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 第1章 勝利の父は方向音痴

 2023年4月、綾原 さゆみ(あやはら・さゆみ)は空京駅のホームで新幹線を待っていた。電光掲示板に表示された到着予定時刻と現在の時刻表示には1分程の差異しかなく、いつ到着してもおかしくない。空のホームに車両が滑り込んでくる光景を想像し、そして、彼と会える時を想像して心がときめく。
「もうそろそろかな?」
 今度の新幹線には、父親の綾原 規夫が乗っている。メールでのやりとりはあっても、48歳になる彼とはもう数年会っていない。1年前の正月に帰省した際にはイタリアへ出張していて不在だったし、その後も、会う機会は作れなかった。それが、さゆみの春休みと彼の商談が重なって今日運良く会えることになったのだ。
「あっ……、来た!」
 期待を胸に、今か今かと線路の向こうに首を伸ばす。新幹線の先頭部分が見えたのはその時で、さゆみは白線から距離を取った。それから間もなく降車が始まり、人々の合間から規夫が現れるのを心待ちにする。しかし――
(来ない……?)
 皆が次々に改札へと向かっていく中、未だ彼はやってこない。降りてくる人の数は既にまばらで、忘れ物がないか確認しているのだろう、駅員が座席の間に目を配っているのが窓越しに見える。
(どうしたんだろう? まさか新幹線に乗ってない?)
 少し、不安になってくる。
 急ぎの仕事でも出来たのだろうか。ありえないことではない。多忙なビジネスマンである父ならば――
「ぶるぅあああ!!」
「!!!?」
 突然背中から掛かった絶叫に、さゆみは体をびくっとさせた。正常な反応だ。後ろから『ぶるぅあああ!!』などと不意打ちされてびくっとしない人はいないだろう。多分、ドージェでもびくっとするだろう。
 だが、彼女は瞬時に持ち直した。この、独特の渋い声と怪しげな悪人のセリフ回しは……と、意識した途端に振り返る。笑顔が零れた。
「お父さん! いきなり『ぶるぅあああ!!』はないでしょ!」
『ぶるぅあああ!!』と叫んだ多忙なビジネスマンに、さゆみは抱きつく。目の前にあったのは、数年ぶりに見た父の顔だった。髪を軽くなでつけた彼は、先程の叫びからは想像出来ないようなダンディな男性だ。
「いや、さゆみが別のように美人になっていたからつい叫んでしまったよ。気付かなくて探してしまったくらいだ」
「もう、お父さんったら……あはは」
 さゆみが子供の頃、規夫とは『魔法少女と悪の魔王』という物語遊びをよくやった。その時の思い出が甦り、父から離れた彼女はつい笑ってしまう。
「あはははっ」
「わっはっはっはっはっ」
 2人の笑い声は、人の減ったホームに意外なほど響いた。残っていた客や駅員達が振り向いても、親子は人目憚らず笑い合っていた。

 駅の外に出ると、うららかな春の風が頬を撫でる。空は抜けるような青空で、寒くもなく暑くもなく心地良い。規夫の宿泊するホテルに荷物を置き、2人は適当に街をぶらつく。「案内するわ」とさゆみは言ったが、実際は時々で道を選んでいるだけで必ずしも彼女が
「お母さんは? 具合はどう?」
「ああ……あまり思わしいとは言えないな。今日も来たがってはいたんだが、ドクターストップがかかったんだ。だが、急を要する状態でもない」
 少し神妙な顔をして規夫は言う。さゆみも自然に笑顔を収める。
「そう……。そうだ、ねえお父さん、私、パラミタでもコスプレイヤーとして活動してるのよ。ついには芸能界デビューも飾ったの」
「ほう、芸能界デビューか!」
 規夫の表情がぱっと綻ぶ。彼と母の真理子もコスプレイヤーだ。というか、さゆみの持つコスプレについてのあれこれは殆ど両親から教わったものだ。
「うん。ほら、アルバムも出したの。お母さんと一緒に聞いてくれると嬉しいな」
 そして、バッグに入っていた最近出たばかりのCDを手渡す。彼女自身のサイン入りだ。彼女は今、空京大学に通っている。ノリで受けた東大よりも最難関と言われる大学だが、まさかの合格を果たしてキャンパスライフも楽しんでいる。
「大学との両立は大変だけど、充実した日々を送ってるのよ。例えばね……」
 活力も満点に、さゆみは話す。浮遊大陸に来てから既に5年。パラミタでの冒険譚に、そこで出会った様々な人との出会いと別れ。規夫には話したいことが、メールでのやり取りだけでは伝えられなかったことが沢山ある。
 それに、最愛の人の話とか――
 楽しそうに、幸せそうに語られる彼女の思い出と経験を、規夫は時にツッコミを入れながら一心に聞いた。恋人の話になった時は大人になった娘を実感して再び『ぶるぅあああ!!』と言いたくなったが。
 それも含め、こうして直に、顔を見て話すことで数年間の空白が少しずつ埋まるのを規夫は感じる。ホテルに帰ってからも、きっとこの時間のことを何度でも思い出すのだろう。
(……ん?)
 そこで、彼はハタと気付いた。楽しい時間はあっという間に過ぎ去る。だが、実際は結構な時が経過しているもので、2人は結構な距離の中で結構な回数、曲がってきた。ここは――
「さゆみ、方向音痴は治ったのか?」
「それでね……え?」
 夢から醒めたようにぽかんとして、さゆみは規夫を見返した。街並を見遣り、また彼と目を合わせる。自分が住んでいる街でも、例外ではない。
「治ってない……けど」
 親子揃って、迷子になった瞬間だった。