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【一 地下用水路 14:15】
 蒼空学園敷地の真下に広がる、網目のような地下用水路。
 天井も壁も床も、全てが灰色のコンクリートで造形された、殺風景なシーンの連続である。
 異なる点があるとすれば、通路に沿う形で流れる、漆黒の水面がいささか不気味な底の深い水路と、天井付近に設置された照明の、ややくすんだ色合いの光であろうか。
 だが、この時ばかりは勝手が違った。
 用水路清掃班に参加していたアリア・セレスティ(ありあ・せれすてぃ)の目の前に、それは、さも当たり前のように落ちていた。
「こ、こ、こ……これ……っ!」
 喉の奥で声が詰まり、そこから先は言葉にならない。ビーストマスターであるアリアには、それが動物の類ではないと、咄嗟に理解出来た。
 ミイラである。その形状から、明らかに人間のミイラであると分かった。
 それも、ただのミイラではない。つい先ほどまでアリアと同じ清掃班のチームの一員だった、蒼空の生徒と同じ衣服をまとっているではないか。
「どうか、したのでありますか?」
 アリアの背中に、草刈 子幸(くさかり・さねたか)の訝しげな声が投げかけられた。
 子幸は、厳密にいえば清掃班員ではなかったし、更にいえば、蒼空の生徒でもない。しかしどういう訳か、ちょっとした用事で蒼空学園周辺にまで足を伸ばした上、何故かパートナー達とはぐれて用水路の中に踏み込んできてしまっていたのである。
 たまたまアリア達清掃班と遭遇し、迷子になるのだけは免れたが、どうやら事態はきな臭い方向に転がり始めているらしい。

 突然、前方の水面で何か大きな質量の物体が水面を叩く音がした。
 アリアの全身から、冷や汗がどっと噴き出した。
(な、なにか……居る!)
 清掃班としての服装や道具しか身に着けていない為、今のアリアは完全な丸腰であるといって良い。ここで何かに襲われたら、ひとたまりもないだろう。
 更に通路脇の水面上を、何かが迸るような気配が走った。
「さ、子幸さん! ここは危険……っ!」
 いいながら後方に右手を押し出そうとしたアリアだが、その掌に、べちゃりと嫌な感触が伝わってきた。慌てて自身の右掌を引いて目の前にかざすと、生臭い粘液が指先から手首までを覆うように、べっとりと張りついているではないか。
「くそっ! 子幸!」
 遥か後方から、複数の足音が駆け寄ってくる。
 だが、アリアの視線はそれら足音の主に対してではなく、自身の足元後方に転がる、一瞬前まで子幸だったと思しきミイラと、そのすぐ脇に佇む不気味な影に釘付けとなっていた。
 全身が濃緑のぬめった体皮に覆われ、濡れそぼった黒髪の間からは両生類を思わせる無感情な黒い瞳が覗いている。
 大きく開かれた上下の唇の奥には鋭い牙が幾つも並んでおり、汚らしい唾液が糸を引いて滴っていた。

 アリアの悲鳴が地下用水路内にこだますと同時に、草薙 莫邪(くさなぎ・ばくや)鉄草 朱曉(くろくさ・あかつき)の両名が甲羅を背負う謎の化け物めがけて殺到した。
「てめえ! 同じ目に遭う覚悟は出来てんだろうな!」
 莫邪が、背丈ほどもある大太刀に光条のエネルギーを乗せて振りかざした。
 だが、腰を抜かしてへたり込んでいるアリアと、彼女の脇に転がるかつて子幸だったミイラとを傷つけぬように、細心の注意を払いながらの攻撃である。どうしても力の加減が必要だった。
 その為、莫邪の大太刀は予想外に素早い化け物にかわされた。と思う間もなく、化け物は莫邪の背後に回ろうとした。
 しかしそれよりも早く、朱曉のシャープシューターによる一撃が、化け物の頭部に直撃した。
 化け物の頭部に張りつく硬質の黒い円形物体に、僅かながら亀裂が走る。
「バカツキ! お前どこ狙ってやがる! もちっと、まともなとこ狙え!」
「いやいやいや、ぶりええ感じで決まっとるけぇ、心配せんでええ」
 朱曉が獅子族特有の豊かな長髪を華麗に揺らしながら、飄々と笑った。実際、朱曉のいう通りだった。
 化け物は甲高い耳障りな叫びをあげ、水路に没した。
 莫邪が追いすがりざまの一撃を浴びせる間もなく、敵の姿はもう、どこにも見当たらない。
「くそっ! ええい、くそっ!」
 ぎりぎりを奥歯を鳴らし、地団太を踏む莫邪。隣では、朱曉がのんべんだらりとした表情で、ぼんやりと水面を眺めている。そのあまりに気の抜けた所作にかちんときた莫邪は、苛立たしげに吼えた。
「お前がもたもたしてっから、逃げられたじゃねぇか!」
 しかし朱曉は、澄ました顔で小さく肩をすくめて、曰く、
「かばちぃたれんな。どうせすぐ、あっちから来よるけぇ」

