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第三章 開幕

 大広間の中心から、しゃかしゃかと小気味よい音が響き渡る。
 流れるような手つきで柄杓を用い、熱いお湯を椀へと注ぎ込んだ伊達 黒実(だて・くろざね)は、慣れた手つきで茶せんを動かす。次第に表面がきめ細かに泡立ち始めた所で静かにのの字を書いて両手を椀から離し、茶せんを傍らへ置くと、黒実は盆に椀を乗せて優雅に立ち上がった。
 ヴラドの一声で始まったパフォーマンスの先陣を切った黒実は、持ち込んだ茶道具一式で抹茶を点てた。事前にその場の全員へと配布された小さな和菓子が期待を高める中、容姿を整えられたヴラドが腰を下ろす椅子の元へと、しめやかな足取りで黒実は歩み寄って行く。
「……ええと、……結構なお点前で」
 二回回して差し出された椀を両手で受取り、偏った知識の中で何とかヴラドは言葉を選び出す。口を付ける前から発されたそれににっこりと笑みを返し、黒実はこの場の全員分のお茶を点てるため、持ち込んだ座布団の場所を移動して再びお点前を始めた。
「いっくよー!」
 そして早くも、次なる魚住 ゆういち(うおずみ・ゆういち)が準備を終えていた。舞台の中央には、大きなテーブル。そして大きなまな板の上には、一匹のカツオ。ゆういちは一度見せ付けるように包丁を掲げ、それからすっと目つきを真剣なものへと変える。
 生徒達、そしてお茶を手にしたヴラドの視線が集まる中、ゆういちの包丁がカツオへと差し込まれる。そこから先は流れるように、まるで一つの演技であるかのように鮮やかな手つきで、しかし確実にカツオを捌いていく。
 そして見事に盛り付けられたカツオの刺身に感嘆の声を漏らしたヴラドへ、ゆういちは一礼の後おもむろにその海色の双眸へ涙を浮かべた。
「綺麗に盛り付けてやらないとさ、失礼だろ? ちょっと前まで元気に海を泳いでたんだ、こいつら」
 ぐいっと手首で涙を拭い、すぐには状況を理解出来ないヴラドへ、ゆういちは語る。
「俺たちは他の誰かによって生かされてる。だから、せめて心の中で感謝していないといけないんだと思う」
 軽快な調子から一転して紡がれたその言葉に含まれる意味に、ヴラドは口を結んで黙り込んだ。落ちる重い雰囲気の中、しかし一人の生徒が刺身へと歩み寄る。
「何だか知らねーが飯、飯」
 呟きながら新鮮な刺身を指先で摘まんだのは、旅の途中に迷い込みたまたま立ち寄った切縞 怜史(きりしま・れいし)だ。異常な速度で刺身を平らげていく彼の一口を皮きりに一斉に刺身へと群がり、ゆういちに次を要求する生徒達を見回し、ゆいいちはけろっと笑みを浮かべる。
「はいはい皆さんどうぞーウマいよー! 魚住鮮魚店をよろしくぅ!」
 鮮やかなまでに商売笑顔へと表情を変えたゆういちもまた、少し場所をずらして再び魚を捌き始めた。 
「私の分は残りますかねぇ……」
 取りに立ち上がる機を逸したヴラドが不安げに呟くその視界に、突然何かのもこもことした耳が割り込む。
 疑問を露に首を傾げたヴラドの正面に立ち、モモンガらしき着ぐるみを纏ったラヴィン・エイジス(らうぃん・えいじす)はもこもことした胸を張って見せる。
「えっへん!」
「…………」
 対応に困ったヴラドが黙りこむのを、どうやら見逃したのだと判断したらしい。もう一度えっへんと口に出しながら、ラヴィンは無い胸を張る。
「……それは一体、何ですか?」
 かなりの間を置いた後にヴラドが漸く問い掛けた頃、彼の視界に収まるのは既に遠ざかって行く茶色の尻尾だけだった。刺身を囲う円へと突撃していくその言動を理解出来ずに、ヴラドは困惑を露に頭を抱えた。
「俺がお持ちしましょうか?」
 柔らかくそう問い掛けたのは、執事としての正装を身に付けヴラドの傍らに控える椎名 真(しいな・まこと)だ。拗ねたように左右に首を振るヴラドを見下ろし、困ったように後頭部を掻く。一日執事を申し出た真は、ヴラドの飲み終えた椀を片付けるなど、椅子から立とうとしないヴラドの世話を焼いていた。


 次にパフォーマンスを予定している合唱団は、別室で最終調整を行っているらしい。黒実とゆういちを生徒達が囲う中、空白を持て余すヴラドへ歩み寄る影があった。
「のう。……一つ、良い話があるのじゃが?」
