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【両国の絆】第一話「誘拐」

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【両国の絆】第一話「誘拐」

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【平穏の破れる時】


 時間は、事件の起こる一時間ほど前まで遡る。

「………………」
「何を緊張しているんだ、らしくもない……」
 
 少女ナナシをつれ、準備室を訪れたクローディスは、呆れた調子でディミトリアスの背中を叩いた。
 あまり表情を崩さないため、知らない人間からは判り辛いが、妙に張り詰めていて落ち着かない様子、というより、簡単に言えば途方にくれている、と言うのが近い様子だった。どうやら、教室の中の滅多に無い空気に戸惑っているらしい。生前は術士の長だったというのに、可笑しい奴だなと笑うクローディスに恨めしげな目線を送っている間にも、部屋には次々と来訪があった。
「久しぶりだな、元気そうで良かった」
 そのうちの一人。ディミトリアスたちのやりとりに軽く笑いながら教室に入ってきた早川 呼雪(はやかわ・こゆき)の姿に、ディミトリアスは僅かに肩から力を抜いて「あんたもな」と息をついた。長く顔を合わせてはいなかったものの、ディミトリアスにとっては恩人の一人だ。教師の顔が僅かに緩んだその表情に目を細めつつ、ちらりと室内を見やって呼雪は思わずと言った様子で「しかし」と口を開いた。
「……閑古鳥と聞いていた割には、賑やかだな」
「本当にね、随分盛況じゃない」
 友人達からの話を聞いて受講に訪れたリカイン・フェルマータ(りかいん・ふぇるまーた)も首を傾げて見せたが、ディミトリアスの顔は微妙なものだ。
「普段は一人か二人、いる程度なんだがな……」
 そう言って見回した教室は、盛況と言っていいほど人が入っている。ジェニファ・モルガン(じぇにふぁ・もるがん)マーク・モルガン(まーく・もるがん)、そしてベルク・ウェルナート(べるく・うぇるなーと)グラキエス・エンドロア(ぐらきえす・えんどろあ)が最近顔を出すようにはなったが、それまでは不定期気味とは言えまともに授業に顔を出すのはアレクサンダル四世・ミロシェヴィッチ(あれくさんだるちぇとゔるてぃ・みろしぇゔぃっち)ハルカ・エドワーズ(はるか・えどわーず)ぐらいだったのだから、この状況に戸惑いを覚えるのも仕方が無いのかもしれない。再びため息を吐き出したディミトリアスの背中を「何、始まれば落ち着くさ」と呼雪は軽く叩いた。
 そうして呼雪が旧交を温めている間、ヘル・ラージャ(へる・らーじゃ)も「お久しぶりー」とクローディスに声をかけていた。
「元気にしてた? まさか生徒さん、じゃないよねぇ」
「ああ……ん? まさか。私は付き添いだよ」
 そう応じるクローディスに、軽く探るような視線を送ったのは清泉 北都(いずみ・ほくと)だ。「本当に?」と言いたげなのは、先日の遺跡での後遺症を心配してのことだろうと察して、クローディスは苦笑する。
「まだ少し、影響が残ってるらしいが……私自身に自覚症状は無いんだ」
 療師が言うには、かつて精神をリンクさせたアニューリス・ルレンシアの時とは違い、一時的とは言え魂が繋がってしまったために、その影響は恐らく抜けることは無いが、普段生活する分には影響が無いらしい。そう説明している間、クナイ・アヤシ(くない・あやし)とヘルは違うことが気になったようで、その視線をクローディスより下に下げた。
「ところで、この子は?」
 ヘルが首を傾げるのに、少女は無言でじっとその顔を眺めた。瞬間、人形が動き出したような不気味さに、見ていた何人かが、得体の知れない感覚に肌を撫でたが、その反応をさもありなんとクローディスは苦笑してその頭をぽんぽんと軽く撫でた。
「氏無から預かっている子でね、名前はナナシ――しゃべれないから、気をつけてやって欲しい」
「ナナシちゃんかあ、よろしくね?」
 その紹介に、ヘルが屈んで視線を合わせると、少女はぱちりと瞬きをするとこくんと頷いて見せた。その仕草は、本当に人形のようで、今度は不気味さより可愛らしくも見えるから不思議なものだ。反応を面白がるように、伸ばした指をつつきあったりしているのを微笑ましそうに見やりながら、その髪の毛へそっとクナイがリボンを結んだ。きょとんと首を傾げるナナシに「お守りですよ」とクナイが微笑んだところで、パン、とディミトリアスの手を叩く音が聞こえた。授業を開始する、という合図だ。
 慌ててそれぞれが席についた中で「……ここ、いい?」とクローディスに声がかかった。
 イルミンスールの大図書室に、白の絵本だった、蛇と龍と花の物語がつづられた絵本を寄贈に立ち寄ったついでに訪れていたタマーラ・グレコフ(たまーら・ぐれこふ)三毛猫 タマ(みけねこ・たま)だ。小さいもの同士気でも会うのか、一瞬目をあわせると、お互いにじっと見つめた後で、タマーラとナナシはこくん、と何のシンパシーなのだか頷きあったのだった。尚、その光景にクローディスをはじめ、何人かが微笑ましげに見ていたのはまた別の話だ。



