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我らに太平の時は無し――『恋愛訓練』――

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我らに太平の時は無し――『恋愛訓練』――

リアクション

 ルース・メルヴィン(るーす・めるう゛ぃん)ナナ・マキャフリー(なな・まきゃふりー)との待ち合わせ場所にて、期待を胸に彼女を待っていた。
 何に対する期待かと言えば、彼女の着てくるであろう浴衣である。
 ただでさえ可愛いナナの事だ。きっと浴衣姿もとんでもなく可愛いに違いない。あぁ楽しみだ。楽しみな余り予定の時刻よりも一時間早く来ちゃって周囲から怪訝そうな視線が雨霰だけど、そんな事が気にならないくらいに楽しみだ。
 と、要するに惚気に溺れている訳であった。
「あの……遅くなっちゃってすいません」
 右手を顎に当てて視線を上に向けて妄想を繰り広げていたルースだったが、ナナの声が耳孔を撫ぜるとすぐさま、そちらへと向き直る。
 そして我知らずの内に、彼は言葉を失い呼吸さえも忘れた。
 淡い桜色の布地に真紅の椿が咲き誇る浴衣は、彼女の白磁のような肌と艶やかな銀髪の美しさを一際浮き彫りにさせていた。
 彼女が抱える穏やかな気質と雰囲気もまた、浴衣の淑やかさと調和して、その魅力を深めている。
 図らずもぽかんと開いたルースの口からタバコが零れ、それによって初めて彼の意識は現実へと引き戻された。
「えっと……何か、おかしかったですか?」
 彼の呆然を違和感に兆すものと勘違いしたのか、少し不安げにナナは尋ねる。
「とーんでもない! まさか、その逆ですよ! あんまりにもナナが可愛すぎて、その……言葉を失っちゃいましてね」
 始めこそ彼女の勘違いを否定すべく勢い良く、しかし言葉を続ける内に次第に面と向かって伝えるのが気恥ずかしくなり、ルースは目を逸らし頭を掻きながらぽつり呟く。
 ナナは驚きの表情と共に口元に手を当てて、けれどもすぐに嬉しそうに小首を傾げながら微笑んだ。
「さて……ともあれ、花火まではもうちょっと時間があるみたいですね。暫く出店でも回りましょうか」
「はい、お任せします。……しっかりエスコートして下さいね?」
「……そりゃ勿論! 任せといて下さいよ!」
 はぐれぬように手を握り、酷い人混みでは身を挺して道を作り、気遣いは欠かさない。
 そうして幾つかの出店を回り、ふと目に留まった綿菓子の屋台に二人が立ち止まった時だった。
 立ち止まっている筈のナナに、一人の男がぶつかった。ぶつかってきた、と言うべきか。
「あっちい! おうおうどうしてくれんだよ! たこ焼きで火傷しちまったじゃねえか!」
 凄んだ形相と恫喝でナナに因縁を吹っ掛ける男は、吉永 竜司(よしなが・りゅうじ)
「落とし前付けてもらうぜえ!? そうだな、姉ちゃんよ。そんな伊達気取りの野郎ほっといて俺と遊ぼうぜェ? その方が楽しいに決まってらあ」
 前半のいちゃもんはともかく、後半に至っては本心で言っているから、彼はたちが悪い。
 彼は自身を超カッコいいイケメンと思っている為、この因縁付けでさえ女の子への慈善事業が半分程度の認識なのだ。
 カッコよさを魅せ付ける一環として彼は幸せの歌を唄い上げるが――それもやはり、祭りの華やいだ空気もそこに満ちた熱も全て死に絶え兼ねない程の音痴振りだった。
「……でも、今のは貴方様がぶつかってきたのではありませんか? それに私、今夜はこの人と一緒に過ごす事になってますので……。申し訳ありませんが、他を当たって頂けませんか?」
