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白雪姫へ林檎の毒を

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白雪姫へ林檎の毒を

リアクション

 件のファッションビルから少し歩いた場所にある開けた公園。ベンチや噴水以外特に何か有る訳でもなく、デート中のカップルばかりが集まるだけのこの場所で(実際託は芝生の上で琴乃に膝枕されていた)、モザイク柄の丸テーブルの上に薄いクロスを被せ、執事服を身に纏ったアルテッツァが午後のお茶を提供していた。
「買い物でお疲れでしょう、どうぞごゆっくりお寛ぎ下さい」
 アルテッツァはミリツァに微笑みかけて、席を立ち上がりかけたアレクの肩を押し返すようにして無理矢理座らせる。だがそれで席についたアレクの様子は誰の目からも明らかに不機嫌なものだった。
 席を作るのは二人分。サーブするお茶も二人分。
 ジゼルと彼女の友人を徹底して無視しようというアルテッツァの姿勢は、アレクに不快感しか与えない。それでも「構わないから」と言うように健気な笑顔を見せるジゼルに、アレクが口を開きかけ、ミリツァがそれに感づいて自分の声をだぶらせようとした瞬間だった。

 ギギギギギギギギギギギギ

 不快音たっぷりに引き摺られてきた鉄製の椅子には、背もたれに身体を預け、腕を組み足を組み不遜な態度のトゥリンが座っていた。唯斗がその『ロリ様の座る椅子』を当たり前にようにアレクとミリツァの間に設置する。
 余りに不自然だし、カフェでもパラミアンでも見かけた二人組だ。「ちょっと!」とミリツァが抗議の声をあげるのを無視して、唯斗は態とらしいくらいフレンドリーに笑ってみせた。
「はっはっは! またもや奇遇だなジゼル! ついでにアレクと妹さん!
 お茶の時間かい? 一緒に楽しもうじゃねぇかよ!」
 フレンドリーなノリを強調しようとした唯斗が馴れ馴れしい様子でジゼルの肩を抱く。ジゼルが困った笑顔で彼を見上げた瞬間だった。
 首にチリッとした痛みを感じた唯斗の笑顔が凍り付く。黄色(おうしょく)の肌に赤い血が薄く流れて行く間、地面では落ちたばかりのスコーン用のバターナイフがカラカラと音を立てていた。
「悪い、手が滑った」
 テーブルに肘をついたままアレクは唯斗向かって謝罪を口にするが、目も口も完璧な無表情であり、全く謝やまろうという姿勢が見受けられない。そもそもチョコレートチャンクが練り込まれ砂糖の衣までついたスコーンをアレクが食べようとする筈も無く、では何故バターナイフを手にしたのかと言えば完全に『ある目的』の為だろうと唯斗は身体で理解した。
 執事役に徹しているアルテッツァが「すぐに新しいものをお持ち致します」と頭を下げるのに、アレクは唯斗の顔から視線を1ミリも反らす事なく聞こえよがしに呟く。
「そうだな、新しいものが必要だ。早急に」
 次にジゼルに何かをやらかした時、その『新しいもの』は何処へ飛んでくるのだろうか。光る非対称の色に見つめられて唯斗が笑顔を引き攣らつつ、場を和ませる……というかミリツァが側主導にしない為の話題を作りだす。
「しっかしさっきは惜しかったな」
 微笑みで次の言葉を待つジゼルに、唯斗は話を続ける。
