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リアクション
■オープニング〜アガデの居城にて
―――アガデの都
一羽の鳥が、円を描いて飛んでいる。
東カナン領主バァル・ハダドは自室のバルコニーに立ち、見事なシンメトリーで配置された庭園を見下ろしていた。
神聖都キシュにあるイナンナの神殿を模して造られたこの空中庭園は、東カナンの要所要所で設けられている中でも最大の面積、比類なき豪華さを誇るものだ。白亜の階段や回廊を縁取る濃い緑、咲き乱れる花。そこかしこで鳥のさえずりが聞こえ、流れ落ちる滝の下では魚が泳いでいる。
「……愚かしいことだ」
見るに耐えないものを目にしたように、バァルは目を眇めた。
花はほとんどが造花で、鳥の声は録音されたものだ。
魚は機晶石で動く作り物。
水路を流れる水ばかりは本物だが、その水量は最低限まで落とされ、夜間は放流を止めている。
すべてがまやかしの姿だ。
豊穣の女神イナンナの加護を失い大地の力が弱まったため、草花は実る前に枯れてゆく。水脈は遠のき、低地の井戸は干からびた。いや、ほとんどの井戸が、だ。さらに深く掘り、汲み上げることができる力のある場所の井戸によって、人々はかろうじて命をつないでいる。
今では同じ重さの金よりも貴重な水をこんなことに使うのは愚の骨頂ではあったが、東カナンは安泰であるとアガデの民に示し続けるには必要な事だった。
「のう、バァルよ。ここに来る前、ウヌグの真上を通ってきたが、あれは見ものだったぞ。どこもかしこもすっかり砂に覆われてしまいおって、ここがそうだとアバドンに言われてはじめて気づく有り様であったわ」
歓迎の宴の席で、酒の入った杯を揺らしながらネルガルは言った。
「西は暑い上、どの町や村を回っても砂だらけで、満足な食い物も、このようなうまい酒ひとつ出てこん」
バァルはフォークですくった最後のひと口を、無理やり口に押し込むことで返答を避けた。
食欲は席につく前からなかったが、食べなければ無駄になる。
「それに比べ、うぬの治める東のアガデは以前と変わらぬ美しさで、余を楽しませてくれる。西と南があのような姿となった今、ここがカナン随一の都、まさにオアシスよ」
「ありがたきお言葉。しかしお言葉を返すようで恐縮ですが、カナン随一の都はネルガル殿のお治めになられます神聖都キシュであり、その宮殿の美しさに勝るものはパラミタ全土を探しても皆無でしょう」
それは事実だった。ただし、女神イナンナがおありになったころのキシュだが。
神聖都、その光の神殿にて拝謁を賜った女神イナンナの輝くばかりの美しさは、年を経た今も胸の奥で光を放っている。
だがそんな思いはおくびにも出さず、バァルは淡々と食事を終えた。
「聞いたか、アバドン。なんとも殊勝な物言いよ。西や南にこの賢しさがあれば、民もあのように無為に苦しまずにすんだものを」
バァルの真向かいで、やはり食事を終えた――しかしこちらは鳥がついばむほどにしか手をつけていない――アバドンが答える。
「まさしく。ネルガル様こそ我が王と、早々にお認めになられた東のご慧眼には、感服する次第にございます」
「クク……バァルよ、余としてはその忠義に報いてやるにやぶさかではないぞ。
いつでも宮殿を訪ねるがよい。西や南のように1年に2週間と言わず、うぬが望むだけ石化を解いて、弟と会わせてやろう」
ネルガルの言葉に、さしものバァルの表情も瞬時に凍った。
「――忠義を尽くすは、臣下として当然のこと。褒賞をいただくほどの働きは、しておりませぬゆえ……お気遣いは無用でございます」
視線を下げたまま、強張った口元からどうにか言葉を押し出す。そんな彼を嘲りの目で見ながら、ネルガルはがぶりと酒を飲んだ。