 アリアの悲鳴は更に、別の方面にも殷々と響いていた。
 アルバイトで清掃班に参加していた獣 ニサト(けもの・にさと)は、ぎょっとした表情で、悲鳴が聞こえてきた方向を凝視した。
「なぁ……あれってやっぱ、悲鳴、だよな?」
「わざわざ確認するまでもなく、普通に悲鳴と考えれば宜しい」
 どこか冷ややかな声音で、田中 クリスティーヌ(たなか・くりすてぃーぬ)は面倒くさげに応じた。
 クリスティーヌにしてみれば、誰のものかも分からぬ悲鳴などより、軽く迷子になっている自分達の現状の方が遥かに問題なのである。
 しかも迷子の原因となった張本人が、目の前で遠くからの悲鳴に気をとられているニサト自身であった。呆れるなという方が無理な話であろう。
 ところが、ものの数秒としないうちに、ニサトの表情が見る見るうちに恐怖と驚きとがない交ぜの色へと変じていた。その視線が、とある一点に固定されている。
 クリスティーヌは何事かと、ニサトの視線を追った。
 瞬間、クリスティーヌの面に緊張が走った。ニサトのように、あからさまには感情を出さないのは流石というべきであろうか。
 僅か数メートルの距離。ふたりと同じ水路脇通路に、あの化け物が凝然と佇んでいた。勿論、アリア達が遭遇した化け物と同じ姿である事実は、分からない。
 だが、推測は出来る。
 ニサトは咄嗟に、あの悲鳴を引き起こした主が、目の前の化け物であると察した。
 その化け物が突然、ニサトめがけて殺到してきた。ニサトはニサトで、ほとんど反射的に背を向けて、通路を遁走し始めた。
「どわぁっ! き、来たぁ!」
「あ、こら、ちょっと……!」
 化け物に追われるニサトを、更にクリスティーヌが追いかける。傍から見ると、何ともいえない奇妙な構図であった。

     * * *

 ところ変わって、地下用水路・第三ゲート前。
 迷路のように入り組んでいる蒼空学園地下用水路へと潜るには、幾つか存在するゲートのいずれかをくぐらなければならない。
 加能 シズル(かのう・しずる)率いる救援班は、この第三ゲートからの進入を、校長山葉 涼司からいい渡されていた。
「なんか、妙に静かだね」
 白 舞(はく・まい)が眼鏡のフレームを軽くつまんで、階段下方に見えるトンネル口を覗き込む。少し前までは勢いに任せて突入する気構えだった舞だが、シズル率いる救援班に見つかってしまい、半ば強制的に加入させられたのである。
 仕方がないので、突入後にいっちょ気合入れて大見得切ってみるか、などと考えながらコンクリート製の白い壁が続くトンネルの奥を眺めていると、その傍らを、波羅蜜多特有の薄汚れたツナギ姿が通り過ぎた。
「あ、ちょっと、勝手に行かないように……」
「へっ、うるせぇよ。パートナーが目の前で倒されてるのをぼけっと見てたような雑魚が、偉そうな口きいてんじゃねぇ」
 呼び止めようとしたシズルに、ツナギ姿のその男白津 竜造(しらつ・りゅうぞう)が罵声で返す。
 一瞬、場が凍りついた。
 シズルは表情こそ変えないが、その瞳の奥にかっと怒りの炎が沸き起こるのを、左右に控えた小鳥遊 美羽(たかなし・みわ)ベアトリーチェ・アイブリンガー(べあとりーちぇ・あいぶりんがー)が見逃さなかった。
「ちょっと、駄目だよシズル! あんな奴の挑発に乗ってちゃ、レティーシアちゃん助けられないよ!」
 長いツインテールの髪を揺らしながら、美羽がいつになく真剣な様子で早口に諭す。
「そうですよシズルさん。ここは我慢、我慢で……」
 ベアトリーチェが美羽に続いてそこまでいいかけた時。
 突然、水柱があがった。

