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 第14章 幸せと思える選択を

 近代的なレジスターから、昔ながらの“チン!”という涼やかな音が鳴る。黒い背景の表示板に並ぶオレンジ色の数字を見て、レン・オズワルド(れん・おずわるど)は絶句した。
「……………………」
「ありがとうございましたー」
 支払いを終え、空京でも五本の指に入ると評判のカウンター式寿司屋から外に出る。そこで待っていたフリューネ・ロスヴァイセ(ふりゅーね・ろすう゛ぁいせ)は、くすくすと笑いながら彼に言った。
「どうだった? 予算からどの位はみ出たのかしら」
「……ざっと2倍といったところだ。そこまで予想外な金額でもないさ」
 予算内で済まないことを前提に聞いてきた彼女に、レンは平静を装って軽く答える。実際は昼食予算と考えていた金額の5倍程だったが、それを真正直に言う必要もないだろう。
「へえ、思ったよりリーズナブルなのね。値段は全部時価だし、ちょっと腰が引けてたんだけど……今度は自腹で来てみようかしら」
「いや、それは……」
 止めた方が良いんじゃないか。と少々焦る。しかし、フリューネは全てお見通しという顔つきで、彼が皆を言う前に言葉を重ねた。
「言っとくけど、いつもこんなに図々しいわけじゃないんだからね。遠慮してもレンは喜ばなさそうだし、今日は搾り取っていいって許可貰ってるから」
 出掛ける前、事務所でノアと話していたのはそういうことだったらしい。レンの財布は即ちギルドの財布でもあるのだが、ノアとしてもこの日は特別らしい。だが、そうなると会話の中に『チャンス』という単語があった気がしたがそれはどういう意味なのだろうか。
 先日、フリューネには1歳になる友人の娘の誕生日会に付き合ってもらった。その際には食材の買出しやケーキ作りにも協力してもらい、今日はそのお詫びとして彼女の買い物に付き合うことにしたのだ。
 有体に言えば荷物持ちであり、彼はもう今の時点で午前中に買った分の袋を提げている。完全に、彼女主体での1日だ。
 前方から歩いてくる人々の中に、見覚えのある女性の顔を見つけたのはその時だった。
「あ、憂内君、ちょうど良かった」
 女性――昔の同僚である栗田 明美(くりた あけみ)は、レンと目が合うと幸運とばかりに声を掛けてくる。栗色の髪の彼女は、以前と変わらず黒のパンツスーツに身を包んでいる。
「さっきね、冒険屋ギルドの事務所に行ったのよ。で、出掛けてるって聞いたからどこかで時間を潰そうと思って……でも、会えて良かったわ」
「何だ、俺に逢いに来たのか?」
「そう。立ち話で済むような短い話でもないからどこかでゆっくりしたいんだけど」
「話か……今は時間が取れないから、夕方でもいいか? 17時位なら事務所に戻れるだろう。1階にあるオープンカフェで話をしよう」
「オープンカフェね。分かった。じゃあまた後でね」
 明美はさばさばとした笑顔で、それだけ言って離れていく。彼女の後姿を見ながら、レンは神妙な気分になってしまう。わざわざ東京から来たのだ。余程の用事があるのだろう。
「なあに? 誰? 彼女」
 だが、その思考はフリューネの声に断ち切られた。彼女の前で女性と会話したという事実で、一気に焦燥感が湧き上がる。背中から嫌な汗が一筋伝う。
「あ……ああ。元同僚だよ。現職の公安部外事課刑事だ。後で事務所で会うことにした」
「ふぅん……まあいいけど。それより、ほら、買い物行きましょ」
 フリューネは先に立ち、洋服店を何軒もはしごしたりと積極的に買い物をした。行く店の数と比例して、レンの持つ荷物の量も増えていく。
「ねえ、レン、このピアス買ってもいい?」
 10代20代の女子に人気のアクセサリーショップで、フリューネはガラスケースの中に展示されたピアスをレンに見せた。
