘れるタイプのような気がした。そのためエオリアは、菓子作りを終えてもそのままここに調理器具を設置していくつもりでいる。
「ああ、僕のことはお気になさらず。必要な栄養素は、ちゃんと摂っていますから」
「大丈夫。エオリアのお菓子はとても美味しいのよ。ちゃんと甘い物は苦手だって言っておいたから、甘み抑えめの美味しいお菓子を作ってくれるわよ」
 何故か自慢げに、リリアはそう言って笑った。
「今日はお茶会。村の行事に乗っかる事も日常の維持には大切な事よ。油断するとまた1人で研究に没頭しちゃって、視野が狭くなるわ。色々な人と関わって、話を聞く事も大事だと思わない?」
「ああ、今日だったんですか。それで皆さんがわざわざ来てくださったと……」
 ようやく合点がいった様子で、ソーンは「なるほど」と頷く。
「とりあえず座ってください。席が足りなければ、何か代わりの物をお持ちしますので」
 応接台を囲むように設置されたソファを客人たちに示すと、ソーンはしばし手持無沙汰な様子で一行が着座する様子を眺めている。
 陽太は席に着かず、そんなソーンの傍へ歩み寄って挨拶を交わした。そして「もし宜しければ」と前置きをして、主に金銭や設備投資の面で彼に協力をしたい旨を告げる。昔、愛する妻(当時はまだ結婚していなかったが)を地上に取り戻すためにナラカに行った経験がある陽太としては、ソーンの大切な人を失いたくないと想う気持ちに共感を覚えずにはいられなかった。そのため失礼にならないように言葉を選びながら、彼は援助を申し出たのだ。
「それは大変助かりますが……宜しいのですか?」
「ええ、もちろんです」
 ただし研究成果の権利については共同で所有すること、というのが陽太の出した唯一の条件であった。今となってはそれに対して異を唱える理由もなく、ソーンは有り難く彼の援助を受け入れる。
「【設備投資】ね。それならルカも協力するわ」
 正直言って悠長にお茶を飲んでいられる気分でもなかったルカルカ・ルー(るかるか・るー)は、待ってましたとばかりに立ち上がり、パートナーであるダリルの意見も聞きつつ、陽太とともに室内の改築および設備の刷新に乗り出した。この空間に研究施設としての高度な機能を持たせることが出来れば、何をするにしても作業効率は格段に上がることだろう。
「さあ、食事はちゃんと取ってくださいね。不摂生は駄目ですよ」
 エオリアが焼き上がったばかりのスコーンとクッキー、フィナンシェにマドレーヌ、それからサンドイッチを持って戻ってくる。ハーブティーの繊細さに甘やかな香りが加わって、ともすればここが洞窟の最深部であることを忘れる程にリラックスした空気が周囲を包んでいた。特に焼き菓子好きのハーヴィなど、焼き立てスコーンにラズベリーのジャムを付けて頬張り、至極ご満悦な様子だ。
「そういえばソーン、君はちゃんと冬越しの準備をしているのかい?」
 ティーカップを手にしたまま、エースは軽く室内の様子を見回して尋ねた。部屋の反対側では、設備の拡充が続けられている。
「ええ、まあ何とか。それに僕は北国育ちですし……ほら、あの島、季節を問わず日照時間が極めて短いんですよ。それに比べれば、こちらは冬でも太陽の恩恵を受けられますから」
 そういえば、灰色の島といいその隣の島といい、季節の割には肌寒さを感じる気候ではあった。
「あの疫病……その病原たるウイルスも、ああいった気候条件の中で流行るように最適化されたものですし。その意味では、別の地域で猛威を振るうことはそうそうないでしょうから、その点に関しては安心していただいて良いと思いますよ」
「最適化された、とは?」
「灰色の島の古代遺跡で細菌兵器の研究が進められていたのはご存じでしたよね。古代――あの辺りの島同士による長い戦があった頃、古代遺跡では大きく分けて二つの研究が行われていました。一つ目は殺すための……すなわち細菌やウイルスを生物兵器として用いるための技術開発です。敵は遠く離れた場所ではなく近隣の島々でしたから、極端にいえば砂漠や熱帯で増殖するタイプの細菌では使い物にならない。ですから、あの群島の気候条件の下、効率的に敵の戦力を削ぐために生み出されたのが、例の疫病の元となる病原菌なんです」
 そこまでを一気に語って、ソーンは一度ハーブティーを口に含む。
「でも、それだと敵だけじゃなくて味方にも被害が出ない? だって、その……」