「……よって、今渡した刻印の護符に刻まれたこの文字は「灯」と言う意味を単独で持つため、それ自身が魔力を持つ媒介へ刻印することによって、使用者の魔力の有無に関わらず発動することが可能だ。また「力ある言葉」は言葉自身の力であるため、現代の魔法技術では、魔法の発動と認識されないケースもある。このように、文字そのものが意味を持つものについては特に応用範囲が広いため、先ずはこれらを集中的に暗記していくのが――……」

 そんなこんなで、授業が始まってから数分。
 そもそも現代においては、その発動の遅さや使用の難解さ故に、当時の言語を日常言語とするディミトリアス以外には、応用力の高さ以外にあまりそのメリットの少ない古代魔法だ。例えば現代魔法なら「火」の一言で済む呪文を「どこに、どういう、どの程度の火」と指定する必要があるという回りくどさで、普通の生徒であればすぐ学ぶ労力と結果が見合わないと気付くために結果的に「閑古鳥講義」と化し、更に本人の性格のせいもあって「イルミンスールいち退屈な授業」との異名を持つディミトリアスの講義は、いつもの通りに恐ろしく淡々と淡々と進んでいた。
 古代魔法学、と名前はついているが、術を理解するにはまずその基礎たる言語から、というディミトリアスの信念により、実質は古代語の授業である。その退屈さの破壊力たるや凄まじく、別の用事で訪れ、最後列に陣取ったリリ・スノーウォーカー(りり・すのーうぉーかー)はあっという間に沈没してしまったし、彼女だけではなく木之本 瑠璃(きのもと・るり)ノート・シュヴェルトライテ(のーと・しゅう゛るとらいて)も既に睡魔の懐の内だ。風森 望(かぜもり・のぞみ)のように内職を始めるものもいる始末で、古代語に関心が深い者たちがなんとかギリギリで意識を保っているというところだ。それでも手元のノートにみみずを描かないで済んでいるだけマシ、と言う程度である。
 理解は出来なくとも暗記すれば同じステージの端っこにでも立てるかもしれないと、そのつもりでやってきたが、なるほどこれは アレクのような辞書の端から端迄何も考えずに暗記するガリ勉タイプにしか、本気の習得は叶わないはずだ、とリカインが納得と共に何度目かのあくびを噛み殺した時だった。
「ひとつお聞きしたいのだが!」
 そう言って手を上げたのは、一般学生の高天原御雷として講義に紛れ込んでいたドクター・ハデス(どくたー・はです)だ。質問をするようなタイミングではなかったが、ディミトリアスが構わず発言を許すと、まるで世界の謎を問うていると言わんばかりの真剣な顔でこう言った。
「本当に閑古鳥の鳴き声はカッコウと同じなのだろうか…?!」
「…………」
「…………」
 一瞬、なんとも言えない空気が室内に落ちる。ディミトリアスはこほん、と咳払いしてそれでも何とか授業を再開した。
「…………同じだ。というよりは、閑古鳥はカッコウの別名であり、その名前の由来であるオスのカッコウの鳴き声に物寂しさを見出した地球の島国の人間が、転じてその光景そのものを物寂しいと表現するのに応用したことで、閑古鳥が鳴くという言葉そのものが、寂れた様子を示すようになったというわけだ。このような比ゆ表現は古代でも存在していて、例えば雨音という単語を天から降り注ぐものという意味で喩えさせることで、その強弱と形容する文を付け加えることで、魔術的効果を追加、特定し――」
 そんなようにして結局、再び教室が退屈な空気に飲み込まれていく中、ひっそりジェニファが顔を赤らめていたのは、マークにしかその理由も含め判らないことであった。

 そんな風にして、淡々と退屈ではあるが平穏な時間が幾らか流れた、その更に数分後――異変は起きた。
「――では、先生。ひとつ、お願い事が、あるんですが」
 一人の生徒が、席を立ってディミトリアスへと近づいていく。それはあまりに自然な動きだったので、一同は一瞬、反応に遅れた。その、次の瞬間。ディミトリアスが飛び離れたのが先だったのか、巻き起こった風――飛び込んできた、ローブを着た男の拳圧――が早かったのか、ディミトリアスは生徒側の机に激突し、教壇は一人の少年のものとなっていた。見た目程大したダメージは無かったようで、すぐに起き上がって生徒を庇うように下がったディミトリアスと契約者たちに向けて、少年は薄く笑う。

「私は、死霊使いピュグマリオン、と申します――申し訳ありませんが、あなた方は我々に誘拐されていただきます」