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【真相に至る深層】第三話 過去からの絶望

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【真相に至る深層】第三話 過去からの絶望

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 それは、一万と数百年の過去の物語。

 何処から歪んでしまったのか。
 それとも最初から間違っていたのか。
 今となっては判らない。
 狂いだした歯車は、悲鳴のように軋む音を上げる。
 海の中に息を潜めるようにして存在していた、海中都市ポセイドンは今、崩壊の時を迎えようとしていた――……






【捩れていく物語】





「首尾は?」
「…………怠り、ありません……」

 真っ青な顔をした壮年の男性が、消え入りそうな声でそう答えた。
 ラウリーチェと名乗った女性は満足そうに口の端を僅かに緩め、訴えるような眼差しを向けるその男に「心配はいりません」と囁きかけた。
「ご家族はつつがなく、貴方の迎えを待っています」
 その声にびくりと男は身を強張らせ、土下座せんばかりの勢いで縋るような眼差しをラウリーチェに向ける。とてもではないが、巫女見習いの神学生へ向けるような態度ではない。それもそのはずで、ラウリーチェ……純白の二枚貝の貝殻で作った眼帯で左目を隠すその女性の本当の名はマヤール・オルセウロ。蒼族の長ビディリードに仕える異端の一族の娘だ。ドーランを使い浅黒い肌を隠し、染料で髪を銀色に染めて髪形も変えているが、その目つきの鋭さは隠しようも無い。怯える男に、マヤールは優しいとすら言えるような声で囁きかけた。
「さあ……次のお勤めですよ」
 その声と共に手渡されたものに、男は手を震わせる。入っているのは、都市でもありふれた食材から採れた貝毒を粉末状にしたものだ。紅族貴族の毒見役を務めるこの男に、家族を人質に、それを紅族族長オーレリアの食事へ少量ずつ混ぜるように命じたのはいつからのことだったか。オーレリアの変質が人の耳に上るほどになった理由の一端がここにあると、誰が気付いていただろう?
 逃げるように遠ざかっていった男の背中を見送って、マヤールは薄く笑うと、自らの目を覆う貝殻の上をそっとなぞった。
「ビディリード様は約束してくれた。異教徒の私を、海の上の彼方にある聖地へ連れて行ってくれると」
 巫女のために作られ、龍のためだけに存在するこの都市の中で、異教の徒であるマヤールの一族の存在は異端中の異端だ。そんな彼等を庇っていたのは勿論、ビディリードにも利用価値があると思ってのことだろうが、それでも三色の一翼を担う男の庇護は大きく、それがあればこそ今まで生きてこられたのだ。恩義は重く、マヤールは信じることに何の躊躇いもなかった。その約束が叶えられると、疑うことすらも無かった。自分の行いが、明るみに出れば死を意味する行為であるということも、判っていて尚、手を染めることを誇りだとすら感じていた。
「全てはあの方のために……」
 熱に浮かされるように呟かれたマヤールの声は、不気味な甘さと共に夜の闇に溶けていったのだった。
 




 そして――時は、流れ。都市が最期を迎える日の、前夜。
 その夜は、季節感に乏しい海中にあって、酷く寝苦しい夜だった。
 息が詰まるようなこの圧迫感は、行為のせいでは無いだろう。
 アンリリューズは、愛する男の腕に抱かれながらも、拭えないその感覚に身震いすると、ビディリードは何を思ったか、その裸の肩を抱き寄せて耳朶に歯を当てながら「怖いのか」と囁いた。からかっているように聞こえるが、それを額面通りに受け取ってはいけないのがこの男だ。アンリリューズは口元に笑みを載せた。
「そうね。あなたが、怖いわ。焼かれてしまいそうなのだもの」
「仕方有るまい? 明日こそ、全てが叶うのだ」
 昂ぶらざるを得まい、と、機嫌良さげに喉を笑わす低い音が直接耳奥を震わせ、アンリリューズはぞくぞく背中に這う感覚に息を漏らし、首筋を辿っていく唇に喉を逸らせた。その喉元へ、ビディリードの歯が甘く当って皮膚に熱を点す。
「漸くだ……これで、我等が大望は成就する。神殿にも、あの女狐めにも、これ以上好きにはさせん」
 その口から漏れるのは、獣のような笑いだ。檻を放たれた獣が、獲物に飛びかかる前に見せる獰猛な愉悦だ。だが決して野生のそれではなく、喰うために牙を砥がされた処刑用の虎を彷彿とさせて、アンリリューズの中にぽつりとインクの滲むように不安が落ちる。
(けれどそれも……仕方の無いことだわ。まるで檻だもの、ここは)
 逃げ場の無い世界、変化を禁じられた場所に押し込まれ、押し付けられ、呪いのように刻まれた蒼族の暗い野望。蝕まれるように少しずつ、その目が尖っていく様を、傍らで見てきた。決定打になったのは身ごもった子供を喪った時だ。長い間に歪み捻れて積み重なったものは、そこで限界を迎えたのだ。
「私は……我々は、自由になるのだ。そのために……っ」
 まだ吐き出されようとした、怨嗟にも似た声を、アンリリューズは阻むように唇を重ねた。そのまま隙間を割り、息を飲み込んで声を奪い、誘うように自らに招く。
「全ては明日……そうでしょう?」
 今この逢瀬を暗く淀ませるのは野暮と言うものだ、と、その口元が甘く笑ったのに、ビディリードは僅かにその目元を緩めると、返答として自らも唇を重ねた。不安と高揚、焦燥と渇望。互いの中に燻るそれらを燃やし尽くしてしまおうかと言うように、ひたすら互いの奥を奥をと貪るようにして求め、交じり合う汗の匂いが天蓋の下に満ちた。
「…………っ」
 言葉は無く、声も次第に人のものではなくなり、縋る腕の指先が皮膚の上に赤く筋を刻み、その熱が頭の中まで赤く赤く塗りつぶしていく。まるで名残の全てを焼き付けてでもおこうとするかのように、男女の夜はそうして、更けていったのだった。