 少し言い辛そうに疑問を口にしたリリアに対し、ソーンは「仰りたいことは分かります」とばかりに頷いて、ちらりとリトの方を一瞥する。しかしリトは話を聞いているのかいないのか、別段気にした様子もなく皿上のマドレーヌに手を伸ばしているところだった。
「当然、その問題を克服するための研究も行われていたはずです。御しきれない兵器など、言語道断ですからね。ですが結論から言えば、当時の研究者たちは思うような成果を上げられなかった。その時に夢の特効薬でも作ってくれていればどんなに良かったか、と僕も思いますが……結局、自衛のための手段を手に入れることが出来なかったため、それが兵器として日の目を見ることはなかったんです。地震によってパンドラの箱が開けられなければ、現代になって疫病が島に蔓延することもなかったでしょう」
「扱いきれないものを、兵器として利用しようとしたってこと? 実際に使われなかったとしても、あまりに愚かしいわね」
「ええ。ですが、研究者たちは別のアプローチで自らの身を守る方法も模索していました。細菌自体を御しきれないのなら、自分たちがそれに負けない強靭な肉体を得れば良い、と。これが大きく分けたうち二つ目の研究ですね。言わば生かすための研究……ご存じの通り、機晶姫として生まれ変わるための研究です。最終目標は島の兵士たちを不死身にすることだったようですが、その前に魂の不死が伝えられる精霊を実験体とすることで、『永遠の生命』の存在を確認しようとしたらしい」
 そこでソーンは言葉を区切り、リトの様子を窺う。
 リトはしばらくティーカップから口を離そうとしなかったが、ついにソーンの視線が自身に注がれていることに耐えられなくなったらしく、一つ大きな溜め息を吐き出した。
「でも、私があの施設から逃げ出す時に氷漬けにしちゃったから、全部の研究がとん挫したんでしょ? はっきり言いなさいよ」
「いえ、僕が言いたかったのはそういうことでは無いんですが……いずれにせよ、二つの研究はどちらも完全な技術の確立には至らなかったわけです」
 リトの反応からいっても、ソーンの言葉に偽りはないのだろう。しかしリリアには合点がいかない点があった。 
「それが分かっていたのに、あなたはあの装置を使おうとしたってこと?」
 ソーンの言い分だと、彼はそれが不完全な技術だと知っていてなお、転生ポッドを用いろうとしたということになる。
「あの装置を使って『転生』を成功させるために必要なものは、機晶姫の体と機晶石二つ――すなわち機晶姫に『転生』する際に魂の台座となる機晶石と、装置自体の動力源となる機晶石。それから『転生』の対象者と、対象者の肉親です。この肉親は、対象者の魂が機晶石に宿り、機晶姫の体と上手くシンクロするための仲立ちとなります。この時ポッド内で純粋な生命エネルギーに置換された肉親の身体は文字通り消滅しますが、精霊であるヴィズ君の場合は、装置の動力源となっていた機晶石に魂が宿ったんです。しかし、仮にあの時僕がハガルの『転生』に成功していた場合、僕の魂は肉体と共に消滅していたことでしょう。装置を動かしていたのは普通の機晶石でしたし、僕自身が長寿種でも何でもありませんからね。それでも、僕はずっと姉の死さえ防げれば良いと思っていましたので」
「そのことなんだが……」
 今まで沈黙を守っていたダリルが、唐突に口を開く。見れば、いつの間にか設備の拡充も終わっていたらしく、パートナーであるルカルカもソファに座る彼の後ろで話を聞いていた。
「ハガルの魂を機晶石に定着させて機晶姫として復活させることは、可能だと思う」
 そう言って確かめるように軽く振り向いたダリルの視線を受けて、ルカルカは力強く頷く。
「定着方法の研究と検証に日数がかかるのが難点だけど、従者達も使って成功に導きたいわ。記憶の全てが残るとは限らず、定着の際に幾つか零れ落ちる可能性もあるけれど……でも、愛は残る」
 その言葉を受けて、ソーンは何かを思案するように黙したまま目を伏せる。
 代わりに口を開いたのは、エースの隣に座ってこれまでの話を聞いていたメシエ・ヒューヴェリアル(めしえ・ひゅーう゛ぇりある)であった。
「私個人の見解としては、ハガル自身が望まない形で彼女をこの世界に縛り付ける事は『救済』ではなく、彼女をこの世に縛り付けるだけの呪いになってしまうという危惧があるのだね。だから彼女を物質に縛り付けるのではなく、人間のまま、治療出来ればと思っているよ」
 エースもそれに同意して言葉を継いだ。