「トゥリンにフリッフリにフリル満載なゴスロリドレスをきて貰おうと思ったんだけど、無碍無く断られちゃったんだよ。今月金無いから!! って。一人暮らしの社会人のオネーサンみたいな事言ってさ――」
 肩を竦めていると、隣でアレクが何かを思い出したようにトゥリンを見た。
「そういえば、今月やってなかったな」
「うん」
 ツーカーで交わされた言葉に唯斗が不思議そうな顔をすると、トゥリンが言う。
「おこづかい。今月貰ってない。アリクスに会ってなかったから」
「あららお兄ちゃんてば。
 あ……。ねえ、私に渡すよりもトゥリンにこそカードを渡してあげれば良いんじゃないの? 私はアルバイトでお金入るし、大丈夫なんだよ?」
「駄目だ。子供に与えるにはまだ早い。生活費は定期で振り込まれてるんだから、小遣いは手渡しで。きちんと自分の掌で勘定していかないとこいつが将来苦労するからな」
「でもトゥリンのわがまま聞いちゃう癖にー」
「頼めばなんでも買ってくれるもんねアリクスは」
 アレクがばつ悪そうに舌打ちするのに、ジゼルは追い打ちをかける。
「ほら。言ってる事とやってる事、反対じゃない。ダメだよ、おにいちゃん」
 トゥリンを中心にジゼルとアレクが三人当たり前のようにやり取りをするのに、唯斗は慌ててそれを遮る。
「待て待て待て19歳。トゥリンに小遣いあげてるのか!? 何時から!!」
「ああ。トゥリンに会った時からだな……何時だっけ」
 しれっと言われたのは随分とアバウトなものだったが、よくよく考えてみれば両親が蒸発した子供がパラミタで一人暮らしていたのだ。あの頃は生活の面の全てを今は亡き彼女のパートナーのハムザが見ていてくれたらしいが、金銭の方の問題は謎の侭だった。多分今の話の通りだと、その辺をアレクの財布が解決していたのだろう。
 いつも可愛い服を着て、トレードマークのツインテールを縛る髪飾りも毎日違うものなのだから、聡い人間なら彼女を猫っ可愛がりしている親が居るのだと直ぐ気づくだろうが、互いに表情の薄い冷めきった間柄のようなトゥリンとアレクを並べて、『そうだ』と気づいた人間はまず居なかっただろう。
「アタシの保護者その1はちゃんとおこづかいまでくれるんだ。ユイトもアタシの葦原の保護者代わりって名乗るんなら、ちゃんとお金頂戴ね」
 ニマッと笑ってみせるトゥリンに唯斗がげんなりとした表情を見せ、それにジゼルがくすくすと小さな笑いを漏らしていた時だった。
 食器がガシャンという音をたて、揺れる。徐に立ち上がったミリツァがテーブルを両掌で叩き付けていた。
「あなた……いい加減にして! 一日の間にそう何度も何度も会う訳ないでしょ!」
「いやいや誤解だよ、丁度トゥリンとデート中でな!」
 嘘の弁解をする唯斗。修羅場の様相を見せてきたテーブルの下で、さく。と、音がした。
 直後に悶え始めた唯斗が上下の歯を噛み締めてバンッバンッとテーブルを叩く。
「唯斗、どうしたの? テーブルの下に何かあるの?」
 覗き込もうとしたジゼルだったが、アレクが「何も無いよ」と首を横に振るので半端に納得し、向こう側の花壇で風に揺れる花に目を移しニコニコしている。
 そんな風に平和そのものなジゼルは全く気がついていないが、今唯斗の足の甲にはバタフライナイフの刃が突き刺さっているのだ。
