リアクション
* * * 後方にいては、もはや間に合わない。 開戦直後から引きも切らず運び込まれてくる重傷者たちを前に、東雲 いちる(しののめ・いちる)は意を決して設営された救護テントを離れた。 前線は最初の位置からかなり移動しており、そこから運ばれてくる途中で亡くなる者も少なくない。馬では間に合わないと、飛空艇を持つ者が急きょけが人の運搬係りとして戦場とテントを往復している。 今もまた、カエルのゆる族の乗るオイレが、乗せられる限りのけが人を乗せて、いちるとすれ違った。 だがそれらもすべて、乗っているのは東カナン軍兵士たちだ。魔族兵はいない。 いちるは、魔族兵も救いたかった。 敵まで助けたいとはおろかだろうか? 傷つけているのは人間なのに。その人間の1人である自分が、彼らを救いたいというのは茶番か? 戦いは、きれいごとではない。汗をかいて互いの健闘を褒めたたえあうスポーツではないのだ。 死は、当然のものだ。 兵士たる彼らはそれを当たり前と受け止め、殺し合っている。そこには、暗黙の了解が存在する。口に出したりはしないが、人間であれ、魔族であれ、彼らは納得ずくで死を受け止めている。 だが。 傲慢と言われてもいい、いちるには受け止めることはできなかった。 死が当たり前とはどうしても思えない。 (ああ……ネルガル様、私をおろかとお笑いになりますか? この、右手で握った剣で傷を負わせ、左手で薬を差し出すも同然の行為を。それとも、笑って「それがそなたの真ならば、貫いてみるがよい」とおっしゃりますか?) そうしてたどりついた戦場は、過酷にすぎた。 いたる箇所に死体が転がり、致命傷を受けながら死にきれない者や馬が漏らす苦鳴がそこかしこから聞こえる。 大気には濃い血臭にまじって、焼死した者の焼け焦げた肉のにおいが漂ってもいた。 生きていようがいまいが関係なく、むさぼり食らうヘルハウンドの群れ。 戦場は人の生き方も、価値観も、一瞬ですべてを破壊し作り変えてしまう――その意味が、初めて分かった気がした。 「こんな……」 己の存在意義そのものを根底から揺さぶる、強烈な現実の醜い側面。あまりの地獄絵図に、いちるは息も絶え絶えになった。 「いちる!!」 嘔吐にえづき、身を折ったいちるをギルベルト・アークウェイ(ぎるべると・あーくうぇい)が横から支える。 力強い両腕が彼女の頭を抱き込み、目と耳をふさいだ。 「ギルさん……」 「やはりおまえには無理だ。テントに戻ろう」 その言葉に、いちるの中でひとかけらの勇気が息を吹き返した。 「いいえ……いいえ!」 ギルベルトの胸を押し、自分をあらゆる痛みから守ってくれるに違いない、温かな庇護の繭から抜け出す。 涙を振り払い、辺りを見渡したいちるは目についた魔族兵に駆け寄った。 「私の声が聞こえますか? 今から血を止めます。少々痛いかもしれませんが、我慢してください」 うめくばかりの魔族兵の耳元でそう告げ、割れた背中に手を添えて、命のうねりを発動する。 魔法力で輝き始めたいちるの背中と、拒絶された己の手を、ギルベルトは交互に見た。 「だーから言ったでしょー?」 ひょこっと脇からノグリエ・オルストロ(のぐりえ・おるすとろ)が顔を出す。 「そんな真綿でくるむような真似したって、いちるはちっともうれしくないって」 「だが……それが守るということだろう?」 ギルベルトは言いよどむ。 彼女を傷つけようとするものすべてから守る。ほかの方法を、自分は知らない。この手で守ることを拒否されたら、どうしていいか分からない。 「知ーらない。僕はいちるのこと、そういう意味で好きってわけじゃないしねー?」 ノグリエはふんふんと鼻歌まじりに歩き出す。 「たださぁ、ギルベルト。