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リアクション
5.タシガンのアフタヌーンティー
「うん、今日はちょっと音が重たいようだ。湿度が高いせいかな」
アップライトピアノの鍵盤に落とした視線を壁の湿度計の方にむけて、早川 呼雪(はやかわ・こゆき)はつぶやいた。
霧深きタシガンでは、楽器の調整は湿度との戦いでもある。乾燥によるひび割れなどはないものの、うっかりするとカビなどで音色が変わってしまう。日々の手入れは怠ることができない。
とはいえ、ピアノの調律は特殊な技能を必要とする。早川呼雪にできることは、今日のピアノの音がどのようなものか聞き分けることぐらいだ。メンテナンスが必要だと思えば、それを手配すればいい。
そうでなければ、その日のタシガンの気分に合わせて、ふさわしい音と旋律を奏でてやればいいというだけのことだ。
「今日は、ノクターンがふさわしいな」
ピアノの前に座ると、早川呼雪はゆっくりと演奏を始めた。
白と黒の鍵盤の上を、十本の指が華麗に踊り始める。
しばらく自分の世界に没頭してピアノを弾いていた早川呼雪だったが、ふと我に返ると、壁際の椅子にパートナーのユニコルノ・ディセッテ(ゆにこるの・でぃせって)が座っていることに気づいた。
演奏していると、いつもこうだ。他のことは目に入らなくなってしまう。いったい、いつ頃からユニコルノ・ディセッテはそこにいたのだろう。
「気づかないなど、パートナー失格だな。ずっと俺につきあわなくてもいいんだぞ」
なんだか無理につきあわせているような気分になって、早川呼雪はユニコルノ・ディセッテに言った。
「いいえ、お邪魔でなければ、ここにいさせてはいただけませんか。それとも、御迷惑でしょうか?」
「それは構わないが……」
なぜと、早川呼雪は聞き返した。
「編み物をしたいのですが、呼雪様のピアノの旋律に合わせると、編み棒がよく動くんです」
「そういうものなのか?」
そんな効果が曲にあるのだろうかと、早川呼雪はちょっと首をかしげた。
「はい。それに、私はここにいたいのですが、それではだめでしょうか」
「好きにすればいい。いや、好きにすべきだな」
「はい」
嬉しそうにユニコルノ・ディセッテが答えると、早川呼雪は再び演奏を始めた。
ゆったりと、言葉のいらない優しい時間が過ぎていった。
「いたいた。やっぱり、コユキのピアノだったんだ」
早川呼雪の演奏を聞きつけて、ファル・サラーム(ふぁる・さらーむ)が現れた。
「コユキ〜、もうすぐお昼だよ〜。おなか空かない?」
「もうそんな時間か。ユノも手を止めないか。みんなで、食事にでも行こう」
あらためて気づいたとばかりに、演奏をやめた早川呼雪は、二人のパートナーに声をかけた。
「はい」
「わーい、ごはん」
素直に、二人が早川呼雪に賛同する。
「そうだな、校外のカフェにでも行くか」
そう言うと、早川呼雪はすっくと立ちあがった。
☆ ☆ ☆
「特訓? またいったい、何をおっぱじめるつもりだい」
突然リオン・バガブー(りおん・ばがぶー)に呼び出されたラック・シード(らっく・しーど)は、不安気に聞き返した。
「そう特訓です。すでに私の特訓は終えました」
「終わっただって……」
「すでに、裏山はトラップ地獄ですよ」
どういう意味だと聞き返そうとするラック・シードに、リオン・バガブーは満足そうに答えた。
「どうでしょう。ただで突破しろとは言いません。勝った方が、一つだけ相手の言うことをなんでも聞くということでは」
「うーん……、よし、乗ったぜ!」
少し考えた後で、ラック・シードはそう叫んだ。
「じゃあ、頂上に使い古しのティーバッグがありますから、それを持ってきてください。がんばってください」
「おう。絶対に、俺様の下僕にしてやるぜ」
そう言いきると、ラック・シードは意気揚々と裏山に出かけていった。
☆ ☆ ☆
