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白雪姫へ林檎の毒を

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「ごめんなさい!」
 絞り出す様にそう言って、ジゼルはアレク達の元から走り去っていた。皆が、アレクが止めようとする声が聞こえるが、ジゼルは足を止められない。
(もうココにいたくない。誰の声も聞きたく無い!)
 そうして辿り着いた此処が何処なのか、闇雲に走り続けていたジゼルには分からなかった。その時、暗い路地裏で足を止め座りこんだ彼女の上を、黒い影が覆った。
「だれ……?」
 涙に濡れた目を擦ってジゼルはその人物を見て、ふと笑顔を浮かべる。
「東雲!」
「こんにちはジゼルさん。久しぶり」
 それはジゼルの友人の一人、五百蔵 東雲(いよろい・しののめ)だった。しかし身体の衰弱から車椅子で生活してた彼が、今ジゼルに『歩いて』近付いてきた。元気になったのは喜ばしい事だが、一体どう言う事なのだろうとジゼルは眉を下げながら東雲の足下を見つめてしまう。
「ああ、足? 動くようになったんだよ。走るのはまだ無理だけど。
 脆いままだからね。うっかりすると、取れちゃうんだ。」
「……え? 取れる?」
 酷い冗談に凍った笑顔のまま首を傾げるジゼルへ、東雲は答えずに手を伸ばした。
「そんな事よりジゼルさん、大丈夫? 泣いていたの?」
 心から心配する声で言って、東雲はジゼルの腕を引き抱き寄せ、柔らかい髪を味わうように撫で付ける。
「しののめ、わたし……変なの……。急に心が痛くなって、重くなって……おにいちゃんの事が信じられないの。自分のことなのに、自分で言ったのに、何があったのか分からないの……」
「うん、大丈夫だよジゼルさん。俺が一緒にいてあげるから」
 慰めてくれる友人の声にジゼルは心を落ち着ける為の深呼吸をし、東雲の顔を見上げた。東雲が何時も自分に向けてくれる笑顔。それを見てジゼルはつられ笑う。
「あ、そういえば」
 徐に東雲が口を開いた。
「俺、ジゼルさんのことが好きなんだ」
「……え?」
 唐突過ぎる愛の告白にジゼルは反応する事が出来ない。笑顔の侭動かない彼女を見下ろして、東雲は続ける。
「アレクさんのやめて俺にしない?
 あの人さ、きっと妹の方とっちゃうよ。やっと会えた肉親だもの」
 東雲が言うのは、今さっき消えかけていた不安を掻き立てる歌と同じような内容で、ジゼルは口を半開きにして何か言いかけては言葉の抵抗が出来なくなってしまう。
「ジゼルさんと契約したのだって、ああいう状況だったでしょ。
 ジゼルさんの気持ちも、知ってて知らないふりしてるみたいだし。
 ……『お兄ちゃん』か。本当、『酷いお兄ちゃん』だよね」
 爽やかなくらいに笑って飛ばす東雲に、ジゼルは彼の服を掴み握りしめる。さゆみの歌はまだ心の中に残ってはいたが、それでも奥底ではアレクを信じたい、ジゼルの本物の気持ちがあるのだ。
「違うの東雲! アレクはね、本当は優しい――」
「あ、怒った?
 そうだよね、大事な人を貶されたら怒るよね?」
 けらけらと笑っているのに腰を抱くというよりまるで自らの所有物だと言うのように掴んできた力が妙に強く、ジゼルはそれにそら恐ろしいものを感じた。ディーバとして声を重ね、病弱で生きる事を諦めかけていた彼に肉体の異常疾患を抱えた自分を重ね、仲間や友人として以上の想い――彼は自分と同じような人なのだと感じていた東雲の存在が一気に信じられなくなる。一瞬の間にガラガラと崩れていくその姿にジゼルは愕然とし、ただただ震えることしか出来ない。
「あーでも、俺。ジゼルさんの事本当に好きなんだよ。
 でもジゼルさんはもう決めちゃってるのも分かってるし……」
 わざとらしくごちるように言って視線を反らしていた東雲は何かを思いついたように「あっ、そうだ」と呟いた。その唇は凄惨な微笑みに歪んでいる。
「ジゼルさん殺したら、俺の事、欠片でも刻み込めるかな?」
 瞬間路地裏の向こうを走る車のヘッドライトに照らされ、東雲が握っていたものが光った。
 鍵。刃の仕込まれたそれが、ジゼルの太腿に押し込まれる。
「ひっ……! いやぁッ……」