「何よりハガルはまだ完全に死んでしまったわけではないし、ルカルカがハガルを魔石に封印してくれたから、時間的には少し猶予が出来た。何とかして彼女を助けたいって思うのは、自分達も同じだから、ソーンの研究を手伝いたいんだ。……彼女が死に向かっているのは例の病原菌のせいだけなのか? 自分達はワクチンのお陰で罹患せずに島に渡れた。でも、ハガルに薬を投与して治るかというと、ソーンが色々と方法を模索していることからもそう単純な話ではないということだよね」
 エースは依然読んだ診療日誌に書かれていた「姉さんが作った薬が、何故姉さんに効かないんだ」という一節を思い返しながら、ソーンの方を見やる。
「でも君は罹患した人間を治療した実績がある。君を頭と仰ぐ人たちを治療した事があるのだろ。そこからハガルを治療する手掛かりが掴めそうな気がするけどね」
「彼らはまだ発症したばかりで、それ程重篤な症状も出ていませんでしたから。ハガルが作った薬がなければ、僕は何も出来ませんでしたし……それに、ハガル自身にその薬が効かないのには理由があるんです」
 薬学が専門であるメシエと医学・薬学にうるさいエースは、治療のヒントになるかも知れないからとソーンに続きを促した。
「先程お話しした細菌……仮にXとしましょうか。島に蔓延したこの細菌Xは強い病原性を持ち、感染すると宿主が死ぬまで細胞に取り付いて増殖を続けます。そして極めて厄介なことに、兵器として開発されている段階で、生物の体内において異常なスピードで進化を繰り返すという特性を得ました」
 ウイルスの進化スピードが早いことはよく知られているが、Xについてはそれさえも遥かに凌駕するものであることをソーンは強調する。
「抗生物質を投与してもすぐに耐性菌であるX’に進化してしまう……と言えば分かりやすいでしょうか。世代を重ねるとこの細菌が持つ病原性・毒性は高まり、同時に人が感染した場合の致死率も上がります。ですから、治療法を確立することが困難であったわけです」
「でも、ハガルは薬を作れたんでしょう?」
 話し合いが過度に煮詰まらないよう、リリアが口を挟む。ソーンはそれに頷いて、説明を続けた。
「ハガルがやったことを簡単に言うなら、その特性を逆手に取って進化を促進させた、ということになります。故意に世代を重ねさせ、強力な菌を生み出したんです」
「スーパーXってこと?」
「ええ。そしてそのスーパーXは、前世代の菌に取り付いて攻撃するという性質を得ました。ウイルスと違って細菌には細胞がありますから、そこに取り付くんです。そしてこれを培養し、弱毒化したものがハガルの開発した薬、ということになります。……問題は、それを全て彼女が一人、地下室で行ったということ。軟禁状態で実験動物もいないそんな状況下で、治験や実験に使える生体といったら、自分自身しかいなかった。つまり、ハガルの体内に巣くっているのは進化した細菌兵器なんです。……ああ、世代を重ねれば重ねるほど病原性は高まりますが、人から人への感染性は薄らいでいますから、ハガルに触れた方もご心配は要りませんよ。スーパーXに感染力はありません。現状、宿主となっているのはハガルただ一人ですし、これから広まることもないでしょう」
 そこまでを一気に語り終えたソーンは、一度長い息を吐く。
「唯一の感染者であるハガルに何が効くのか、僕にはもう分からないのです。下手な薬を投与すれば死んでしまうような状態ですし、他に試せる人や動物もいません。僕としても、今は出来るだけ人間として彼女を助けたいのですが……」
「ソーン。ハガルの生体データは?」
 ソーンの言葉を遮って、何かを思いついたらしいダリルが尋ねる。
「H-1をハガルに似せるため、身体的な情報も、記憶に関する情報も、得られる限りのデータは全て吸い出しました。今も保存してありますが……?」
「なら、H-1を復元しよう。ハガルの肉体を再現し、部分的に感染した細胞を定着させる。治療薬が出来次第投与、拒否反応を確認し、安全性を確かめてからハガル本人に投与する……という流れはどうか」
 復元可能かどうかは見てみないことには分からないし、技術的な問題で行き詰まることもあり得る。しかしルカルカに「ダリル、彼等を助けて」と言われてしまった身としては、何もしないわけにはいかないのだ。
 エースとメシエも薬の開発に協力は惜しまないと言う。
 舞花も、「フューチャー・アーティファクト」の未来世界の医療データを提供することを告げる。
 彼らの言葉を聞くと、ソーンは一度ゆっくりと目を閉じてから冷めたハーブティーを飲み干し、腹を決めたように頷いた。