 悪い笑みを浮かべ、パートナーのロ式 火焔発射器(ろしき・かえんはっしゃき)を伴って近付くシルクハットの男性は、四石 博士(しこく・ひろし)。訝しげに細めた眼を向けるヴラドへ、囁くように博士は言う。
「薔薇の学舎に確実に入れる方法があるのじゃよ」
 その言葉にぴくりと肩を跳ねさせたヴラドは、慌てて周囲を見回した。傍に控えていた真は今、ヴラドの指示で舞台の片づけをしている。こちらに向けられる視線は幾つか感じるものの、声が届くであろう範囲に人の姿は無かった。
「……それは、一体……?」
 理想的な提案に浮つく心地を抑え切れないヴラドを宥めるように肩を撫で、博士は声を潜める。
「薔薇の学舎の校長とは旧友では、我輩に任せておけば間違いは無い」
 その嘘を見抜くことは、冷静さを失ったヴラドには叶わない。じっと縋るようなヴラドの視線に、これは容易いと感じた博士は内心でにんまりと笑みを深めた。
「貴殿はドラゴンの子を飼っていると風の噂に聞いた。なに、その手なずけ方を我輩に教えるだけでよい」
 ちらりとヴラドの脳裏にたまの姿が浮かぶ。あまりにも容易に思えるその条件に、ヴラドは満面に喜色を浮かべた。
 傍らで周囲を窺う火焔発射器の口元が、怪しく歪められた。


 暫し時間が経ち、しかし一向に現れない合唱団に、ヴラドは苛々と爪先で床を叩いた。
「様子を見てきます」
 頑なに立つことを拒んでいたヴラドが重い腰を上げ、真がそれに続く。練習用にと宛がった部屋へ床を軋ませ歩いていき、ドアノブへ手を掛けた所で、ヴラドはふと動きを止めた。
「……、これは期待するだけ無駄なようですね」
 結局扉を開くことも無く踵を返したヴラドを、慌てて真が追う。
「良いんですか?」
 困惑を露に問う真へ、ヴラドはおざなりな頷きを返す。扉の向こうから一瞬聞こえた歌声は、確かに美しい声であったものの、まるで調和していないようにヴラドの耳には響いた。
「彼らは放っておきましょう。次です、次」
 遠ざかる足音は、扉の向こうで睨み合うクリストファー・モーガン(くりすとふぁー・もーがん)クリスティー・モーガン(くりすてぃー・もーがん)の耳には届かなかった。共に練習していたシャンテ・セレナード(しゃんて・せれなーど)リアン・エテルニーテ(りあん・えてるにーて)も練習を中断し、困ったように二人を眺めている。
「どうしたんだよ、クリスティー」
 何処か不協和音となる歌声を重ね合わせようと最後の調整を行っていた最中、急に歌を投げ出し床へ座りこんでしまったパートナーの姿を、クリストファーは困惑と憤りの双方を込めて見下ろす。真っ直ぐにその瞳を見返すクリスティーは一向に立ち上がろうともせず、不機嫌に鼻を鳴らした。
「やっぱり無理だよ、クリストファーなんかと一緒に歌えるわけない!」
 そう言って部屋を飛び出すクリスティーを、クリストファーは呆然と眺めていた。咄嗟の事に思考が追い付かない彼に代わって、シャンテと視線を交わし合ったリアンがクリスティーの後を追う。
「……クリスティー」
 ぽつりと呟くクリストファーに、シャンテは何も言えず佇む他に無かった。


 不満げに椅子へ腰かけ直したヴラドの元に、一人の生徒が近付いてきた。
 繊細な面持ちに何処か儚げな微笑を湛えた神無月 勇(かんなづき・いさみ)はヴラドの隣に立ち、静かな声音で語り掛ける。
「キミが学舎から追い返されるところ、見ていました」
 ぎょっと目を見開いたヴラドは、気恥ずかしさに駆られるまま口元に手を当てる。学舎への入学を望んでは門前払いをくらっていた姿を見られていたと言うのなら、それは些か恥ずかしい。
 しかし勇はそんなヴラドを笑うでもなく、穏やかに続ける。
「いつも他人に拒否されて、……辛かったんだね」
「……私は」
 体の芯にまで響くような勇の言葉に、ヴラドは片手を胸元へ当てた。皺一つない燕尾服の胸元を苦しげに握り締め、続かない言葉を絞り出す。その言葉を受け入れてしまうことは、何となく恐ろしい事に感じられた。
「いやー、流石よくわかっていらっしゃる」
 優しくも息苦しい雰囲気に呑まれたヴラドが席を立とうとした刹那、不意に現れた青年に、ヴラドは意識を奪われた。ぽかんと向けられるヴラドの視線を受けて、青年こと明智 珠輝(あけち・たまき)は姿勢を正して華麗に一礼する。
「失礼、初めまして。明智珠輝と申します」