 ――……翌、早朝。
 きらきらと水面の揺らぎを乗せて、都市に光が差し込み始める頃が、最も美しい時間帯だ、とアトラは思う。家々の屋根が白い光に当って輝き、神殿の最上階から見下ろすそれは、光の海が広がっているかのように見えるのだ。歌にある、地上の朝焼けと、どちらが美しいのだろうか、と、そんなことを思いながら、自分の対とも言える同じ紡ぎ巫女の少女カナリアを見やった。そうしていると鏡を挟んで向かい合っているかのように見える二人は、言葉無く視線を交わすと、再びその目を地上へと戻した。
 朝を謳い、これから始まる一日を思いながら、今日に繋がる今までの歴史をその唇に載せて詠う。それが、紡ぎ巫女と呼ばれる二人の役目だ。だがこの日は、心なしか空気がざわめいていて歌うまく乗ってくれず、カナリアは不思議そうに首を傾げた。
「波が……揺れてる。深い木霊、焦がれる……なにか。想って、啼いている……」
「何が啼いているのです?」
 アトラは問うたが、カナリア自身にもわからないのか、緩く首が振られて、美しい髪色が揺れた。
「想うこと……染まる色……望む、は黒く……?」
 殆ど口を効くことのないカナリアの、そういう細切れな言葉は、アトラにもよく判らないことが多く、実際その言葉を理解し、又彼女へ命令にも等しい言葉を与えられるのは、この神殿の主である黄族の族長ティーズを除けば、彼女の数少ない友人であるキュアノスと、アジエスタぐらいのものだ。特にカナリアはアジエスタのことを殆ど主であるかのように懐き、その言葉を飲み込む。アトラはアジエスタに契約と言う形を取って助力を決めたのだが、カナリアは恐らく、彼女が頼んだだけで力を貸しただろう。
(この2人は……なんなのでしょうね)
 ふとそんな疑問が過ぎった、その時だ。
 小さな羽音が、2人の元へと飛び込んできた。アトラの唯一の友人とも言える、真っ白い金糸雀だ。アトラの伸ばした細い指先に止まった金糸雀が、その美しい声で囀ると、2人は顔を見合わせた。
「……アジエスタからの、伝言ですね」
 こくりとカナリアが頷いたのに、アトラはすくりと立ち上がると、扉の向こうへ控えた従者へ「夕暮れを過ぎた後、儀式を始めます。この場所に続く扉を全て封じなさい」と口を開いた。
「何者も、ここを通してはなりません……族長でさえも」
 対して、行動も返答も速やかだった。どうやらアジエスタからも幾らかの指示を受けていたのだろう、ぱたぱたと慌しく従者達が動く中、アトラは白い金糸雀の頭をそっと撫でてほんの僅かにだけ口元を微笑みに緩ませた。
「……あと、すこし。あと少しで、本当の空を見ることができる」
 淡い希望がその胸を満たし、2人の少女はそっと互いの手を取って呼吸を整え始めた。紡ぎの巫女である2人には「縛りの歌」の効力は他の巫女よりも弱くあるが、逆に彼女たちにはその場所そのものがある。神殿の核の内のひとつであるその最上階で、都市の記憶を紡ぐ序曲がゆっくりと紡がれ始めた。夕暮れが訪れる頃には、その歌は縛りの歌へと変わるだろう。

 少女達は知らない。
 彼女達が歌う「縛りの歌」に込められた本当の意味も、その結末も。
 そして、淡い夢が決して、叶うことが無いこともまだ、知らないでいた。