 階段を下り切った付近の、地下用水路へと続く通路の脇には、青々と陽光に映える水面が滔々と飛沫をあげて流れている。通路よりも更に幅広のその流れの奥底から、人型の物体が跳躍し、宙に舞っていた。
 ほとんど動物的な反射神経のみで、竜造は手にした長ドスを頭上に掲げて振り向いた。直後、鈍い衝撃が腕から肩へと伝わる。
 目の前に、濃緑のぬめった肌が見えた。
「てめぇ! 良い度胸して……」
 いいかけた竜造だが、そこから先は言葉にならなかった。
 脇から飛んできた衝撃に、対処出来なかったのである。
「こ、こいつら! 殺気も無しに、突然か!」
 同じく救援班に参加していた風森 巽(かぜもり・たつみ)が慌てて臨戦態勢に入って、シズルの前に飛び出す。厳密にいえばシズルよりも下段に踏み出してきた訳だから、シズルの下に、と表現するのが正しいが。
 しかし注目すべきは巽の台詞である。彼はこいつら、と叫んだのだ。
 つまり――。
「えぇっ! な、なんなのよこれ! 聞いてないよ!」
 美羽が慌てたのも無理はない。一体どこからこれだけの数が湧いてきたのかと度肝を抜かれる程の大群が、彼女達の前に飛び出してきたのである。
 その全てが、濃緑の肌と巨大な甲羅、そして頭頂部には黒い円盤の、あの化け物どもであった。
「貴公ら! ここは我らに任せて、先に進んでくだされ!」
 巽が、東條 カガチ(とうじょう・かがち)椎名 真(しいな・まこと)に呼びかけた。指示を受けたふたりは一瞬、互いの顔を見合わせる。両人揃って、妙な表情を浮かべていた。
「いや、まぁ、行けっていわれれば行くしかないんだけどねぇ」
 カガチが、やや困った様子で小首を傾げた。真も同様の反応を示している。
「どうしました! 我らの心配なら無用ですぞ!」
 巽が化け物どもに相対してこちらに背中を向けたまま、更に声を励ましていう。が、しかし。
「いえ、その、何というか……心配云々以前に、ここ突破出来るのかなぁ、と思って」
 確かに、真のいう通りである。
 これだけの数の敵が密集している中を、確実に抜いて行けるのかと問われて、是と答えられる者がどれだけ居るのか。
 そこへ、舞がクナイを振りかざしてカガチと真の前にひらりと降り立った。
「だったらここは、あたしにお任せ! 突破口を開いて進ぜるよ!」
「……あ、そう。んじゃあ、頼んでみようかなぁ」
 そんな訳で、舞が先導役となって地下用水路への突入を試みる運びとなった。
 とはいえ、矢張り数が多過ぎる。舞は一瞬、己の力量に自信が持てなくなってしまった。
 助け舟を出したのは、ベアトリーチェだった。彼女が仕掛けた重力コントロールが、舞達の前方に群がる化け物達をコンクリートの通路床面に押さえ込んだのである。
「今です! 私が怪物の動きを止めているうちに!」
 内気なインテリといった風貌からは想像も出来ない程の勢いで、ベアトリーチェが叫んだ。舞、カガチ、真の三人はようやくトンネル内へと足を踏み入れる。
 事件勃発以降、清掃班以外で最初に地下用水路へともぐり込んだのが、彼らであった。