 ナナは見た目とは裏腹な気丈さを見せて、竜司に反駁する。
 もっともその態度も彼女自身が元々、感情の露呈が少ないが故の事であって。実際には竜司の見えない背面にて、彼女の手は小刻みに震えを帯びていた。
「あぁん? この俺より、そんな奴の方が良いってえのか? んじゃ姉ちゃんよお、そいつの事どう思ってんだあ? それを聞かせてくれりゃあ俺も大人しく引き下がらあ」
 竜司の問いに、ナナは答えられない。当然だ、この祭りには『禁句』と言うものがあり、竜司の質問は明らかにそれを誘っているのだから。
「何でえ、やっぱり答えらんねェじゃねえか。だったらホラ、大人しく俺と一緒によお?」
 竜司の無遠慮で乱暴な手が、ナナの震える手を強引に掴む。
 瞬間、これまで無言と精悍を貫いていたルースが、動いた。
 ナナを掴む手の小指を掴み、捻じり上げる。
 堪らず竜司がナナから手を離した所で二人の間に体を割り込ませる。竜司に関しては小指は解放しながらも懐に潜り、腕を制する形でだ。
 そのまま浴衣の左袖から右手でナイフを抜き竜司の右首筋に添え、左腕は右腕と交差させて竜司の後ろ首に手を絡める。
 ここから竜司がどう暴れ、抵抗しようと試みた所で、彼が首から深紅の徒花が咲かせる事になるかどうかは完全に、ルースの心持ち次第だ。
「祭りの場でこんな光り物を出すのは気が引けたんで黙ってたんですけどね。……ここらで引いてもらえませんかねえ。火傷に関しちゃ謝りますし、お望みとあらばたこ焼きだって弁償しますから」
 言葉の上でこそ提案と頼み事の建前を保っているが、その本質は命令だった。
 ナナが傍にいる事と祭りの空気を壊したくない事から口調こそ平時と変わらぬが、彼の心中では憤怒の炎が轟々と燃え盛っているのだ。
 彼の迫力に竜司は思わず、萎縮する。
「しょ……しょうがねえなあ! んじゃあ、今日はこの辺にしといてやるよ! けっ!」
 負け犬全開の捨て台詞を吐き捨てて、彼は早々に剣呑たる場を後にする。
 嘆息を一つ零してナイフを袖にしまい直し、ルースはナナへと向き直った。
「すいませんね。もっと早く助けるべきでした」
 申し訳なさげにするルースに、ナナは首を横に振る。
「そんな……私が乱暴されたら、すぐに助けてくれたじゃありませんか。……素敵でしたよ」
 不意打ちのような笑顔と褒め言葉に、ルースは照れ隠しの苦笑いを浮かべて、彼女から目を逸らした。
 時に、ナナ・マキャフリーは先程『禁句』の使用を避けはしたが。それでも彼女は、ルースに愛を伝える事を諦めてはいなかった。
「ところで、ルースさん」
 何とかして、それとなく愛の言葉を仄めかそうと言う、腹積もりでいたのだ。
「……今宵の晩御飯、お肉やお豆腐、お野菜などをワリシタと呼ばれるダシで煮て食べる鍋にしようと思うのですが……なんといいましたでしょう?」
「えーっと……ワリシタ?」
「うっ……そう言えば、普通の殿方には伝わりにくい単語でしたか……! じゃ、じゃあ……」
 何か無いものかとナナは周囲を見回す。
 ふと、彼女はリア充達と凄絶な殴り合いを展開する一団を見つけた。
「おや、あちらでは血盟団でしょうか……まさに殴り『あい』ですね。昔から殿方は拳で気持ちを伝え合うと言いますけど、私達の気持ちも通じ合うといいですね?」
「ナナを殴るって事ですかい? そりゃあ無理な相談ですよ!」
 やはりいまいち意味は伝わらないままだった。

 
 朝霧 垂(あさぎり・しづり)ルカルカ・ルー(るかるか・るー)は、それぞれ運営委員の一員として『禁句』に対する調査を行っていた。
 とは言っても他の教導団員のように身を隠したり指向性のマイクを用いたりしてではなく。