このやりとりは、これまでにも幾度となく繰り返されてきたことだった。
バァルが応じたことは一度もない。ネルガルも、彼が応じないことを知っている。
バァルが苦しむのを知っていて、ネルガルは何かにつけ大げさに褒めたたえてはそのことを切り出し、楽しんでいるのだった。
「ですがネルガル様、このように従順な東の地ですらも、やはりネルガル様のご威光をさえぎろうとする輩が存在するようでございます」
「なんだと?」
アバドンの言葉に、ネルガルの声が不機嫌に尖った。
「ご安心ください。そのような不敬を働く者たちはすでに我が領地より追放しております。この地にはネルガル殿を敬う者しかおりません」
バァルの言葉に、フードの下から覗き見える口元が笑みの形になる。
その言葉を待っていたのだと言わんばかりに。
「バァル様のおっしゃる通りでございます。無理にいぶり出そうとすれば巣が残るもの。自ら出て行かせることにより早期に根を絶たれたそのご手腕は、さすがでございます。
ですが、その者たちが現在メラムの町に集結しているのはご存じでしょうか」
「メラム?」
「はい」
アバドンが控え目に差し出した黒水晶を、ネルガルが覗き込む。
そこには、荒野にぽつりとある小さな町が映り、ついで、鎚やくさびを手にした兵士たちがせわしく動き回る姿が拡大された。
「ネルガル様のご威光に背こうとする、身の程を知らぬ輩たちの集まりでございます」
「むう…」
封鎖されたイナンナの礼拝堂の鎖を鎚で叩き壊し、窓を覆っていた板を剥がして開放する姿に、ネルガルの目が不快気に細まった。
「ネルガル様の温情にすっかり心得違いをし、慢心しきった愚か者たち。
罰をお与えくださいませ。このカナンの王たるネルガル様に逆らおうとすればどのようなことになるか、東の民も知る必要があるでしょう」
アバドンはフードの影に隠した視線をバァルから外さず、歌うようにネルガルへと囁いたのだった。
あれから3日が過ぎた。
西から入ったワームの群れが、メラムの町に着くころだ。
メラムの町がどういう地か、バァルも知っていた。どういう人たちがいるのかも。
そしてあそこにはセテカ・タイフォンがいる。幼いころからの親友で、領主の地位についてからは側近として、常に傍らに立っていた彼が。
『ネルガルを倒さねばカナンは滅びる』
セテカの言葉がよみがえる。
「……簡単に言ってくれる」
しかしそうした結果はどうか?
あの軍事力に長けた南でさえ、敗北し、領主は妹君を奪われた。
西もまた、反抗の末に妻子を奪われている。
結果として、西も南も降砂の砂漠地帯へと変えられた。
だが東には砂が降ることはなく、まだかろうじて緑も残っている。
彼らの人質の生死はネルガルの気まぐれひとつという、いまやとてもあやふやなものの上に立っているが、エリヤは無事だ。
今この瞬間も、あの子は生きている。
「エゴイストと笑え、セテカ。それでもわたしは今の状態をできる限りもたせることしかできない」
バルコニーの手すりにとまっていた鳥が飛び立ったのを潮に、室内へ戻り、手の中で握りつぶしていた紙を燃やす。
いつか、マルドゥークがネルガルを討つかもしれない。
いつか、シャムスが再び起ちあがるかもしれない。
いつか、自分は討たれるかもしれない。
だがそれは今日ではないし、明日でもないだろう。
扉をコツコツと控えめにノックする音がする。
要件は分かっていた。一緒にメラム襲撃を見ようという、ネルガルからの誘いだ。またしても彼の自制心をあの手この手で試そうとする、ゆがんだ遊び。
応じたくはないが、そうするわけにもいかない。
ため息をつき、バァルは紙が完全に燃え尽きているのを確認したあと、扉へと向かった。
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