「今日も、霧が深いですね」
日課の散歩をしながら、ジェイムス・ターロンはつぶやいた。
歩き慣れた道だからこそ迷わずに進めるが、そうでなければ迷ってしまいそうな霧の深さだ。
「おっと、これはこれは」
注意して進む霧の中から、突然台車が現れてジェイムス・ターロンは歩みを止めた。見れば、同業の執事が、なにやら荷物の載った台車を一所懸命に押してくる。確か、あれは丘の方のお屋敷に勤めている執事のはずだ。
「これはこれは、精が出ますな」
「おや、どうも」
声に気づいて、相手の方も挨拶をしてきた。
「買い出しですか?」
「まあ、そんなところです。実は、主がフリーマーケットにはまってしまいまして。いろいろな物を買ってこなければならなくて、困っているところですよ。最近は、遠くヒラニプラまで行かされる始末で……。おっと、愚痴は御法度でしたな。では失礼」
そう言うと、執事はがらがらと台車を押して、霧の中へと消えていった。
☆ ☆ ☆
「遅いですね……」
もう日が暮れるというのに、ラック・シードは帰ってこない。リオン・バガブーはちょっと心配になって、寮の外で彼の帰りを待っていた。
「少し、罠をきつくしすぎたかな」
自分がしかけた罠の数々を思い出しながら、リオン・バガブーはつぶやいた。
とはいえ、罠をしかけるというのも、そんなに簡単なことではない。落とし穴を掘るのは、はっきり言って体力勝負だった。振り子の丸太をロープでつるすのには、かなり苦労した。ロープに引っかかると飛んでくる竹槍も、一本一本枝を落として作った物だ。跳ね上がるネットの罠も、ネット自体は手編みなのだ。
罠は、一つ一つが芸術だと言ってもいい。
とはいえ、自分の罠に獲物はかかってほしいが、ラック・シードには罠にかかるようなへまはしてほしくない。何があっても、生きて自分の隣に立っていてほしいのだ。その意味では、自分を乗り越えるぐらいの人物でないと困る。
「それにしたも、遅い……」
リオン・バガブーは、だんだんイライラとしてきた。まさか、最後にしかけた、催涙ガスの罠に引っかかったのではないだろうか。あれは、会心のできだ。もし引っかかっていたら、一時的に視力まで失って、大変な目に遭っているだろう。
「おっ、帰ってきたか」
やっと現れた人影を見て、リオン・バガブーはほっと胸をなで下ろした。ところが、ラック・シードはよろよろと数歩歩いたかと思うと、ばったりと倒れてしまったのだ。
「うーん」
ラック・シードが意識を取り戻したのは、寮の自室のベッドの上だった。いつの間にか、しっかりと介抱されている。点眼薬でも差されたのか、目の痛みも消えていた。
「まったく、こんなにぼろぼろになって、なっさけない」
「ううっ、行きはよかったんだ、行きは」
リオン・バガブーに思いっきりさげすんだ目で見られて、ラック・シードは唸った。
往路は、順調に罠を回避できたといってよかった。だいたい、無駄にいつもリオン・バガブーの罠の実験台になっているわけではない。彼のパターンはもう身体に染みついている。ところが、最後のガスの罠に引っかかったのは失敗だった。おかげで、まともに目が見えなくなってしまったのだ。かろうじて、おぼろに風景は把握できたので下山できたものの、往路で華麗に回避してきた罠の大半に、ことごとく引っかかるという悲劇に見舞われた。結果、ぼろぼろで何とか帰還できたというところだ。
せっかく調子よく進めたのに、調子に乗りすぎて酷い目にあった。これでは、リオン・バガブーに何を言われるか分からない。ラック・シードは、がっくりと落ち込んだ。
「まあ、それでも生きて帰ってきたのですから、今回は勝ちを譲るとしますか。でも、完勝ではなく、辛勝というところですね。さあ、何がお望みですか。このくらいの望みなら、かなえてあげますよ」
人差し指と親指の隙間を一センチほど空けて、リオン・バガブーは言った。
「じゃあ、紅茶くれ」
「いいでしょう」