 単に祭りに参加しているだけの一学生を装って、要は覆面監査員としての事だった。
 記録機器は携帯のメモや写メに留め、録音用のマイクもウェストポーチに隠すなどの工夫を施している。
「うーん、タレちゃん。どう思うー?」
「どうとも言えないな。今の所教導団の人間以外や、結局最後にぶっちゃけちゃったりだし。あぁでも、マリアとノインは何か仕掛けてたみたいだ。何を仕掛けたのかは、悔しいけど分からなかったけどな」
「録音した音声とか、後で洗ってみたら?」
「どうだろうな。他の連中が使ってる指向性の奴ならともかく、隠匿する為にポーチに仕込んだだけのマイクじゃ、そんな鮮明には拾えてないかもしれない」
 自分達が監査員である事がバレぬよう、二人は携帯のメールを介して会話を行う。
 そんな中二人は図らずも、ルースとナナを見つけた。
 何やら言葉を交わしているらしい彼らに対し、二人は聞き耳を立てる。
「……アレは、どう思う?」
「……何で気が付けないのか不思議に思う。ともあれ、アレはちょっと直接的過ぎるんじゃないかな」
「んじゃ、そこらの運営委員さんに報告しとこっかー。チクりみたいでちょっとヤだけど、これも訓練だしね」
 メールを交換し小さく頷き合うと、二人は近場の出店に立ち寄る。
「「はいポトフーポトフー安いよー。あーらっしゃい、暑い夏はブイヤベースを食べるとバテないよー」
「そりゃいいねー。私は一つもらっちゃおっかな。タレちゃんはどうする?」
「あぁ、俺も一つ頼む」
「あい毎度ー」
 ブイヤベースの注がれたコップを受け取り、二人は代わりに紙切れを受け渡す。
 ルースとナナが禁句に触れている旨を記した紙切れを。
 文面に素早く目を通し紙を丸めゴミ箱に放ると、ブラダマンテ・アモーネ・クレルモン(ぶらだまんて・あもーねくれるもん)は支給されたヘッドセットの指向性マイクの電源を入れる。
 そうしてルース達の会話を拾い、内容を検めると――彼女は唐突にポトフの皿を両手に抱え、二人の元へと向かい始めた。
「お客さん――残念ながらdisqualifi、ですわね。このポトフは罰則を受ける前のせめてもの情けですのよ」
 屋台のおっちゃん風の口調を何処か冷冽な騎士の口振りへと戻し、彼女の言語だろうか――決して良い意味ではないであろう言葉を告げ、二人にポトフの皿を差し出す。
「はぁ? 罰則って……あ、もしかしてさっきのアレはそう言う意味だったんですか! いやあもう可愛いなあ! そんなナナも俺は大好きですよ!」
 彼女の意図に漸く気づいたルースは、胸に込み上げる喜びを禁じ得ない。
 そしてそのまま勢い余って、つい『禁句』を口にしてしまった。
「あ……」
 ルースとナナが同時に声を零し、口を抑えるが、もう遅い。
 『禁句』と言う口実を得た嫉妬の徒、先程殴り合いをしていた血盟団達が、彼らの八方を取り囲む。
 ルース一人がどう立ち回った所で、打破出来る数ではない。
「こりゃちょっと、マズいかもしれませんねえ……」
 だが直後、二人を包囲する人垣に一筋の閃光が走った。
 黒い閃きの正体はナナのパートナー、音羽 逢(おとわ・あい)
 ルースとの逢引を不安に思った、もとい女性に飢えた教導団の祭りに参加したナナを心配して密かに尾行を働いていた彼女が、二人の逃走経路を切り開いたのだ。
 よく見てみると口元が綿菓子でも食べた後であるかのように光っているが、気のせいである。
「さあナナ様! ルース殿! 今の内に!」
 逢に促され、ルースはナナの手を引いて逃走を図る。
 とは言え、幾ら包囲を抜け出したとは言え依然周囲には共同団員や、血盟団もしくは在野の嫉妬の徒が蠢いているのだ。