「誰が誰とデートしてるって?」という言葉を伝えるかのようにトゥリンの手からストンと落とされたそれは、トゥリンがアレクに強請って買ってもらったその手の人には有名な――要するにブランド品だった。
 買ってやったがどうせ使いはしないだろうと踏んでいたアレクは、娘のような(と、アレクは思っているが、トゥリンは全く思ってくれていない)彼女が目の前でプレゼントを見事に使いこなしてみせた事に喜んでいる。
「Well done.(よくやった)」
 と笑って言う兄を見て、ミリツァが額を抑えながらふらふらと席につこうとしていた時だった。
「今日の謎肉屋台は羊スペシャルだよー!」
「是非食べていってねー!」
 妙なテンションで柳尾 なぎこ(やなお・なぎこ)をのせた東條 カガチ(とうじょう・かがち)の屋台がフルスピードで公園へ突っ込み、一行の座るテーブルの前で急停車する。周囲が呆気に取られている間にカガチはアレクに捲し立てた。
「しかし椅子がさあ、何故かじじいが壊したらしくて二人分しかないんだよな!」
 カガチ言う向こうで、噴水の近くのベンチに老人――東條 厳竜斎(とうじょう・げんりゅうさい)が座っていた。
「でも席が無いのに一緒に居るのもわりいし、俺等あっちに行くからよ。妹ちゃんたちはここでゆっくりお茶しばき愉しんでて!」
 有無を言わさずにアレクと驚いているジゼルの腕を引いて、カガチとなぎこの屋台は再び暴走する。白の教団の追っ手を体術の実力行使で振り切って行くカガチを見ながら、ミリツァは立ち尽くすだけだ。
「……乙女、宜しいのですか?」
 顔を覗き込むアルテッツァにミリツァは歯をギリッと噛み締めて言う。
「あの男――お兄ちゃんの『宿敵』なのよね。宿敵ということは、友人では無い……。もしお兄ちゃんを傷つける真似をするならそれは許さないわ。でも今の態度。妙に仲が良さそうというか、お兄ちゃんが怒っているようにも見えなかったし……、けれどジゼルに味方しているようにも見える部分は問題だわ…………うー……」
 ミリツァは白の教団に居るプラヴダの隊士から、兄の周囲を取り巻く人物の情報を集めていた。が、情報は所詮ただの文字列だ。『宿敵』という文字だけ取れば仲の悪い二人だと思うのが当然で、外の世界を見せようと言う兄の提案を振り払って、一月アレクを囲い続けたミリツァは言葉以上の部分知る事は無かった。だから集めた情報は逆に、彼女を混乱させてる。しかしそうして考えている間に、カガチの屋台は全く見えなくなってしまったのだった。


* * *

「今日は謎肉じゃなくて羊だよー」
「――カガチ、俺は脚の数を聞いた方が良いか?」
「大丈夫今日のは脚四本だった羽根生えてたけど」
「羽根か。フワフワ系か? 可愛いやつか?」
「ああ、白いフワフワでふわふわ飛んでたよ」
「なら問題無いな。可愛いは正義だからな」
「なんだ――てっきり俺はあんたが可愛いから食べられないとか言い出すのかと思ったよ」
「可愛くて美味しいから羊は正義なんだ。ふわふわの羽根つきならもっと強いかもしれない……」
「強いって何が」
「味がおいしいかもしれないと言う意味だ。最近気づいたんだが、ふわふわは大体美味しい」
「そいつは一理あるかもしんねえな」
「だろ? ジゼルも例に漏れずふわふわだしな!」
二人とも羊のお肉好きだったよね?