そう言うと、リオン・バガブーはとびっきりの紅茶を入れるために立ちあがった。
6.ツァンダのディナー
「じゃあ、行ってきます」
早朝、なんだかせわしない様子の島村 幸(しまむら・さち)は、いそいそと玄関のドアを開けた。
「なんで、こんな朝早くに、それも一人で先に出かけるんですか?」
ちょっと理解不能だとばかりに、同居しているガートナ・トライストル(がーとな・とらいすとる)が訊ねた。
「いいんです。物事には段取りというものがあるんですから。先に行って待ってますので」
そう言い残すと、島村幸はあわてて外へ駆け出していった。
今日は初めてのちゃんとしたデートの日なのだが、どうして一緒に出発しないのだろうかと、ガートナ・トライストルはしきりに首をかしげるしかなかった。本来なら、家からエスコートしていきたいところなのだが、女心とは複雑怪奇なものだ。
とにかく、幸に合わせて喜ばせるのが自分の務めだと、ガートナ・トライストルはじっと時間まで待つことにした。
一方、早く出た島村幸は、その足でコンビニにむかっていた。今日は、波羅蜜多ビジネス新書刊『週刊初めてのデート』の発売日なのだ。今日の日のために、ずいぶんと前から島村幸が愛読していた雑誌である。
「あったあった。これで、論理武装は完璧です」
一部しか入荷しない雑誌をひっつかむと、島村幸はそれを買って公園へと急いだ。
「おや、見知った顔が走っていったようであるが。まあいいか」
島村幸の姿に気づきかけた変熊 仮面(へんくま・かめん)だったが、今日は休日だ、深く考えずにコンビニの中へと入っていった。
「おねえちゃん、これくれ」
売れ残っていた唐揚げ弁当を手に取ると、変熊仮面はレジにさし出した。
「あら、変熊君、今日は裸じゃないんだ」
馴染みのレジのお姉さんが、ちょっと意外そうな顔をする。
「ああ、あれはよそいきなんで」
そう答える変熊仮面に、レジのお姉さんはちょっと残念そうな顔をした。
実際、今日の変熊仮面は、赤いどてらに赤いマフラー、下はぶかぶかのもんぺという姿である。裸がよそゆきというのもおかしな話だが、ある意味、裸こそ男の一張羅であるのだから間違ってはいまい。
「また今度、変なことしにきてねー」
レジのお姉さんの意味不明の言葉に送られて、変熊仮面は公園へとむかった。
行きつけの公園には、馴染みの猫がいる。唐揚げを餌に、今日こそ彼女をモフるつもりだ。
で、唐揚げをちらつかせたのだが、いっこうに猫は現れない。
「猫ちゃんやーい。うーん、茂みにでも隠れているんだろうか。いっそ、シャンバランの必殺キックをパクって茂みを蹴っ飛ばせば、出てきて……。いやいやいや、そんな乱暴なことをしては猫ちゃんがかわいそうだ」
服を着ているときの変熊仮面は、案外常識人のようである。
その頃、同じ公園のベンチに座っていた島村幸は、一心不乱に雑誌を読んでいた。
「やっぱり、デートのときは何時間も前に待ち合わせ場所に来ていなければならないとあります。そして、遅れてきた彼氏に、『ううん、今来たところ』って言うのが聖なる儀式というわけですね。そしたら、『冷えたろう、ハニー』と言われてだきしめてもらえるってちゃんと書いてあります。これぞ、必勝の方程式」
島村幸は時間も忘れて、その怪しいデート本を読みふけっていった。
「ええと、幸、待ちましたか」
ふいに声をかけられて、島村幸はびくっと飛びあがった。いつの間にか、ガートナ・トライストルが目の前に立っている。
「う、ううん、今来たところ♪」
ずっとベンチを温めていて、今来たところもないものだ。
――とりあえず、現れた彼に突進していきます。ここであなたを受け止められないような彼は男として、キマク周辺では生きていけません。(波羅蜜多ビジネス新書刊『週刊初めてのデート』より)
「ガートナー!」
「ぬおっ!?」
いきなり突進されて、ガートナ・トライストルが面食らう。こ、これは、来るのが遅かったので怒っているのか!?
