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善悪の彼岸

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善悪の彼岸

リアクション

★プロローグ



「こほっ――こほっ――」
 色褪せた桃色のワンピース姿の少女は、立ちあがり、小さな小さな咳の後、すぐにしゃがみ込み、ぎゅっと胸元を掴んで青白い顔を歪めた。
 額に、首元にうっすらと脂汗を浮かべる少女の呼吸は、空気が漏れるかのようなか細いものだった。
「ヒュッ――ヒュゥッ――! ヒュッ、ヒュゥゥ――ッ!」
「――ッ、エリザッ!?」
 黒の祭服に身をつつんだ初老を迎えたばかりの男が駆け寄ると、そのまま何人もの名を連ね叫ぶように呼びながら、少女の軽い身体を抱きかかえた。
 男の呼応に、黒ずみ、欠け始めた石造りの出入口の影から、男の子が3人顔を覗かせた。
「すぐに医者を呼んできてくださいッ!」
 普段は温厚な『先生』の、普段は柔和の『父親』の、普段は敬虔な『神父』の一言に男の子達は驚き、そして事の重大さを敏感に察知し、互いに顔を見合わせ頷き、駆けて行った。

「ウワッ、とッ! ごめんよ、ニイチャンッ!」
 ビル陰から飛び出してきた少年とぶつかったカールハインツ・ベッケンバウワー(かーるはいんつ・べっけんばうわー)は、少年の背を目で覆いながら路地裏に足を向け、壁に背を預けた。
「ここが落ち着くってのは、悪事に手を染め続けたオレらしい……」
 先にぶつかった少年に、己の過去をダブらせながら、カールハインツは呟いた。
 ああやって、人から盗んだものだ――。
 それしか幼きカールハインツは生きる術を知らなかった。
 食いつなぐ術を知らなかった。
 やがて人であるが故、善悪の対極に揺れたカールハインツは、自己正当化のために義賊に――即ち、腹を汚い稼ぎで肥やした者を狙う存在へとなっていった。
 そしてその報復は、愛する女性の死へ。
 憎しみも善悪も何もかもを心の奥底に仕舞い込み、人1人さえ守れなかった自分を悲劇扱いしてきた。
 だが、過去の仲間は未だ悪事を働き、そして、人1人を守ろうとしている事実に、カールハインツは揺れていた。
 奴――ミュラーは自分が成せなかったことに未だ犠牲を払いながら必死に足掻いている。
 それがどこか羨ましくさえ思い、そして、そこに自分がいないことに悲しみさえ覚える。
 しかし、しかし、だ。
「オレはどうすればいいんだ……」
 もはやカールハインツを正してくれる女性は傍にいない。
 天を仰ぎ、届くはずのない手をカールハインツは伸ばし続けた。

 月夜の光が、かざした掌の指の隙間から洩れ、ユルゲン・ミュラーの顔を照らした。
「俺の悪い癖さ……。だが、なあ……いつかはわかってくれるだろう?」
 ユルゲンの言葉の端々は、苦渋の色があり、その重さに耐えきれず地に堕ちて行った。
 義賊が悪?
 ならば、人様の金を毟るように私腹を肥やす者は善悪のどちらだろうか。
 ならば、貧しく、小さな背中で必死に生きる者達に奪った金を配るのは善悪のどちらだろうか。
「全て知ってる。全て知ってるから、黙れよ……」
 ユルゲンを惑わすのは、世の価値観、固定観念、既成概念、道徳、思想、宗教、教育。
 そんな多岐にわたる道から、一本筋の通ったモノを選ぶには、これしかないのだ。
 あえて義賊らしく振舞い、行い、伝わってこそ、いずれこの苦しみから解放されるのだと信じていた。
「いずれ、いずれ俺は認められるはずだ。それでこそ俺は……」

 ――苦しみ。
 ――苦しみ。
 ――苦しみ。
 全てを解き放つために、舞台は月夜とともに、ヴィシャス邸へと移る――。