 カガチとアレクのやりとりを放っておいて、なぎこはカウンター式のテーブルに肉の塊がのった皿をドンっとのせる。
「私はお菓子の方が好きだけど、お兄ちゃんは甘いのよりお肉とかの方が好きよね」
「ジゼルの作るものなら何でも」
「おさとういっぱいのお菓子も?」
「いらん」
 カウンターごしのやり取りを見ているカガチに目をやって、なぎこは微笑んだ。難しい事は分からないが二人のデートを成功させればいいんだよね! と少々雑に考えながら、気負わないように気軽な場所でと準備してみた何時もの屋台だったが、これは成功だったんじゃないかとなぎこは思う。
(二人でなんて久しぶりだろうし今日ばかりは細かい事忘れてゆっくりしてったらいいんだよー)と考えていたカガチは、当然まともなデートをしているものだと思っていたから、キアラからの[やっとまともに会話出来そうっスね]の通信に調理器具を取り落としそうになった。同じ通信を受けているジゼルは、恐らく二人でいられるこの短い時間の間に言いたい事を全て言ってしまおうと、アレクの目を見つめる。
「ねえアレク。家に……帰って来ないの?」
 ジゼルの目を見たまま返事をしないアレクに、ジゼルの方が先を続けた。
「あのね、それは無理でも良いの。私我慢する。けど……、プラヴダの皆、とっても寂しがってた。アレクはあんまり通ってないけど、学園の子もだよ。縁がね、アレクに謝りたいって」
 ジゼルの口から突然出てきた縁の名前に、アレクが僅かに反応する。先日のイルミンスールでの作戦の際、縁はアレクに突っかかるような態度を見せた。『人に何を言われようが気にしない』を貫いてきたアレクは表に出るようなものを見せなかったが、人間関係というのは余りにも複雑でナイーブだ。互いに内面は何を考え行動しているか分からないからこそ、そこに誤解やすれ違いが生まれてしまう。
 縁のあの態度もまたそういう事だったのだが、後々アレクの意図を壮太から聞いて、縁は相手を信じきれなかった自分の間違いに気づいたのだろう。
「なんつうかまぁ……あれきゅんに素直に謝ったり、借りの清算を気持ちよくするための準備ってぇ言うか……うん」
 そんな風に言い難い言葉も口に出す勇気を持つ縁に、ジゼルは胸をうたれた。
 ジゼルはアレクの過去を聞いている。父に歪んだ理想を押し付けられ望まれるままに振る舞い、引き起こしてしまった事に周囲が遠ざかった事。アレクは自業自得だと言うが、幾ら過去の事とは言えジゼルにはそれらが我慢ならなかったのだ。
 9歳の子供が些細な喧嘩で殺人未遂を犯すというのは確かに異常だ。でも何故そうしたのか、拗れ捻れたその理由から目を反らさずに見ようとすれば、何かが起こる前に止められた筈なのだ。屋敷には何人もの使用人が居て、学校にも先生が居た。アレクという子供が初めから狂っていなかった事くらい彼等は分かっていただろう。殴り合いや引っ掻き程度でおさまる子供の喧嘩で骨を砕いて首を締めるような真似は、誰かに教え込まれなければ出来ない筈だ。
 どうして手を差し伸べてやらなかったのか。
 父の暴力を受け、母に放棄され、表情の殆どを失うほど辛い思いをしたアレクを、ただ一人冷たい周囲の人間から彼を庇おうと親も友人も捨てたミリツァを、何故誰も助けようとしなかったのか。まして二人はまともな判断力を持たない子供だったというのに。そう考えるとジゼルはやりきれない気持ちで一杯になるのだ。
 だからこそ寄り添わなければ生きられなかった兄妹を『あなたたちは間違っている』と非難し糾弾する事は出来ない。それは何年も経った今だろうと同じ事だとも思う。
