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Zanna Bianca――ザナ・ビアンカ

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Zanna Bianca――ザナ・ビアンカ

リアクション


●prologue

 ――灰でできた蝶のように、ちらちらと雪が舞っている。
 窓一枚隔てた外の世界だというのに、手を伸ばせばその冷たさに触れられるような感覚を姫宮 和希(ひめみや・かずき)は覚えた。
(「麓(ふもと)っていったって、この村みたいな高地だと……一年じゅう雪が降るんだな」)
 雪とともに空から降りてくるのは、やわらかな、しかし、どこかよそよそしい朝の光だ。垂れ込めた雲の間からわずかに太陽がのぞいているのだろう。この光景からは、初夏という言葉が宿命的に有する奔放さ、あるいは、気っ風の良さのようなものは感じない。だがこれがこの場所……高地ヒラニプラの六月上旬の常識のようだ。世界は広い。改めて和希は思った。広い。だからこそ、冒険する価値がある。
「起きたかい?」
 部屋の戸を開け、千代紙を揉みほぐしたような顔の老婆が声をかけた。浅黒い顔の色は、この地域の住民の特徴である。
「え? ああ」
「着替えたら降りといで、朝食にするよ。旅人さん」
 その一言に応じたのは、和希の腹の虫の小さな声だった。和希は頬をうっすらと染めると、「すまねぇ」と言葉を返した。

 雑穀粥と岩のようなチーズの朝食を終え、二日ぶりに袖を通す白シャツ、学ラン姿で和希は村を歩いた。口の中がほのかに甘い。朝食はなんともとっつきの悪いものであったが、よく噛むとなんともいえぬ味わいがあり、忘れがたいものだった。なんとなく、この村と似ている。
 和希が首を右に傾けると、石臼でも挽いているような鈍い音がした。ようやく平常に戻りつつある四肢も、少々強張っており間接も粘度でも詰まっているかのように感じる。無理もあるまい。なにせ昨日は一日、和希はベッドから起きることもかなわなかったのだ。
(「我ながら、無茶したもんだ」)
 和希は三日前の自分に対し、「もっと計画的に行動しろ!」と叱ってやりたい気分だった。とりたてて理由はないものの、「夏が近いだけに自分を鍛えねぇとな」と一念発起した彼女はろくな装備も持たず、単身、極寒のヒラニプラ山脈に足を踏み入れたのだった。大自然は彼女に厳たる表情をもって応え、当然の結果のように遭難の憂き目を与えた。息も絶え絶えにこれを脱した和希は、切り干し大根のようにやつれた身で村にたどり着き救助されたのだった。村人はそれが当然であるかのように、和希を助け保護してくれた。この恩は決して忘れない。忘れたくない。
 山麓の村は、ただ『村』とだけ呼ばれていた。その小さな域内に和希は、見知った者を含む異邦人の顔を村の方々で目にした。彼らは村人が『下界』と呼ぶシャンバラ各地から来たのだ。いずれも何か目的があって来ているようで、一様に忙しく設営を行っていた。邪魔しては悪いので声はかけないでおく。
(「なぜこんなに契約者が……? 特に教導団員が多い……」)
 そういえば、と和希は思いなおした。ここはそもそも教導団のお膝元だった。それにしても、これだけの動員がかかるものだろうか。まともな事態ではなさそうだ。途中ですれ違った赤毛黒い髪の少女を、どこかで見たことがあるような気がしたが思い出せなかった。(彼女は永倉 八重(ながくら・やえ)、八重もまた、和希と似た事情で村に駐留しているのだがそれはまた別の話である)
 村には、教導団の主催でベースキャンプが張られつつあった。表向きそれは、食料などの物資の運搬のためということになっている。しかしそのものものしい装備は、明らかになんらかの異変に備えてのものだと和希は予想した。
 結論から言えば、その通りだった。
「できれば、より詳しい地図や地形に関する情報も手に入れたい」
 上から目線の口調にならぬよう気をつけつつも叶 白竜(よう・ぱいろん)は、どうしても軍人らしさが出てしまう自分を意識していた。また、任務に集中すると、顔が厳しくなってしまうことも判っている。あまり子どもには好まれないであろうが、それも仕方がない。
 白竜にとって予想外だったのは、村人がザナ・ビアンカについてはまるで笑い話としてしか扱っていないところだった。誰に訊こうがほとんど同じ回答だったのだ。曰く、あれは言い伝えだ。曰く、そんなものを信じているのは小さな子どもだけ……そこにふと、冷笑的なニュアンスを白竜は感じたものの、あえて口には出さなかった。
 帽子の鍔をやや上げ、白竜は山を見やった。村を三方から囲むような山脈は厳としてそびえ立ち、畏敬の念を抱かせる。
(「山に入る時間が取れるかどうか……」)
 いくばくか焦燥感に駆られ、白竜は言った。
「それから、もう少し人員を回してもらいたい。急ぎたいのだ」
 冷徹なその口調は、彼に相対する村人たちにいい印象を与えなかったようだ。まるで手抜きをしているとでも言いたいのか……そんな反感を抱いたかもしれない。
 しかし、
「はーい、みなさんが頑張っているのは判ってるんですよー」
 白竜のパートナー、世 羅儀(せい・らぎ)が笑顔とともに、するりと両者の間に身を滑り込ませた。元々、村人は教導団員を『制服組』と呼び、好感をもっていないように思われた。教導団の性格上、それは致し方ないと羅儀は思っている。しかしそれでも、彼は彼なりに骨を折り、互いの緩衝材たらんとしているのだった。
「いまのは悪い意味でいったんじゃないんです。もっと手をかしてくれればベースキャンプ設営もそれだけスピーディに片付く、という提案なんですからねー。ね、そうだよね?」
 羅儀は少々無理からに白竜を頷かせ、断ってから煙草に火をつけた。「じゃ、ま、一服させてもらうかな」丁字(クローブ)入りの紙巻き、軽く吸うだけで背筋が伸びるような刺激がある。初心者にはお勧めできない銘柄だが、はまるとなかなか抜け出せない逸品だ。喫煙者の村人にも配って、火で文字通り場を温めた。
 多少空気がほぐれたのを見て取ると、羅儀は独言のように述べた。
「村周辺はどれくらい雪崩の心配があるのかな……」
 村人に寄れば、もう何年も大きな雪崩はないらしい。
「もう何年も……ということは……」
 と言いながら羅儀が渡そうとした一本に手を振ると、白竜は懐から黒葉のフランス煙草を取り出した。
「雪崩の危険は常にある、ということだな」
 マッチで火をつける。シュッ、という音とともに、硫黄の匂いが数秒漂い、消えた。

