校長室
自然公園に行きませんか?
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20 特にするべき用事もなくて。 どこかに行きたいわけでもなくて。 一日寝て過ごそうかと考えていた七刀 切(しちとう・きり)だったが、ふと黒之衣 音穏(くろのい・ねおん)も暇そうにしていることに気付いた。 「音穏さん」 「何だ」 「散歩にでも行かん?」 誘ったのは、なんとなく。 だって暇そうだったから。 理由にするには十分でしょうと笑いかけると、「脈絡がないな」と言いながらも音穏は出かける支度をしてくれた。 かくして散歩に出かけたはずだが。 ――問題。ワイは今どうしてこんな格好なのでしょうか。 切は自問自答する。 茂みの中に全身を突っ込み、こそこそと隠れているこの格好。見る人が見たら、いや誰が見ても通報モノである。 「七刀……」 苗字を呼ばれてぎくりとした。冷めた、呆れの色を含んだ声には聞き覚えがある。音をあまり立てないように注意を払って声の主を見上げる。そこにいたのは予想通りリンスだった。 「どうしよう、俺はおまわりさんに相談するべきなのかな」 「やめて。110番しないで。理由があるんです理由が」 ほらこっち、と手招きする。茂みの中に来なさいと。嫌だよと首を振られた。ので、いいから来いと手を引っ張る。がさり、大きな音がした。少し焦る。 「なに」 「いやほら音穏さんがね?」 あそこ、と指さす。 指した先には、地面にしゃがみ猫の相手をする音穏。 五匹の猫に囲まれて、「にゃー」と鳴いている。誰が? 猫が。音穏が。五匹と一人が。 「黒之衣……?」 さすがのリンスも驚いたようだった。鉄面皮が崩れている。ちょっと面白い。 「ね。これは隠れるでしょ。隠れて見ちゃうでしょ」 「うーん……」 「しかし、音穏さんがあそこまで猫好きとはなぁ……」 呟きがてら、切はこの瞬間までに起こった出来事を思い出した。 今日は日差しが強かった。風があるといっても、歩き続ければ汗ばみもするし喉も渇く。 だから、飲み物を買いに行こうと少し離れたその間。 音穏は、猫と睨めっこをしていたのだ。 どれくらい彼女はそうしていたのだろう。しゃがみ、微動だにすることなく、猫と目線を合わせて、黙る。 切も声をかけることができず、飲み物を手に立ち尽くしていた。その時音穏の口から発せられたのだ。「にゃー」と。隠れるしかなかった。そして見た。満面の笑みを浮かべた音穏の顔を。 「正直言ってワイ、嫉妬したからね」 「猫に?」 「だってあんな顔、ワイ見せてもらったことないんですが」 「そりゃねえ」 軽口がさっくり刺さる程度には、猫に対して敗北感と強い嫉妬。 「クロエにだったらなあ、納得できるんやけどー……って噂をすれば」 リンスを探しているのか、クロエがきょろきょろと辺りを見回しているのを見つけた。切はぱたぱたと手招きする。 「クロエちょっとこっち来て! いいもの見られるよ!」 「きりおにぃちゃん? リンスも! なにしてるのよぅ。へんなひとよ?」 ストレートな物言いが、リンスの軽口よりも断然ぐっさり刺さったけれど気にしない。「まあまあ」と流して一緒に茂みから顔を出す。 「……!!」 そしてクロエも驚いた顔をした。音穏と猫を見て、切を見て、また音穏を見て。それから口元を押さえて「うふふー」と笑った。 「いいものだろー」 「いいものだわ! ねおんおねぇちゃんかわいい……!!」 「だよねえだよねえ!」 「……二人ともそんなにはしゃぐとさ、」 ばっ、と猫が茂みを見た。あ、バレた。そう思っている間に、音穏が振り返る。 「〜〜っ!!」 みるみるうちに、音穏の顔が真っ赤になった。背を向ける。クロエが茂みをひょいと飛び出し、音穏に駆け寄り抱きついた。 「かわいかったの!」 「言うなクロエ。言うな」 「どうして? すっごくすてきなえがおだったわ」 「……恥ずかしい……」 クロエ効果か、隠れてみていたことに関するお咎めはなかった。心中でほっと胸を撫で下ろす。 「猫好きなんだ?」 が、リンスがそっと燃料を投下していった。一旦落ち着いていた音穏の様子が、また揺らぐ。 「なな何のことだかわからんにゃ」 「噛んでる噛んでる」 「にゃーなんてな、にゃーなんてな、我は言ってないからな!? そっ、それに猫だってな、別に大好きというわけでは――」 「黒之衣。頭に猫乗ってるよ」 「なーぉ」 「…………」 子猫が、音穏の頭を居場所にしていた。すっかり懐いている様子。 反論の一切ができなくなった音穏が、つかつかと切に寄ってきて、 「殴らせろ」 「なんで!?」 「この感情をどこに向ければいいかわからないのだ」 「いいじゃん、可愛かったんだか」 言い切る前に、思いっきり殴られた。 ――なんでワイだけ? クロエが可愛いと言っても照れたじゃないか。リンスの素の問いは受け止めたじゃないか。 ――き、きっと音穏さんにとってワイは拳で語れるほどの信頼が……! ――嬉しすぎてワイ、涙出そう! ね! うれし涙がね! 言い聞かせている間に、音穏は開き直ったらしい。