――彼の反応がいまいちならば、いったん逃げましょう。獲物が逃げれば、彼の狩猟本能が目覚めるはずです。少なくとも、パラ実では、それが基本的な男女のコミュニケーションとなっています。(波羅蜜多ビジネス新書刊『週刊初めてのデート』より)
「ははははは、つかまえてごらんなさーい」
「おい、幸、いったいどうしたんです」
わけが分からず、ガートナ・トライストルはいきなり逃げ出した島村幸の後を追いかけて走り出した。
「ああ、ガートナが私を追いかけてきます。やっぱり、正確な事前情報は大事なんです」
幸せいっぱいで両手を横に広げ乙女走りを続けていた島村幸ではあったのだが……。
「ダイナミィィィック! ダイナミィィィック!」
突如、公園の茂みから現れたどてら男から、島村幸はもろにキックを受けて吹っ飛ばされた。
「でてこーい、にゃんこー。もふもふさせろー」
やはり、変熊仮面の常識は長くは持たなかったらしい。
「きゅう×」
「大丈夫か、幸」
あわてて駆け寄ったガートナ・トライストルが、島村幸をだきあげた。力を失った島村幸の手から、雑誌が滑り落ちる。
「また、こんな物を信じ込んで。活字がすべて正しいわけではないのですよ」
「そんなこと言われても……」
いきなり自分が頼りにしていた物を否定されて、島村幸が涙ぐんだ。
「君は君のままであることが、私にとって最上なのです。だからこんな物に頼る必要はないのですぞ」
そう言うと、ガートナ・トライストルは軽く島村幸の頬に口づけた。
「ああっ、バカップルがいるぞ、バカップルだ!」
それを見た変熊仮面が、すべてをぶちこわすように叫んだ。
「あの変態……、せっかくのいいところを……」
ほんわかしていた島村幸の中に、ふつふつと怒りがこみあげてくる。
「変態ではない、変熊だ! ああ、こんな格好をしているから分からないのだな。よし、今その証拠を見せてやる!」
そう叫ぶと、変熊仮面は自らのズボンを一気にずりおろした。
「やっぱり変態です! 吹き飛ばせ、私のフル属性全力攻撃!」
完全にキレた島村幸が、全属性魔法を駆使した連続コンボ攻撃で変熊仮面をぼこぼこにハメ回す。
「あー、これ結構痛いよ……」(V)
立て続けに炸裂する各種魔法が、変熊仮面をピンポン球のように前後左右に弾き転がす。
「奈落の鉄鎖でお空へとホームラン!! 輝け、変態お星様☆」
最後の一撃で、変熊仮面が遙か上空へと吹っ飛ばされていった。
「あーあ、なんとか生きていればいいのですがね」
お星様となって消えた変熊仮面のことを思って、ガートナ・トライストルはつぶやいた。本当は、自分の手でとどめを刺してやりたかったのだが、あまりに間に入る隙がなかったのだ。
「死ねばいいのです」
両手を腰にあてて、島村幸が吐き捨てるように言う。それを見て、思わず、ガートナ・トライストルが忍び笑いをもらした。
「元気になったようですね。では、どこかのお店で少し休みましょう。今度は、私にエスコートさせてください」
そう言うと、ガートナ・トライストルは、島村幸に手をさしのべた。
☆ ☆ ☆
「うーん、この焼き栗最高だよねー」
袋から取り出した栗に爪を立てて殻をむきながら、ミミ・マリー(みみ・まりー)はほくほくと顔をほころばせた。
「もうちょっと大丈夫かな」
いや、本当はこんな所で道草を食っている場合ではない。バイトシフトの突然の変更で出かけていったパートナーの瀬島 壮太(せじま・そうた)に、お弁当を届けなくてはいけないのだ。早く行かないと、昼休みが終わってしまう。
とはいえ、近道しようとして入った公園で、偶然見つけた焼き栗屋台の誘惑もまた抗しがたいものだったのだ。
「まだ、いいよね」
そう自分に言い聞かせながら、ミミ・マリーはもぐもぐと栗をほおばった。
「ひゃあぁぁぁぁぁぁぁ……」
「なんなんだもん?」
突然響き渡る悲鳴に、ミミ・マリーは顔をあげた。空から、彼女めがけて変態が落ちてくる。
「きゃあ!」
ミミ・マリーは悲鳴をあげると、あわててその場を離れた。
「ぐわっ。あちちちちちちち……」
落ちてきた変熊仮面が、焼き栗屋台の焼けた石に激突して悲鳴をあげる。
「きゃあ、変態なんだもん」
ミミ・マリーは悲鳴をあげて逃げ出した。
「明日早いからもう寝る!」(V)
そう叫んだきり、変熊仮面はばったりと倒れた。
「変態が落ちてくるなんて、これは、きっと天罰なのかも……」
初心を思い出して、ミミ・マリーは、瀬島壮太がバイトしている銀細工屋「銀の月」に直行した。
「遅い!」
待ちかまえていた瀬島壮太が、デコピンでミミ・マリーを迎える。
「いったあい」
「いいから早く弁当をよこせ。休み時間がおわっちまう」
ミミ・マリーの持ってきたサンドイッチを奪い取ると、瀬島壮太は一気にそれをほおばった。
「むっ、うぐっ……」
「はい、お茶」
のどを詰まらせる瀬島壮太に、ミミ・マリーが水筒のお茶をさし出した。
「ふう。ありがとうよ。おまえも一つ食べるか?」
「ええと、とりあえずいい」
ほっぺたに栗の破片をくっつけたまま、ミミ・マリーはそう答えた。
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