 防寒着の襟を合わせつつ、輸送科士官候補生レジーヌ・ベルナディス(れじーぬ・べるなでぃす)が、村の有力者たちとの交渉を行っていた。
「あ、あの……村の防衛に関すること……いくつか質問していいですか……」
 彼女の役割は多い。設営を行いつつも村の地形を調査し、その一方で、村の有力者には事実を明かした上で、避難路について説明を行っているのだった。本音を言えば、レジーヌはあらゆる村人に対し、正体不明機の接近について公表したかった。しかし無用のパニックを未然に防止せんがため、まだそのすべてを全村民に表沙汰にしてほしくないというのは村長らの希望である。現在、レジーヌの前には禿頭の男が三人立ち、半信半疑といった眼で彼女を見ている。あまりくつろげる環境ではなかった。
「避難に適した場所は、三方が山のこの地形では西側になるかと思います。つきましては……」
「制服組さんよ、いいかい? なんで山側がいかんのだ」
「それは……山と反対側ならいざというときに下山も……」
 ひりひりした感覚、あるいは喉の渇きをレジーヌは覚えていた。潜在的に村人たちは、この地域を実効支配する教導団に好意を抱いてはいない。敵意、とまではいかないが、決して友誼は感じていないようだ。そうでなくても、仮定とはいえ村を捨てる場合の話をしているのだ。彼らがいい気持ちでないことは十分にわかる。
 一方、エリーズ・バスティード(えりーず・ばすてぃーど)は彼女なりの方法で『制服組』への村人の感情を和らげていた。
「はい、お菓子いる? お茶もあるよ」
 村に駐屯すると言われ、「つまんないー」とむくれていたものの、エリーズはいつのまにか村の子どもたちと交わっていたのだ。都会の茶やお菓子が珍しいらしく、厚着をした子どもたちは、我も我もとやってくる。やがてエリーズを中心とした輪ができあがっていた。
「……ふーん、夜更かししてる子は『ザナ・ビアンカ』に丸呑みされちゃったりするって話なんだー。怖いねー……うん?」
 三つ編みの少女を膝に乗せ、彼女の熱心に語る言い伝えに耳を傾けていたエリーズだが、ふと、自分たちの輪に入ろうとせず一人で、膨れっ面のまま山を睨んでいる少年に気づいた。
「あの子、どうしたの?」
「ああ、コヤタね。コヤタは、大抵ああだから」三つ編みの子が言った。
「気にしないでいいと思うよ」もう少し年かさの少年も言葉を合わせる。
 十歳前後のその少年はコヤタといい、孤児同然の身の上なのだという。「あいつ、じいちゃんが長い間顔を見せないからむくれてんだ」と別の子どもがエリーズに教えてくれた。
「お爺ちゃん……?」
「なんかね、『はんたー』なんだって。山奥に一人で住んでるじいちゃんで、黒いテッポウを肩から吊り下げてて、すごく怖い目つきなんだよ」
「なー。あの爺ちゃん怖いよなー。めったに来ないけど、村に降りてきてもずっとむっつりしてるし……」
 そういうことを言うものじゃないよ、とたしなめながらエリーズは、コヤタとも話をしてみたいと思った。
 子どもたちのほとんどは、ハンターをしているというイサジの祖父の名を知らなかった。
 ただ一人だけ、やはり例の三つ編みの子が「たしか、『イサジ』って名前だったはず」と言った。