 ただ――、たった一度の誤解で離れていった人間たちと、今アレクの傍にいる縁らはまるきり違うのだ。
 今彼の周りにいるのはこうして誤解を謝罪し、もう一度新しい関係を築こうとしてくれる暖かい人たちだ。彼を慕う大切な仲間を、縁のような『友人』たちを捨ててはいけない。
 殻の中に閉じこもっていては見えないものが沢山ある。それは海の外へ出て様々な出会いを経験し、その中で掛け替えの無いものを見つけたジゼル自身だからこそ分かる事で、守る為にそれを囲い込むミリツァのやり方を、ジゼルは肯定する事が出来ないのだ。
「あれは縁ちゃんが悪かった訳じゃない。俺が説明をしなかっから彼女は――」
「それは縁と話さなきゃならないことだわ」
 ジゼルの声にアレクは口を閉じた。 
「アレク、皆のところへ帰って。ミリツァと一緒に。
 …………私も待ってるの」
 はっきりと目を見て気持ちを伝えるやり方は、彼女が姉と慕う加夜の影響だろうか。
 青く輝く清廉な瞳を受けてアレクが考え込むのに、助け舟を出す様になぎこが口を開いた。
「ところで、『あーん』とかしないの?」
 ジゼルの方を向いて少女らしくズケズケとした言葉を出すなぎこだったが、本来ならからかいになるような言葉は、ジゼルのトラウマをぐりっと抉っていた。
「あーんは……もう、ちょっといいかな……」
「なんで?」
「「危険だから」」
 声を揃える二人に、なぎこはキョトンとしてから吹き出した。
「……やっぱり二人並んでると、なんか『これだっ』て感じするよ」
 なぎこの言葉にアレクとジゼルがこちらを向いた。
「パートナー同士だからかな。
 私もカガチのそばにいるのが一番『これっ』て感じするもんね」
 なぎこの言葉が心にすとんと落ちて、ジゼルはうんうんと懸命に頷いている。
「うんっ、アレクの隣が一番安心するの!」
 カガチの方を向いていたアレクの口が「テンシ!」と動いた。それにカガチがもう知ってるからと言う様に「ハイハイ」と口を動かす。
「一回誰かの『お嫁さん』になるって思ったら、きっとずっとお嫁さんなんだよね」
 なぎこの言うお嫁さんとは即ちパートナーの意味なのだが、ジゼルは額面通り受け取って頬を赤く染めている。
「お嫁さんって……」
「でも確かにジゼルは俺の『オヨメサン』だよな」
 平然とした顔でアレクが言うのに、ジゼルの動きが停止する。カガチもなぎこも同じく止まった後に、アレクが眉を顰めて口を開いた。
「否、いつも言ってるだろ。俺妹と結婚したって。ジゼルはお兄ちゃんと結婚したんだよな?」
「またお兄ちゃんはそういう冗談ばっかり……」
「別に冗談で言って無い」
「…………………………はい?」
 ジゼルは聞き直したのだがその頃にはアレクはもう話を終わらせたつもりらしく、ミリツァの起こしている事件の相談をする為カガチの方へ行ってしまっていた。
「わ、私お兄ちゃんと結婚してるの?」
 自問自答するような言葉を聞いて、なぎこは「うーん」と腕を組んで考える。
「アレクさん本当に冗談言ってるようには見えないよ。何かそういう約束をした覚え無いの?」
「やくそく……」
 ジゼルの頭の中で時計の針が急速に逆回転し始める。そしてある場所までくるとそれはカチリと止まった。
 高らかに抜刀を命ずるトーヴァの声、白銀の月に煌めくセイバーアーチの下を手を繋いで駆け抜けてジゼルは約束したのだ。『死んでも一緒だわ』と。そして返されたじゃないか、『Ljubim te』――愛していると。
 誓いの質疑が無いというのならそれに答える必要もない訳で、もしかして儀式の全てをぶっ飛ばしてアレクの中では『これにて婚配式終了也』だったのでは――?