 端正な面持ちに何処かそぐわない笑みを浮かべつつ名乗った珠輝は、頷くヴラドへと立て続けに語り掛ける。
「ふふ、男色の吸血鬼と伺いましたので、つい」
 肩を竦めて含み笑う珠輝の言葉に、ヴラドはぱっと表情を輝かせた。どうやら同じ嗜好を持つ相手らしいと、胸の高鳴りを押さえられないままに身を乗り出す。
「ええ、はい! あなたもですか!」
「勿論です。しかし貴方は、まだ男色の真の道を理解してはいらっしゃらないようだ」
 はふう、と嘆息を漏らす珠輝に、ヴラドはごくりを息を呑む。今までにない程真剣に引き締められた表情から、傍に控える真は思わず視線を逃がした。
「真の道、とは?」
 神妙に問い掛けるヴラドに、珠輝は拳を握り締める。
「男色の道は、単独で為せるものではありません。繋がり合うからこその男色。その気持ちよさを感じてこその男色だと言うのを、貴方はまだ解っていない……!」
「……人前で、男色男色と連呼するな……」
 力強く言い切る珠輝の傍ら、頬を赤らめたリア・ヴェリー(りあ・べりー)が低く呟く。しかしそれを聞き入れる様子も無く、妖艶な笑みを深めた珠輝は、椅子に深く腰掛けるヴラドへと更に歩み寄って行くとその肩へ腕を回し、くたりとしなだれかかった。言葉を紡ぐ度に触れる吐息に、ヴラドは鼓動を高鳴らせる。
「そう、貴方に今必要なのはまさしく繋がりです。心の、そして身体」
「公衆の面前で何をしている!」
 しかし最後まで言い切ること無く、顔を真っ赤にしたリアに蹴り飛ばされた珠輝は、ぐてりと転がり落ちた。ぱんぱんと手を払ったリアは桃色の髪を軽く掻き上げ、怯えるヴラドへと一転して笑みを向ける。
「そこの阿呆の主張はともかく。人との関わり合いが美しさを育てるなら、それは今すぐに会得できるものではないと思うよ」
 何事も無かったかのように起き上がった珠輝は一つ頷き、言葉を引き取るように口を開く。
「まずは、一番の理解者となれるパートナーとの心身双方の繋がりを大切にして下さい。優しい心もまた、美しさを育てるのには必要なものですよ」
 余計な一言を除いたなら至極まっとうに思えるその言葉に、ヴラドは再び浮かんでいた心が掻き乱されるのを感じた。ざわざわと落ち着かない心地に囚われる
「話は聞かせてもらったよ」
 突然空から降ったようなその声に、ヴラドは首が痛くなる程に前を見上げた。のんびりとした声でそう言い放った麻野 樹(まの・いつき)は、ぼきっと音の鳴った首を押さえるヴラドを見下ろし、穏やかに問い掛ける。
「君は、パートナーの事をどう思っているんだい?」
「……。シェディは、……パートナーです。それ以外の何でもありません」
 強張った声音で答えるヴラドへ、樹の背後から顔を出した雷堂 光司(らいどう・こうじ)が畳み掛ける。
「ヴラドにとって一番大事なのは何なんだよ、薔薇の学舎に入学することか? パートナーは大事じゃないのかよ!」
 声を荒げる光司を宥めるように静かな一瞥を送り、口を閉ざすヴラドを真っ直ぐに見詰めたまま、樹はもう一度問い掛けた。
「シェディ君のこと、どう思っているのかなぁ?」
「…………」
 黙り込むヴラドを眺め、笑みを浮かべたまま困ったように樹は肩を竦めた。その直後、おもむろに光司の腕を引き寄せる。疑問気な光司の視線にもただ笑みを返し、反対の手を彼の青髪へ抑え込むように差し入れると、そのまま唇を重ね合わせた。
「ン、……ぅ」
 驚愕に目を見開いた光司を宥めるように押さえた後頭部を撫で遣り、微かな水音を立て、真紅の瞳を丸く見開いたヴラドの視線の先で、二人は深く口付けを交わし合う。おお、と興味深げに珠輝が呟き、リアは再び頬を紅潮させ口元を押さえて視線を逸らした。
「ふ、……っはぁ、な……んだよ、急に!」
 僅かに頬に朱が差した光司が息苦しさを訴えて首を揺らすまで舌を絡め合い、名残惜しげに啄ばむ音を立て、樹は唇を離した。悪戯に引く銀の糸を舐め取り、荒く呼吸を繰り返す光司をよしよしと撫でる。
「俺がどれだけ光司を愛しているか、見せ付けたいと思ってねぇ」
 悪びれず笑顔で答える樹に耳を赤くした光司は、「恥ずいだろうが!」と言い放って獣のような呼吸に戻った。その様子を呆然と眺めていたヴラドへ、相変わらずの笑みを保ったまま、樹は問い掛ける。
「君には、パートナーへの愛はあるのかな?」
 その問いに、今度こそヴラドは返すべき言葉を失った。