 二人の逃走劇など、ものの数分続けば上出来である。
「……今大好きと抜かしやがった奴は誰だあああああああああ! 愛の言葉が響く所に嫉妬の炎あり! 嫉妬刑事シャンバラン! 只今参上ッ! リア充なぞまとめて粉砕してくれる!」
 騒動を更に掻き乱し増大させる嵐のような男、嫉妬刑事シャンバランが現れさえしなければ。
 いや、彼だけではない。
「キャー! 誰よ私のスカート捲ったの!」
「ひぃい! 待ってくれ! 俺の何がいけなかったんだ! 教えてくれよぉ!」
 唐突に、リア充集団の中で悲鳴が次々と上がり出す。その元凶たるは、
「なーっはっはっは! ざまあみやがれリア充共! この俺をピンクな空気を打ちのめして嘲笑しやがった報いだ! ホラもっと泣き喚け!」
 釣り具やその身を蝕む妄執を手当たり次第カップル連中に繰り出す、国頭 武尊(くにがみ・たける)である。
「愛とは不思議な物、運命の出会いは多々あれど、その愛の行方は何処に……。しかし、アイが必ず訪れるのは、アルファベットのHの後だけだぁ!! って事で、自称愛の伝道師、緒方章参上! 早速だけど、人の恋路を邪魔するヤツはぶっ潰しちゃうよ。覚悟してねぇ〜!」
 更には祭り開催時の嫉妬刑事を彷彿とさせる、高所に上り手には拡声器を携え叫ぶ緒方 章(おがた・あきら)までもが闖入して、いよいよ場は混沌を極める。
 華やかで甘い色恋の空気は瞬く間に阿鼻叫喚へと変貌して、だからこそルースとナナはその場から逃れる事が可能となった。
「うむ、これは僥倖で御座る。……さて、仕上げに援護をしておくで御座るよ」
 人混みの彼方に逃げ去るナナ達を認め、逢は頷く。
 そうして最後の仕上げにと、さざれ石の短刀を投擲する。
 だが援護射撃のスキルを持っている訳でもなく、代わりに生来うっかり属性を持ち合わせる彼女が放った短刀は――狙いが逸れてルースの頭に、刺さった。
 石製の短刀である為命に関わるような深手にはならないが、それでも彼の頭からの出血は免れない。
「あぁ!? しまったで御座る! 今日は迷子になる事もなくて安心していたと言うのに!」
 しかし後悔は先に立たず。幸いにもナナにナーシングの技術があった為止血や血痕に関しては問題ないだろうが、それでも流れた血が戻る訳では無いのだ。
 
 何とか人気のない所にまで逃げ延びた二人だが、ルースは貧血、ナナは走り疲れと、散々な有様だった。
 だけども、それが二人の不幸になり得るかと言えば、そんな事はない。
 それどころかナナはルースがふらついている事さえ良しとして、押し倒し、口付けと共にぎゅっと抱きついた。
「……うふふ、転んじゃいました。アクシデント、なのですよ」
 悪戯な微笑みを見せた後に、ナナはルースの頭を抱え、膝枕をする。
 短刀の刺さった傷の様子を確かめた後に、彼女は彼の頭をそっと撫でた。
「いちち……いやはや面目ない。みっともない限りですねえ」
 冗談めかした音律で、苦笑いと共にルースは零す。
「まさか。ルースさんはしっかり手を引いてくれて、身を挺して道を開いてくれたじゃありませんか。嬉しかったですよ、私」
「はは、そう言ってもらえると……救われますねえ」
 ルースの笑いから苦味が抜け落ちる。
 そして同時に、膝枕をされた彼の視界に、夜空に咲いた花火が映った。
 一時、二人はぼうっと、ただ黒いキャンパスに描かれる彩り鮮やかな花を見上げる。
「……ルースさん」
 不意に、ナナが彼の名を呼ぶ。
 返事を待たずして、彼女は続ける。
「どうせもう『禁句』は使っちゃいましたし……私も言っちゃいますね」
 そうして満面の笑顔と共に、彼女は告げる。
「……私も、大好きですよ。愛してます」