「…………。勿論だ。今日は何でも好きな物を買っていい」
 値札に記されたゼロの数に数秒思考停止に陥った彼だったが、何とかそう声を絞り出すことに成功した。
 荷物持ちに合わせて辛いと言えば辛いが、それでも、好きになった人と一緒に過ごす時間である。悪くない、と思ってしまう自分に、レンはつい苦笑した。

「お帰りなさい、レンさん、フリューネさん!」
 17時前にギルドに戻ると、オープンカフェには既に明美が到着していた。彼女の相手をしていたノア・セイブレム(のあ・せいぶれむ)は話を切り上げて2人の下へ小走りで駆け寄ってくる。レンに「お客様来てますよ」とついでのように言うと、待ってましたとばかりにフリューネの腕を取って近くの席に座った。明美の席へと歩を進めるレンの耳に入ってくるのは、期待に満ちたノアの弾んだ声だ。
「お店の場所、分かりました? あ、そう! そう、このピアスです!」
 ギルドマスターの仕事を抜けられなかったノアは、どうやらフリューネに買い物をたのんでいたらしい。というか、あの高いピアスはノアの希望だったのか。
「やっぱり、フリューネさんのお願いならレンさんも許してくれましたね! これ、前から欲しかったんです。ありがとうございますー!」
 他にも、私には所持金が無くてお金が自由に使えないので、このチャンスを逃す手はなかったんですよ! と嬉しそうに話している。『チャンス』とはそういう意味だったらしい。
「フリューネさんは何を買ったんですか? 見せてくださいー」
「いいわよ、まずはね……」
 フリューネとノアは、買ってきたものを広げてトークに花広げ始めた。一方、明美の前に座ったレンは、怪訝な思いと若干の警戒心を持って彼女と対した。こうして会うのは久しぶりだが、懐かしさよりも用向きへの疑問が先に立つ。
「待たせたな。それで、話っていうのは?」
「そうね。憂内君にとってあまり愉快な話じゃないかもしれないわ。私は、公安上層部からのメッセンジャーとしてパラミタに来たの」
「メッセンジャー……公安から、直々にか」
 釈然としないレンに、明美は真顔で首肯する。レンはかつて、同僚殺しで職を追われた身だ。その自分に、今更何の用があるというのか。
「憂内君、このギルドを作ってから色んな事件に関わってきたでしょ。その活躍ぶりは、公安の耳にも入ってるの。レン・オズワルドという名前の冒険屋が憂内干斗と同一人物だという裏も取れてるわ。で、まあ、簡単に言うと……」
 ――戻ってこないか、という誘いらしい。
「…………」
 レンは驚きと共に少々の呆れを感じた。どの面下げてという話ではあるが、彼等なら言いかねないと妙にしっくりくる部分もある。流石、公安部の心臓には剛毛が生えている。
 だが、元々レンに同情的な考えを持っていた明美がそれに賛同するとは思い難いものがある。
「……仕事だから伝えに来たけど、私はこの話、蹴った方が懸命だと思うわ。役人に利用されるのがオチよ」
 案の定、彼女はそう言った。
「そう思うなら何故メッセンジャーを引き受けたんだ? 断れと言う為か」
「わざわざ私が言わなくても、憂内君なら多分断ってるでしょ。久しぶりに顔が見たかったっていうのもあるけど……もう1つ。直接渡したい物があったから」
 そして、明美は鞄から一枚の葉書を出してテーブル上を滑らせた。
「これは……」
「見ての通り、私の結婚式の招待状。相手は、普通のサラリーマンの男性よ。でも、私は幸せで満足してるの」
 婚約指輪だろう。指に嵌った指輪を見下ろし、照れくさそうに彼女は笑う。
「あなたにもその幸せを祝ってほしいの。あの羽根つきの彼女を連れてきても良いわよ」
 悪戯っぽく言って、明美はじゃあ、と席を立つ。
「……だから、東京でまた逢おう」
 純粋だからこその透明感を湛え、彼女は笑った。