頭に乗っていた猫を胸に抱き、 「こんなに可愛いんだから仕方がないだろう」 と微笑んでいた。 言ったら怒られるだろうから言わないけれど、自然で、本当に可愛い笑顔だった。 *...***...* 散策コースから少し離れた林の中。 早川 呼雪(はやかわ・こゆき)は切り株に腰を下ろし、目を閉じていた。 手には、十二弦のアコースティックギター。弾くでもなしに、ただそっと手を添えている。 視覚を閉じた世界から得る感覚は、普段よりも鋭いもの。 木々の息遣い。 風が運ぶ匂い。 小鳥の囀り。 生き物の気配。 自分を取り囲む周りの環境を、余すことなく感じようと。 また、自らもその一部となろうと。 「…………」 全てのものには音がある。そして、大きな流れの中にある。 その中で、あるとき浮かび上がった旋律に、応えるように弦を弾く。 奏でては止め、奏でては止めの繰り返し。 断続的な調べ。 楽曲というには断片的で、けれど、一つ一つ形にはなっていて。 だけど、これはきっと、ここでしか価値がない。 今この時、この瞬間だけに意味がある、そういう音。 呼雪は全ての音を覚えているから、断言できる。 別の時、別の場所で奏でたとして、『再現』までしか出来ないと。 決して『同じ』ものになることはない。 そういう、一期一会の出会いの音。 ――……こういう感覚、理解してくれる人ってなかなかいないんだよな……。 ――ヘルは魔法の分野に長けているせいか、ある程度慣用に見てくれるけれど。 ふと、人が地面を踏む音が聞こえた。二つの足音だ。成人女性くらいのものと、あまりに軽すぎる者の音。 何だと思って目を開ける、と。 「人形師か」 リンスとクロエが立っていた。 「何してるの、こんなところで」 「同じことが言えるな」 「それもそうだね」 呼雪は、ヘル・ラージャ(へる・らーじゃ)とマユ・ティルエス(まゆ・てぃるえす)の座るテーブル席を指差した。 「時間があるなら少し話していかないか。オープンカフェで買ってきたものが幾つか残っていたはずだ」 「早川は」 「俺も休憩する」 立ち上がり、先導するように歩くと、後ろから足音がついてきた。座る前に水筒を出し、中身の冷茶をコップに注いで差し出す。 ヘルが、終わりなの? と目で問うてきた。首を横に一往復させて、否定の意。 「ケーキを食べに」 なるほどと頷いて、ヘルがクレームブリュレを三人分用意した。 「あのお店正解だよ、美味しいもの」 とも添えて。 ヘルの言うとおり、クレームブリュレは美味しかった。ぱりぱりのカラメルがほろ苦く、プリンは滑らかで甘い。持参した冷茶と合ったのも良かった。 人心地ついてから、呼雪はリンスを見た。彼は、作り手だ。少し話を聞いてみたい。 「人形を作る時ってどんな感じなんだ?」 「オーダーされたものなら、極力希望に沿うように。その子が愛してもらえるようにって」 「自由に作る時なら?」 「……うーん」 問いに、リンスは数秒考え込んだ。そして、 「何も考えてないかも」 こんな答えでごめんね、と言った。 「いや。十分だ」 たぶん、彼は『声』を聴いているのではないかと呼雪は思った。 道具か、材料か、自分自身のものか。それは定かではないけれど。 だから、リンスの作る人形にも、きっと『同じ』ものはないのだろう。 話を聞いて、先ほどのように溶け込みたくなった。 行ってくる、と言い残し、呼雪は席を立った。 「聞きそびれたんだけど、あれは何をしているの?」 と、リンスが言ったので。 「いのちの歌を紡ぎ出しているんだよ」 と、ヘルは答えた。 以前から、呼雪はああいった演奏をすることがあった。そして、薔薇の苗床になったり、タリアと契約した後はその傾向がより強くなった。 「自分の中に取り込んでいくんだ」 大切にしまい入れた歌は、世に出ることは決してないけれど。 「すごいことをしてるんだね」 「うん」 そう、だから、少し放っておかれるのも、仕方がない。 ――僕の存在もちゃんと感じてくれてるの、わかってるけど。 それでもやはり、どこか寂しく思う。 呼雪が自然の中に行き、ヘルがリンスと話している頃。 マユは、クロエと一緒にテーブルについていた。 「誰でも自分の『音』を持ってるんだって」 「おと?」 「そう」 どんな『音』がするのか、まだマユにはわからない。 目の前の可愛らしい少女が奏でる音も、またリンスがどのような音を発しているのかも。 ――ぼくにそれが感じられたら、リンスさんとクロエちゃんは、きれいに響き合ってるように見えるだろうな。 ここに来た時の二人は、それが当然であることのように寄り添っていた。 そうあることが、自然である、ような。 「マユおにぃちゃんのおとは、きっとしっかりひびくおとをしているわ」 「え?」 「まわりのおとにもまけない、つよいおとよ。きっとね」 クロエには、『音』が聴こえているのだろうか? でも、『きっと』と言っていた。だから推測なのだろう。 彼女が言うように、芯のある、他のものに負けない強い音。 そんな音を響かせられたらいいな、とマユは思った。