 痛みに身を捩ったジゼルの身体を、東雲は覆い被さり拘束する。病気で貧弱になっていたものの、東雲は長身の男で高い能力を持った契約者だ。華奢な少女で、通常ならば東雲の半分程度しか能力を持たないジゼルでは敵わない。ジーナの見立てたボルドーの生地の上に、黒い染みが広がっていく。
 確かにミリツァの洗脳下にある白の教団のものたちは、ジゼルを多少傷つけて構わないと思い行動していた。しかしそれはあくまで『傷つける』に留まっている。何故ならジゼルの命を奪えば、パートナーであるアレクもまた危険な状態に陥ってしまう可能性があるからだ。兄に執着し、たった二人だけの世界で生きる事を願うミリツァが、そこまで危険な橋を渡る事を望む筈が無い。
 ミリツァとしては白の教団の嫌がらせや怖がらせで、ジゼルがアレクの元を去ってくれれば良かった。ジゼルの精神を追い込んだ結果、そこに何が起こるのかなどミリツァは知らなかったのだ。
 ジゼルの事を、過去……人間としてのミリツァ・ミロシェヴィッチを空爆で殺した恐ろしい大量破壊兵器と同じもの――そして人に擬態する為に兄を籠絡する悪女だとしか『聞かされていなかった』ミリツァは知らなかった。兵器セイレーンが、人間よりも遥かに繊細な心を持つ存在だとは、夢にも思わなかったのだ。
 だが東雲は、ナイフを手にジゼルを『殺す』と言った。彼の中で募り拗らせたジゼルへの思いが、何かをきっかけに爆発してしまったのだろうか。東雲自身が狂気の行動に出ている今、それを理性的に説明出来るものは誰も居ないだろう。
「ダメだよジゼルさん、動いたら痛いだろう? 
 ああでも……痛い方が良いのかな。その方が俺、ジゼルさんの中にもっと入っていけるのかな」
 未だ歌による異常の抜けきらない――心の奥に残る蟠りのようなものが、大切な友人に襲われる衝撃を増幅させ、恐怖と不安をジゼルの中に渦巻かせていく。その所為なのだろうか、強烈な眠気が押し寄せるのをジゼルは感じていた。
(どうしよう……からだが動かないよ……)
 恐らくこれは歪な人工生物セイレーンの疾患――テロメア異常が起こり始めたサインだろう。この波に飲まれてしまえば、自分の命が切れてしまう。ジゼルの頭の中に、彼女の目の前で眠る様に死んで行った姉達のの姿が浮かんでは消えていく。このまま私は、あんな風に死んでしまうのだろうか――。
 諦めかけた心の奥に残っていたのは、今日ジゼルを送り出してくれた友人達、守ってくれた友人達の笑顔だった。自分を掛け替えの無い友だと言ってくれる彼等に会えないまま死んでしまいたく無い――!
(ダメ、負けたくない……! 皆と…………私は皆と、アレクと一緒にいるの!) 
「やめ……て、東雲……。私は皆と生きていたい、私あなたに殺されたく無いわ!!」
 無意識の間に拳を握りしめていたジゼルは、それを東雲へ渾身の力で振り当てた。
「いった」
 初めは肩口へ、次はへろへろと弱いそれを避ける為に東雲が前に出した手に当たってしまったが、ジゼルの思わぬ反撃を力づくで地へ押し付けようと強く伸し掛ってきた東雲に、ジゼルは腕を無茶苦茶に振り回し、足をバタバタと動かして全身で抵抗する。 
「いやっ! いやあっ! こんな事する東雲なんて好きになれる訳ないでしょ!
 それに……私あなたの事、本当に友達だと思ってて、男の人として見た事ないっていうか! ……無理なのおッ!!」
 瞬間闇雲に動き捲っていたジゼルの膝が、東雲の鳩尾に『イイ感じ』に入ってしまう。咳をし悶える東雲に向かって、下から啖呵をきるような勢いでジゼルが叫んだ。
「私は、アレクが好きなの!!」

* * *

 アデリーヌはさゆみを探していた。
(さゆみが、絶望的方向音痴のさゆみが一人歩きなんてする訳ありませんわ!
 いきなり居なくなったのはそう……きっとこの間の事件の所為……!!)
 焦燥感に胸が張り裂けそうになりながら、空京の街を歩き続けるアデリーヌは、完璧に変装したさゆみの姿にすれ違っても気づかなかった。
 しかしさゆみがジゼルへ歌を浴びせる為に留まっていたところを、アデリーヌは目撃する。
「さゆみッ!!」
 後ろから声を掛けられたのに、彼女が駆け寄ってくるのに気づいてさゆみは舌打ちし、アデリーヌを眠らせようと掌に力を込める。
「邪魔をするなあ!!」
 眠りに落ちて行く中、アデリーヌは最後の力で雷撃をさゆみに向かって放った。倒れて行く自分の身体を、さゆみを、受け止めてくれた気がした。