あんまり真綿で囲っちゃうと、その真綿でいちるが窒息してしまうかもしれないって、思ったことある?」 「…………」 ギルベルトは答えられなかった。ノグリエも最初から返事が返るとは思っていなかったようで、そのままいちるのそばまで行き、しゃがみ込む。 「いちる、いちる。ここは危ないよー? だからここで僕が見守っててあげるねー」 「言葉遊びは別の時にして、今はちゃんと働きなさい」 クー・フーリン(くー・ふーりん)が苦言を呈した。その手は休みなく動き、周囲の地面を整え、けが人が少しでも快適になるようテントから持って来ていたマットを広げている。 「えー? まったくもー、騎士様ひとづかいあらいなぁ」 「ほかの傷ついた方々を、連れてきていただけませんか? お願いします」 ぶちぶち言っていたノグリエが、とたん笑顔になった。 「いちるにお願いされたら、断れないなー」 「まったく、あの者ときたら……。 我が君。薬箱はこちらに置きます。包帯等ひと通り入れてきたと思いますが、足りなくなったらお知らせください。取りに行ってまいりますので」 「ありがとうございます、クー様」 それからしばらくの間、いちるは命を救うことに集中した。ほかは一切考えず、ただ目の前、消えそうな命の炎を絶やさないことだけを考える。 どのくらい時間が経ったのか。ずっとうつむきすぎて、背中が折れそうな痛みに伸びをしたいちるの視界に、ノグリエやクーとともにけが人を黙々と運ぶギルベルトの姿が入った。無表情なのに、どこか悄然として見えるギルベルト。 そんな彼をしばらく見つめていたいちるは、やおら立ち上がり、彼に近寄った。 「いちる」 「ギルさん。先ほどは申し訳ありませんでした」 「いや、べつに……ただ、俺は――」 「ギルさん。前にも言いましたけれど、ギルさんが守ろうとしてくださるのは、とてもうれしいんです。それがギルさんの愛情だと、私も知っています。それを感じられることは私の力になります。ギルさんに愛されるのは私にとって誇りです。でも、だからこそ、苦しいんです」 分かってほしい。ほかのだれよりも、ギルベルトに。 ギルベルトに分かってもらえなかったら、すべてが無意味に思えてしまうのだと。 「私は、ギルさんと対等でありたい。ギルさんが見るもの、聞くもの、感じるものを、ギルさんの横で一緒に感じたい。だから私の耳を、目を、ふさがないでください。私は生きる事にも学ぶ事にも痛みは伴うと、もう知っているんです。どうか目をそむけさせないで。ギルさんにそれをされたら、私はいつか従ってしまうかもしれない」 ギルベルトのことが好きだから、応じてしまう。自ら自分の目と耳をふさいでしまう……きっと、いつか。 でも、そうしたくないのだ。 「痛みを経験するからこそ学べることもたくさんあるって、ギルさんは知っていらっしゃるでしょう?」 「…………」 ギルベルトは何も答えなかった。このまま、無言を通すのではないかと思われたとき。 「すまなかった」 ぽつっとつぶやき、片手でいちるを抱き寄せた。目と耳をふさがないように気をつけて。 「……なんかなー」 それを見ていたノグリエが、いまいち納得できないといった様子でつぶやく。 「真実を見せるって、そんな大変なことかなぁ。僕なら、いちるが見たいって言ったらいくらでも見せてあげるよ? それこそ目いっぱい。たとえそれでどんなに悲しんだって、どんなに傷付いたって、それはいちるの勝手だしね。それこそ心が壊れたって、いちるの自己責任じゃん?」 だからこの悪魔は信用がおけないのだと、クーが無言でにらみ据える。その視線を受けて、ノグリエはくつくつと肩で笑った。かすかに開いた目で、いちるを見つめながら……。 |
||