「…………………………嘘でしょ…………。
 きいいいいやあああああああああ!!!!!」
 唐突に叫んで、ジゼルは猛スピードで公園の中を走り抜ける。
「ぎゃんっ!」
 思いきり転んでゴロゴロ転がって、やっと止まった所で両手で宙を掻きながらヨロヨロと立ち上がり、頭を冷やそうと目に映った噴水の方へ歩いて行く。
 その姿を見かけたミゲル・アルバレス(みげる・あるばれす)が、ジョヴァンニ・デッレ・バンデネーレ(じょばんに・でっればんでねーれ)
に興奮気味に言う。
「ちょお見てみ!? あの子めっちゃかわいいやん!! なあ師匠!」
 ジョヴァンニが振り向いてジゼルの姿を確認している間に、ミゲルはもう先に走り出していた。
「一人なの? ちょっとお話しよー」
「え……いえ」
 下着テロリスト事件、そして合コン事件と経験し、男性に対する警戒というものを覚えたジゼルの微妙な反応にも関わらず、ミゲルはヘラヘラ笑いながら彼女の隣へとこそこそ移動を開始する。
「一人じゃないならじゃあ戻ってくるまでお話しよー」
「でも私」
「ええやんオレらもかわいい子と話せるの楽しいし」
 ミゲルがジゼルの肩に手を伸ばした瞬間だった。
 ゴキャッと、そんな音をたててミゲルの姿がジゼルの視界から消え去った。
「ジゼル、戻ろう」
 少しの間も置かずにアレクはジゼルへ手を伸ばす。ジゼルが「え? え?」と状況に戸惑うすら時間すら無駄だ。
 強引に腕を引いて倒れ込んできた腰を抱いて大股で歩き始める。羽虫が飛び交う場所に、消えない様にと守り続けているアレクの大切な『Svetlo(明かり)』を置いておける訳が無かった。
「でもカガチとなぎこは?」
「二人も一緒に『遊ぶ』ってさ。屋台置いたらくるって言ってたから先に行こう」
 そこでジゼルの警戒心を解くためわざと出遅れていたミゲルのナンパの師匠ジョヴァンニが「残念、彼氏がいたのかー」と口にしたのを耳にして、アレクはジョヴァンニの足を払った。そしてポーチからとり出したものを仰向けで地に伏したジョヴァンニの上にすとん。と、落とす。するとトゥリンのバタフライナイフの為に専門店に行った際についで買いしたタクティカルナイフが、さくっと音を立てた。トゥリンが唯斗にした時と同じ様に、但し唯斗に使われたバタフライナイフより殺傷能力の高いものが、足の甲より遥かにヤバい場所に刺さったが、全ては故意なので気にしない。
 この『ジゼルの許しを得ていないのに彼女へ近付いた身の程知らずへ軽い制裁』は歩きながら行われた為、アレクの広い歩幅に合わせようと突んのめる様に前へ足を出すのに必死だったジゼルは何も気づいていない。
 愚かで鈍臭くて誰より愛らしいパートナーの、花の香りを漂う首筋に鼻先をすり寄せながらアレクは囁く様に言う。どうせドレスの内側にマイクでもつけられているんだろうが、流石にこれはキアラに拾われたく無かったのだ。
「俺も君のそばが『これ』って気がするよ」

* * *

 足下にすり寄る様にやってくる鳩の群れにパン屑を投げながらベンチに座る老人は、隣にさした影に顔を見上げた。
「ご一緒していいですか?」
 と聞かれるのに厳竜斎は隣をあける。彼女がごく自然な距離をとって座るのに、ターニャの世界にも自分が存在して居たのだろうと思うと嬉しくて、厳竜斎は人好きのする笑顔を浮かべた。
「ちょっと休憩です」
 ペッドボトルの蓋を捻って口をつけ、ふと目が合ってターニャは厳竜斎にちょっとした質問をぶつけた。
「あなたの未来でのパートナーの方たちは、どうなさったんですか?」
「うん? 幸せに生きて大往生したよ。
 俺のダチも皆、もちろんアレクとジゼルちゃんも幸せに生きて幸せに死んだ。
 俺ぁそういう平和で幸せな未来から来たんだ。
 俺のとこにきた『俺』もそう言ってたしその俺にきた俺も……。ちょっとずつ違いはあるがそうらしい」
 厳竜斎の言葉は、何時もよりどこか本来の――昔の彼に近い気がして、ターニャは親しげに彼を見つめる。尤も、ターニャの世界での彼はもう少し若かったが。
(かっこいいおじさんだったんだよなあ。
 でも、おじいさんになってもあの目は変わらないな……)
 ターニャが見つめる金の瞳は、ミリツァの姿を捉えている。
「だがあんまりイレギュラー起こるとあの俺が俺にならん。
 それはちと面白くない」
 羽ばたいて行く白い鳩たち。青い空を舞う翼を見上げて、厳竜斎は呟いた。
「これ以上『俺』の未来拗らせないでくれ」